丸メガネの人物史~日本編(学者・文化人)その1

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メガネの原点は実は「丸」です。

現代のように枠にあわせてレンズを削るのではなく、昔は丸いレンズを削らずにそのまま枠に入れるという方式だったので、自然と枠は丸になったわけです。昔の有名人で丸眼鏡の顔写真を思い浮かべる人は多いのですが、それは、昔は丸か楕円しかなかったからです。

明治・大正・昭和初期と多くの学者や作家、政治家が丸メガネをかけていました。

学者や作家の丸メガネは、今でもなるほどと納得させられる部分がありますが、現代では、政治家が丸メガネをかけている「図」というのはまったく見当たりません。

いわゆる「現代のメガネ」をかけている政治家よりも、明治・大正・昭和初期に丸メガネをかけていた政治家のほうが、より人情があり、また、政治に対する理想や志の高さを感じるのは、気のせいでしょうか?




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1880年(明治13年)以前


《生年順》
生年 名前
1852 高村光雲
1853 北里柴三郎
1855 菊池大麓
1859 坪内逍遥
1861 小栗貞雄
1862 牧野富太郎
1862 新渡戸稲造
1863 徳富蘇峰
1863 油屋熊八
1864 二葉亭四迷
1864 伊藤左千夫
1865 白鳥庫吉
1865 長岡半太郎
1866 金子直吉
1867 宮武外骨
1867 豊田佐吉
1868 内田魯庵
1868 徳富蘆花
1868 北村透谷
1869 大町桂月
1870 本多光太郎
1870 西田幾多郎
1872 田山花袋
1872 島崎藤村
1873 与謝野鉄幹
1873 美濃部達吉
1873 津田左右吉
1873 泉鏡花
1873 河東碧悟桐
1875 柳田國男
1876 高野辰之
1876 中村天風
1877 飛田周山
1878 岡野貞一
1878 有島武郎
1878 荒井寛方
1879 滝廉太郎
1879 河上肇
1879 永井荷風


<生年順>

高村光雲

高村 光雲(たかむら こううん、嘉永5年2月18日(1852年3月8日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は仏師、彫刻家。東京生まれ。詩人・彫刻家の高村光太郎、鋳金家の高村豊周は息子。写真家の高村規は孫。仏師高村東雲の門に入って木彫を学び、高村姓を継ぐ。
明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は無く、木彫も輸出用の象牙彫刻が流行し衰え、光雲自身の生活も苦しかった中で木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。
1877年内国勧業博覧会で最高賞を受賞。1886年東京彫工会を設立。1890年から東京美術学校に彫刻科教授として勤務、山崎朝雲、など後進の育成にも尽力した。代表作は「老猿」「楠公像」「西郷隆盛像」など。UP





北里柴三郎

北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう、嘉永5年12月20日(1853年1月29日) - 昭和6年(1931年)6月13日)は、日本の医学者・細菌学者。男爵。「日本の細菌学の父」として知られ、門下生からはドンネル先生(ドイツ語で雷おやじの意)との愛称で親しまれた。現・東京大学医学部卒業後、ドイツベルリン大学へ留学し、コッホに師事。血清療法という画期的な手法を開発、1890年にはその手法をジフテリアに応用し、同僚ベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。ベーリングはこの業績によりノーベル賞を受賞するが、北里は候補に挙がったのみであった。1892年に帰国後、福沢諭吉により慶應義塾大学に私立伝染病研究所が設立され、初代所長となる。1894年にはペスト菌を発見するという業績をあげた。1914年に伝染病研究所が東大に帰属させられると北里は新たに私立北里研究所(北里大学の母体)を設立し、狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。UP





菊池大麓

菊池 大麓(きくち だいろく、安政2年1月29日(1855年3月17日) - 大正6年(1917年)8月19日)は、明治・大正期の数学者、政治家。幕末・明治初期に、2度イギリスに留学し、ケンブリッジ大学で数学・物理学を学ぶ。帰国後1877年(明治10年)、東京帝国大学理学部教授となり、近代数学を初めて日本にもたらした。同大学総長、学習院院長、京都帝国大学総長、理化学研究所初代所長等を歴任、1902年(明治35年)には男爵を授けられた。政治的手腕もあり、帝国学士院会員及び同第8代院長、貴族院勅選議員、文部省専門学務局長、文部次官、文部大臣、枢密顧問官等を歴任した。長女・多美子は憲法学者の美濃部達吉と結婚。孫の美濃部亮吉も政治家である。UP




坪内逍遥

坪内逍遥 安政6年5月22日(1859年6月22日) - 1935年2月28日)は、明治時代に活躍した小説家、評論家、翻訳家、劇作家。現岐阜県美濃加茂市出身。本名は坪内雄蔵。
26歳のときの評論『小説神髄』によって、小説はまず人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐと論じ、この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。しかし逍遙自身これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示された。
早稲田大学の演劇博物館は、逍遙のシェイクスピア全訳の偉業を記念して建設されたものである。UP





小栗貞雄

小栗貞雄(文久元年1861年生まれ)衆議院議員矢野龍渓の弟。江戸時代幕臣小栗忠順の子の国子と結婚し小栗家に養子入り小栗家十四代として家督を継ぐ。
大隈重信の立憲改進党の結成に、兄・龍渓と共に参加して「郡区長公選論」を演説し、明治21年には改進党員を中心に組織された明治倶楽部に加わるなど政治の実践活動を行う。龍渓の意をうけて報知新聞の改革を推進し、31年8月には、衆議院議員となり一期つとめる。産児制限論を報知新聞に発表したり、社団法人実費診療所を設立し、医師加藤時次郎や実業家鈴木梅四郎と共に、社会改良主義に根ざした医療の社会化を目指した。UP





牧野富太郎

牧野 富太郎(まきの とみたろう、文久2年4月24日(1862年5月22日) - 1957年(昭和32年)1月18日)は、日本の植物学者。高知県出身。「日本の植物学の父」と言われ多数の新種を発見し命名も行った、近代植物分類学の権威。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして「牧野日本植物図鑑」に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得、生まれた日は「植物学の日」と制定された。
亡き妻の名を冠したスエコザサのエピソードはよく知られているが、私情を挟んだ献名は例外的であり、シーボルトが愛人お滝を偲んでアジサイに オタクサの学名を命名したことについては激しく非難している。ちなみにオタクサの由来をシーボルトは日本での地方名だと著書に述べていたものが事実に反し、お滝に献名したものであることをつきとめたのも牧野である。UP





新渡戸稲造

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、文久2年8月8日(1862年9月1日- 1933年10月15日)は、農学者、教育者。国際連盟事務次長も務め、著書 『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著と言われている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。
かなり熱しやすい硬骨漢であったが、学生時代にキリスト教に深い感銘を受け、敬虔なクエーカー教徒となり、後に妻となるメリー・エルキントンと出会うことになる。教授として札幌農学校に赴任した際に、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニアで転地療養中に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。 UP




徳富蘇峰

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、文久3年1月25日(1863年3月14日) - 昭和32年(1957年)11月2日)は、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、歴史家、評論家。徳富蘆花は弟。
戦前・戦中は亜細亜モンロー主義を主張する大思想家として多くのファンを有したが、戦後は評価が一転した。しかしながら、60年以上にもわたる言論活動と300冊に及ぶ著書は、近代日本の歩みと矛盾を体現したものであったとも言えよう。『近世日本国民史』は1918年(大正7)に起稿し、1952年(昭和27)に完結。史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書である。UP




油屋熊八

油屋 熊八(あぶらや くまはち、1863年(文久3年) - 1935年(昭和10年)3月24日)は、大分県別府市を日本有数の温泉地に育てた実業家。別府観光の生みの親と言われる。亀の井旅館(現在の別府亀の井ホテル)を創業。バス事業にも進出し、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始した。様々な奇抜なアイデアで別府の宣伝に努め、別府の名前を全国に広めたが、地獄めぐりもその一つ。UP





二葉亭四迷

二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、男性、元治元年2月28日(1864年4月4日) - 1909年(明治42年)5月10日)は、日本の小説家、翻訳家。二葉亭四迷の由来は、文学に理解のなかった父に、「くたばってしめえ!」といわれたことから。
江戸市ヶ谷生れ。東京外国語学校露語科中退。

坪内逍遥と交流を結び、その勧めで評論『小説総論』を発表。1887年から91年の間に出された写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の先駆となった。また、ロシア文学の翻訳もよくし、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」は特に有名。自然主義作家へ大きな影響を与えた。
後に『其面影』『平凡』を書いたが、1909年、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で客死した。UP




伊藤左千夫

伊藤左千夫(いとう さちお、元治元年8月18日(1864年9月18日) - 大正2年(1913年)7月30日)は日本の歌人、小説家。本名 幸次郎。現在の千葉県山武市の農家出身。正岡子規に師事。1905年には、子規の写生文の影響を受けた小説『野菊の墓』を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価される。代表作に『隣の嫁』『春の湖』など。
左千夫は茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けた。UP





白鳥庫吉

白鳥 庫吉(しらとり くらきち、元治2年2月4日(1865年3月1日) - 1942年4月1日)は、東洋史学者、文学博士。東京帝国大学(現 東京大学)教授。千葉県出身。邪馬台国北九州説の提唱者として有名。弟子に津田左右吉など。外交官、政治家の白鳥敏夫は甥。
東大在学中はルートヴィヒ・リースに師事。その後学習院教授、東京帝国大学文科大学史学科教授を歴任。更に東宮御学問御用掛として東宮時代の昭和天皇の教育にも携わる。
1910年に「倭女王卑弥呼考」を著し、「邪馬台国北九州説」を主張。時を同じくして同時期の著名な東洋学者で「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称せられた京都帝国大学(現京都大学)の内藤湖南教授が「卑弥呼考」を著し畿内説を主張。東大派と京大派に別れ激しい論争を戦わせた。
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長岡半太郎

長岡 半太郎(ながおか はんたろう、1865年8月15日(慶応元年6月28日) - 1950年12月11日)は、日本の物理学者。長崎県大村市生まれ。土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。また、東京帝国大学教授として本多光太郎や仁科芳雄など多くの弟子を指導し、初代大阪帝国大学総長や日本学士院院長などの要職も歴任した。1937年、初代文化勲章受章。ノーベル賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一郎は仁科の弟子であり、長岡から見れば孫弟子にあたる。なお、朝永の父朝永三十郎は同じ大村市出身ということで、長岡とは旧知の仲であった。
1900年パリで開催された万国物理学会では、キュリー夫妻など当時の有名物理学者とともに参加、磁歪の研究成果を報告。1922年アインシュタインが来日で日本中でアインシュタインブームが起こった際は、宮中にて相対性理論の講義を行った。
原子核の周りを回る電子の問題については、1913年、ニールス・ボーアがボーアの原子模型を発表するに至って解決を見たが、それは、明治37年(1904年)に長岡が提唱した土星型の原子モデル(理由を厳密に説明できなかったことから当初余り注目されなかった。)と同じであった。
UP





金子直吉

金子 直吉(かねこ なおきち、慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日)は日本の実業家。丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の「大番頭」として、大正時代に三井財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ、財界のナポレオンともいわれたが、昭和2年3月の金融恐慌で、台湾銀行による新規融資が打ち切られ、三井物産や三菱商事のように系列銀行を持たなかった鈴木商店は、資金調達が不能となり、事業停止・清算に追い込まれた。
鈴木商店崩壊のきっかけとなった米買い占めのデマが原因で、その汚名から社会的配慮に欠ける商人と解されることもあった。一方で、現場主導の分権的経営という『日本的経営』の一つのモデルを試みた起業家の一人であり、また強引と見られる事業の拡張も、貿易の主導権を日本人の手に、という明治のナショナリズムに突き動かされたものであった。倒産後に私財蓄財がなかったこともその表れである。 鈴木商店焼打ちをテーマにした小説に城山三郎著『鼠』がある。
子息に、東京大学文学部長を勤めた哲学者の金子武蔵がいる。UP




宮武外骨

宮武 外骨(みやたけがいこつ、慶応3年1月18日(1867年2月22日) - 昭和30年(1955年)7月28日)明治~昭和期のジャーナリスト、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。幼名は亀四郎。
現在の香川県綾歌郡綾川町小野に庄屋宮武家の四男として生まれた。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けた。外骨の出版した刊行物の中でももっとも有名な『滑稽新聞』は、明治34年に大阪で創刊され、記事の大半を自ら書いた。寄稿は編集者によるものを含め、ほとんどがペンネーム。時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い、現代の週刊誌に相当する内容で、外骨の記事は巧みに仕込まれた毒とパロディー精神に富み、さらに挿絵も腕の良い職人の手になるもので、一般大衆に人気を博した。最盛期の部数は8万部。この時代の雑誌としてはトップクラスの売れ行きだった。UP





豊田佐吉

豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の実業家、発明家。豊田自動織機の創業者。
1890年に東京での内国勧業博覧会にて外国製織機の設計を参考にして「豊田式木製人力織機」を発明。この「木製人力織機」はコストの安い木を多用して当時まだまだ高価だった金属類は必要最小限に抑えた為、当時主流だった外国産の機械より一桁安い価格で瞬く間にシェアを広げた(この無駄を抑える発想は後の『トヨタ生産方式』の原点となる)。1902年に豊田商会を設立、今日のトヨタグループの礎を築く。UP





内田魯庵

内田 魯庵(うちだ ろあん、慶応4年4月5日(1868年4月27日) - 1929年(昭和4年)6月29日)は、明治期の評論家、翻訳家、小説家。本名貢(みつぎ)。別号不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)など。江戸下谷車坂六軒町(現東京都台東区)生まれ。画家の内田巌の父。
小説では知識人の内面の空白や葛藤をリアルに描いた『くれの廿八日』や社会各層の矛盾を風刺的に描いた『社会百面相』が刊行され、社会小説の第一人者として評価される一方、1892年、『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてデビュー(英語からの重訳)。以後ヴォルテール、アンデルセン、ディケンズ、デュマ、ゾラ、モーパッサン、シェンキェヴィッチ、ワイルドなどの翻訳を発表した。トルストイ『復活』の翻訳(1905年)も有名。1901年、書籍部門の顧問として丸善に入社。丸善の顧問を務めるうちに蔵書や書誌・図書館・出版事情といった文壇以外の世界に関心を拡げることになった。本格的な芭蕉研究から、他愛もない玩具の話にいたるテーマの多彩さは魯庵の意義の一部であり、その思想の鉱脈はいまだに語り尽くされていない。UP




徳富蘆花

徳冨 蘆花(とくとみ ろか、明治元年10月25日(1868年12月8日) - 昭和2年(1927年)9月18日)熊本生まれの小説家。徳富蘇峰は実兄。
同志社英学校に学び洗礼を受ける。同志社を中退後、兄徳富蘇峰の経営する民友社に入る。民友社の国民新聞に連載した「不如帰」は明治屈指のベストセラーとなり、それに続くエッセイ「自然と人生」などにより一躍人気作家に。39年(1906)エルサレム巡礼に出、トルストイも訪問。40年(1907)東京現世田谷区へ転居、半農生活に入る。国家主義的傾向を強める兄蘇峰とは長らく絶交状態であったが、昭和2年(1927)伊香保で療養中に和解、蘆花は「後のことは頼む」と言い残してその翌日に死去した。UP




北村透谷

北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日(明治元年11月16日) - 1894年(明治27年)5月16日は、明治期に近代的な文芸評論をおこなった人物。詩人。島崎藤村らに大きな影響を与えた。UP





大町桂月

大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は、日本の高知市出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。雅号の桂浜月下漁郎はよさこい節にも唄われる月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。東京帝国大学国文科卒。和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介、北海道層雲峡の名付け親でもある。大雪山系の黒岳の近くには、彼の名にちなんだ桂月岳という山がある。故郷の桂浜には「見よや見よ みな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ」の歌の碑がある。UP





本多光太郎

本多光太郎 明治3年2月23日(1870年3月24日) - 昭和29年(1954年)2月12日)は、愛知県碧海郡矢作町(現岡崎市)生まれの物理学者。電磁研初代理事長。
東京帝国大学理科大学物理学科を経て、ドイツおよびイギリス留学後、1911年に東北帝国大学教授となった。1931年に同大学総長に就任。1937年に第1回文化勲章を受章し、1949年には東京理科大学学長となっている。
本多は1917年にKS鋼を、1934年に新KS鋼を発明しており、その何れもが当時の世界最強の永久磁石であった。無類の実験好きとして知られる。本多が輩出した研究者たちは「本多スクール」の出身者ともいわれ、研究者としてだけでなく教育者としてもその才能を発揮していたといえよう。UP





西田幾多郎

西田 幾多郎(にしだ きたろう、明治3年4月19日(1870年5月19日)- 1945年(昭和20年)6月7日)は、日本を代表する哲学者。京都大学教授。京都学派の創始者。UP




田山花袋

田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日(明治4年12月13日) - 1930年(昭和5年)5月13日)は、日本の小説家。本名、録弥(ろくや)。群馬県(当時は栃木県)生れ。
尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩、柳田国男らと交わる。「蒲団」「田舎教師」などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。紀行文にも優れたものがある。UP




島崎藤村

島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日-1943年8月22日)は、日本の詩人、小説家。木曾の馬籠 (現在の岐阜県中津川市)生れ。明治学院卒。『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。ほかの作品に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親相姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説『夜明け前』など。UP




与謝野鉄幹

与謝野 鉄幹(よさの てっかん、1873年(明治6年)2月26日 - 1935年(昭和10年)3月26日)は、歌人。与謝野晶子の夫。後に、慶應義塾大学教授。
晶子の類まれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、晶子と3度目の再婚。六男六女の子宝に恵まれた。しかし、結婚後の鉄幹は極度の不振に陥る。栄光に包まれる妻の影で苦悩に喘いだ。1915年には、第11回総選挙に故郷の京都市選挙区から無所属で出馬したが、落選した。1935年(昭和10年)気管支カタルがもとで死去。晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」という悲痛な追悼の歌を捧げた。次男与謝野秀は外交官として活躍。秀の長男が衆議院議員与謝野馨である。UP




美濃部達吉

美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年5月7日- 1948年5月23日)は、日本の男性憲法学者。
勲一等旭日大綬章(1948年)。UP




津田左右吉

津田 左右吉(つだ そうきち、明治6年(1873年)10月3日-昭和36年(1961年)12月4日)は、岐阜県美濃加茂市下米田町出身の歴史学者。
日本古代史研究の第一人者として知られる。古事記や日本書紀、特に神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして厳格に文献批判を行った。神話(皇国史観)を否定する「津田史観」は皇国史観学派と対立した。また、実証主義的史学により神話を否定するも天皇制については擁護論を唱えマルクス史観派からは攻撃された。UP




泉鏡花

泉 鏡花(いずみ きょうか、1873年11月4日 - 1939年9月7日)は明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家である。金沢市下新町生れ。
尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深くうけた怪奇趣味と特有のロマンチズムで知られる。作『婦系図』『歌行燈』『夜叉ヶ池』など。
尾崎紅葉の『色懺悔』を読んで大いに衝撃を受け、文学に志すようになる。鏡花にとっての紅葉はもっとも敬愛する小説家、文学上の師であると同時に、無名時代の自分を書生として養ってくれた恩人であり、鏡花は終生このことを徳として旧師を慕いつづけた。UP





河東碧悟桐

河東碧悟桐(かわひがしへきごとう 明治6(1873)年-昭和12(1937)年 愛媛県松山市出身の俳人。本名秉(へい)五郎。
明治20年伊予尋常中学に入学。虚子とは同級。明治22年帰省した子規からベース・ボールを教わったことがきっかけで、俳句にたずさわることになる。子規の死後、碧悟桐は「俳句の新傾向」を主張し、定型や季題にとらわれない自由律の句をつくるようになり、後に荻原井泉水、種田山頭火らに受け継がれていった。碧悟桐の新傾向運動に対し、虚子は五・七・五の定型調や季題といった伝統を守る立場を主張し、虚子を中心とする「ホトトギス派」は、近代俳句の中心勢力として発展していった。俳句では対立した二人であったが、その友情は終生変わる事はなく、碧悟桐の死に際して、虚子は「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」と述べ、次の句を詠んだ。

たとふれば こまのはぢける 如くなり

昭和8年還暦を機に俳界から引退した。昭和12年没。享年65歳。UP




柳田國男

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8)7月31日 - 1962年(昭和37)8月8日)は、日本の民俗学を学問として構築した。農政学を学び、のち民俗学者となった。なお柳田の読みは「やなぎだ」ではなく「やなぎた」である。UP




高野辰之 岡野貞一
高野辰之(たかのたつゆき)
1876年4月13日(明治9年)-
1947年1月25日(昭和22年)
岡野貞一(おかのていいち)
1878年2月16日(明治11年)-
1941年12月29日(昭和16年)
高野と岡野は年齢も近く、コンビで多くの唱歌を作った。
その中の代表作として、今も知らぬ人がない「故郷」があるが、
他に、「春の小川」「春が来た」「おぼろ月夜」「紅葉」などの
名曲も、「高野辰之作詞、岡野貞一作曲」である。UP




中村天風

中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1968年12月1日)は日本初のヨーガ行者。天風会を創始し、心身統一法を広めた。東京都生まれ。福岡の親戚の下で剣術、居合を修行。現・修猷館高校では柔道部エースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した相手に闇討ちされ、その復讐を行う過程で相手を刺殺(ただし正当防衛は認められた)、修猷館を退学になる。その頃、玄洋社の頭山満の知遇を得、16歳の時、陸軍の軍事探偵となり、満州へ。軍事探偵として活躍し「人斬り天風」と呼ばれたという。日露戦争後30歳で、病気の為に弱くなった心を強くする方法を求め、欧米を転々とするも、納得のいく答えを得られず。1911年日本への帰国の途上、カイロにてインドのヨーガの聖人、カリアッパ師と邂逅。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガのふもとで2年半修行を行う。1913年日本へ帰国途上、中国で孫文の第2次辛亥革命に「中華民国最高顧問」として協力。その謝礼として財産を得、東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。1919年突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。政財界の実力者が数多く入会するようになり、発展。1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。1962年国の認可により「財団法人天風会」となる。1968年12月1日死去。享年92。UP





飛田周山

飛田周山(ひだしゅうざん、1877年(明治10年)-1945(昭和20年)) 日本画家
飛田周山(本名飛田正雄)は茨城県に生まれ、久保田米僊、竹内栖鳳、橋本雅邦に学んだ。健実な画風に特色を示し、文展、帝展等に出品し受賞を重ねた。大正9年の第2回帝展では展覧会委員、翌10年第3回帝展等に審査委員となった。日本美術院の研究会員であった周山は、郷里(現北茨城市磯原町)の関係から、明治36年、岡倉天心を福島県平地方、また五浦に案内し、これが日本美術院五浦移転の機縁となった。(茨城大学五浦美術文化研究所ホームページより抜粋)UP



有島武郎

有島 武郎(ありしま たけお、1878年 (明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日) は、日本の小説家。
学習院卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年渡米。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。
作品に、『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。UP





荒井寛方

荒井寛方(あらい かんぽう)1878~1945明治11年(1878)、氏家町の町絵師荒井藤吉の長男として生まれる。本名は寛十郎(かんじゅうろう)。明治32年(1899)上京して水野年方(としかた)に入門、歴史画を学び、明治35年(1902)国華社に入社。ここでの10年間に及ぶ仏画模写の仕事は寛方に大きな影響を与える。大正5年(1916)には詩聖タゴールに招かれてインドに渡り、アジャンターの壁画を模写。以後、それまでの古典研究とインドでの体験によって、独自の画風を形成。昭和15年(1940)には法隆寺金堂(こんどう)壁画の模写に従事するが、業なかばの昭和20年(1945)、福島県郡山駅で急逝した。UP




滝廉太郎

滝 廉太郎(たき れんたろう、1879年8月24日 - 1903年6月29日)は、日本の音楽家・作曲家。
明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。UP




河上肇

河上 肇(かわかみ はじめ、1879年10月20日 - 1946年1月30日)経済学者
京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の座を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン三十二年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー小説『貧乏物語』で知られる。死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。UP





永井荷風

永井 荷風(ながい かふう、男性、1879年12月3日 - 1959年4月30日)は、小説家。耽美的な作風で明治から昭和にかけて活躍した。号は断腸亭主人、金阜山人。
アメリカ・フランス滞在中、ワーグナーやベルリオーズの作品に親しみ、帰国後『あめりか物語』『ふらんす物語』などの小説や評論で積極的に紹介。1938年5月には浅草で自作オペラ『葛飾情話』を発表するなど、クラシック音楽の日本への普及に大きな功績をあげている。また大正中期から死の前日まで日記を書き継ぎ、大切に保存していた。戦前戦後の社会世相・風俗の変遷を活写しており貴重であるが、公表を意図して書かれている点に注意すべきである。多額の遺産(2005年現在の貨幣価値で3億円以上)を残していたことでも話題を呼んだ。晩年のストリップ通いは有名 UP






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