丸メガネの人物史~日本編(学者・文化人)その2

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ここでは1881年(明治14年)から1890年(明治23年)に丸メガネをかけた学者・文化人をご紹介します。





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1881年(明治14年)~
1890年(明治23年)

《生年順》

生年 名前
1881 会津八一
1881 伊藤友作
1882 小川未明
1882 金田一京助
1882 斎藤茂吉
1882 大倉喜七郎
1882 野村胡堂
1882 種田山頭火
1883 鳥居信平
1883 和田三造
1883 高村光太郎
1883 北大路魯山人
1883 川瀬巴水
1883 鳴海要吉
1883 前田夕暮
1883 阿部次郎
1883 橋本関雪
1883 青木健作
1883 平田華蔵
1884 山村暮鳥
1884 安田靫彦
1884 荻原井泉水
1884 吉田久
1884 竹久夢二
1885 大杉栄
1885 北原白秋
1885 野上弥生子
1885 武者小路実篤
1885 三田光一
1886 井上日召
1886 佐々紅華
1886 谷崎潤一郎
1886 藤田嗣治
1886 大川周明
1887 葛西善蔵
1887 折口信夫
1887 山本有三
1887 荒畑寒村
1887 奥山貞吉
1888 九鬼周造
1888 村上華岳
1888 賀川豊彦
1888 菊池寛
1889 内田百間
1889 室生犀星
1889 南原繁
1889 福士幸次郎
1889 久保田万太郎
1889 尾山篤二郎
1890 坪田譲治
1890 今井邦子
1890 河井寛次郎
1890 土屋文明
1890 岸田国士
1890 仁科芳雄
1890 首藤定

<生年順>




会津八一

会津八一(あいづやいち、1881年8月1日 - 1956年11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人、渾斎。1951年、新潟市名誉市民。UP




伊藤友作

伊藤友作(いとうともさく、明治14年(1881年)~昭和39年(1964年)
昭和学院創設者。「明敏謙譲」を教育理想に掲げ、幼稚園から短期大学まで一貫教育の学園を築き上げるとともに、千葉県私学団体連合会副会長等を歴任し、私学教育の振興に尽力した。
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小川未明

小川 未明 (おがわ みめい、男性、1882年4月7日 - 1961年5月11日)は、小説家・児童文学作家。本名・小川健作。雅号の「未明」は、正しくは「びめい」とよむ。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれる。娘の岡上鈴江も児童文学者。
長篇よりもむしろ短編作品に才能を発揮した。童話の代表作としては、「金の輪」、「赤い蝋燭と人魚」、「月夜と眼鏡」、「野薔薇」など。寓話性、教訓性よりも、むしろ、ロマン、詩情、ヒューマニズムなどを表現した作品が多く、子供だけでなく、大人の鑑賞にも十分に堪えうる内容をもっている。UP





金田一京助


金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年5月5日 - 1971年11月14日)は、言語学者、民俗学者。
アイヌ語研究においては、第一人者で、現代アイヌ語研究の基礎を作り上げ、アイヌ民族の叙事詩「ユーカラ」を世に広めた。1954年文化勲章受賞。

岩手県盛岡市四ツ家町(現本町通二丁目)出身。歌人、石川啄木の盛岡中学時代の先輩で親友。啄木に金をよく貸したことでも有名。郷土盛岡の風土と自然をこよなく愛した人として知られ、数多くの随筆や短歌で盛岡の自然と人情について語り、1959年には盛岡の名誉市民第一号となった。UP




斎藤茂吉

斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年5月14日(戸籍では7月27日) - 1953年2月25日)は、山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)出身の歌人、精神科医。伊藤左千夫門下。アララギ派の中心人物。長男は故・斎藤茂太。次男は北杜夫。斎藤由香は孫。
小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無かったため、親戚の、浅草の医師・斎藤紀一の家に養子に入る。中学時代から和歌の創作を開始する。高校時代に、正岡子規の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りする。
生涯に全17冊の歌集を発表し、全17907首の歌を詠んだ。UP





大倉喜七郎

大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年6月16日 - 1963年2月2日)は、男爵で大倉財閥2代目総帥。父喜八郎の事業を引き継いで財閥の発展につとめ、戦後の公職追放、財閥解体などの難局に直面しながらも、特にホテルオークラ、川奈ホテルをはじめとする、日本のホテル業に大きな足跡を残した。
文化事業にも功績があり、とくに日本近代絵画を擁護し、横山大観をはじめとする画家たちの活動を支援するとともに、海外に紹介。最初のイギリスでのカーレースで2位になるなど日本屈指の趣味人でもあり、幅広い分野で多彩な才芸を発揮した。尺八にも夢中になり、フルートと尺八を合体させた新楽器オークラウロを開発。1924年の日本棋院設立時に経済面で多大な援助をおこない、1961年には大倉喜七郎賞が創設され、2006年には日本棋院囲碁殿堂入りした。1931年に私財を投じて建設した大倉山ジャンプ競技場は、1972年札幌オリンピック90m級ジャンプの会場として使用された。気さくで気前がよく、派手好みなハイカラ男爵だったため、周囲からは「バロン・オークラ」と呼ばれて親しまれていた。
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野村胡堂

野村 胡堂(のむら こどう、1882年10月15日 - 1963年4月14日)は、日本の小説家・作家・音楽評論家。岩手県出身。
盛岡中学校の同窓生には、生涯付き合いが続く金田一京助、また、下級生に石川啄木が在籍しており、胡堂は啄木に俳句・短歌の手ほどきをしたと言われている。『銭形平次捕物控』の作者として知られるが、投げ銭をする銭形平次は、小学校時代に熱心に読んだ「水滸伝」の登場人物で投石を得意とした没羽箭張清からヒントを得たという。「あらえびす」の筆名でレコード評論等も執筆。死の直前、私財のソニー株約1億円を基金に財団法人野村学芸財団を設立。同財団は、経済面で学業継続が困難に学生等への奨学金の交付を目的のひとつとしており、これは学資の問題で学業を断念した胡堂の経験が背景になっている。
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種田山頭火

種田 山頭火(たねだ さんとうか、男性、
1882年12月3日(明治15年) - 1940年10月11日(昭和15年)は明治・大正・昭和初期にかけての俳人。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。曹洞宗の僧侶。本名・種田正一。UP




鳥居信平

鳥居信平(とりい のぶへい、1883年1月4日生まれ)、静岡県袋井市出身。
日本統治時代の台湾の最南端に位置する屏東県に独創的な地下ダムを作った日本人技師。
画期的な灌漑設備(風景や生態系を壊さず環境に配慮した工法)で、現在も地域住民に恩恵を与えている事などから、台湾の専門家たちも注目している。また、屏東県の中学校では、副教材中でも取り上げられ、今でも屏東の人々から慕われ尊敬されている、八田與一の先輩に当たる日本人技師。
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和田三造

和田 三造(わだ さんぞう、1883年3月3日 - 1967年8月22日)は大正~昭和期に活躍した洋画家。
16歳の時、画家を志して上京。黒田清輝に師事し、東京美術学校(現東京芸大)に進んだ。明治40年の第一回文展では『南風』が二等賞(最高賞)に選ばれた。小船の上に立つたくましい男のモデルは、和田が通っていた柔道場「明道館」2代目館長の河野半次郎といわれる。色彩研究にも尽力し、1945年日本色彩研究所を設立。1955年には映画『地獄門』の色彩デザインをし、アカデミー衣装デザイン賞を受賞。晩年は油彩画の他,工芸や水墨画にも活躍。 1958年文化功労者となった。
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高村光太郎

高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年3月13日 - 1956年4月2日)は芸術家詩人。東京都出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。
彫刻、絵画、詩等多方面で活躍。『智恵子抄』等の詩集が有名になり教科書にも掲載されるようになったため詩人として認識されることも多い。UP





北大路魯山人

北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん/きたおおじ ろざんじん、
男性、1883年3月23日 - 1959年12月21日)は、芸術家。本名は房次郎。
篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など様々な顔を持っていた。UP




川瀬巴水

川瀬 巴水(かわせ はすい、1883年5月18日 - 1957年11月7日)は、大正・昭和期の版画家。
幼少の頃より絵に関心を寄せて油彩画や日本画を学び、27歳で鏑木清方に師事。その後、同門の伊東深水の影響を受けて版画への関心を深めると、大正7(1918)年に処女作となる塩原3部作を発表。巴水は、"新版画運動"の一員として、処女作以来、約40年にわたり、風景版画を生み出し、日本各地の取材にもとづき、四季折々の風景を描き続けた。
衰退した日本の浮世絵版画を復興すべく吉田博らとともに新しい浮世絵版画である新版画を確立した人物として知られる。アメリカの鑑定家ロバート・ミューラーの紹介によって欧米で広く知られるところとなった。UP





鳴海要吉

鳴海要吉(なるみ ようきち、1883年(明治16年)7月9日-1959年(昭和34年)12月17日)は青森県黒石市出身の口語短歌の先駆者として知られる。島崎藤村の詩文に心酔して詩作を始めた。上京と帰郷を繰り返し、教員生活の傍ら、たくさんの口語短歌を作り、1909(明治42)年には口語での詠歌を「東奥日報」に発表。また、ローマ字やエスペラント語の普及にも努めた。昭和32年11月には黒岩市御幸公園の蝦館には要吉歌碑が建立され、「諦めの旅ではあった/磯の先の/白い燈台に/日が映して居た」の歌が刻まれた。UP




前田夕暮

前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年7月27日 - 1951年4月20日)は、明治から昭和期にかけての歌人。神奈川県大住郡南矢名村(現・秦野市)生まれ。
1902年、東北地方を徒歩で旅行。この頃より「夕暮」の号を名乗り、文学に目覚め投稿を開始。1904年、上京し尾上柴舟に師事、同時期に若山牧水も入門し、以後、交友が続いた。1906年、白日社を創立。この年、洗礼を受けクリスチャンとなる。1911年、雑誌『詩歌』を白日社より創刊。1916年、第4歌集『深林』を刊行した際に、島木赤彦が『アララギ』にて夕暮を批判、赤彦と激しく対立した。1918年、『詩歌』休刊。1923年、東海道線小田原付近で北原白秋と再会し、そのまま2人で三浦半島へ吟行の旅に出、以後、白秋との交友が続いた。1928年、『詩歌』復刊、口語自由律短歌を提唱。1942年、定型歌に復帰。1948年、亡き友人・白秋を偲び『白秋追憶』を刊行。この頃より斎藤茂吉との交友が始まる。享年69。多磨霊園に葬られる。
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阿部次郎

阿部 次郎(あべ じろう、1883年8月27日 - 1959年10月20日)は、哲学者、美学者、作家
1914年に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名で、学生必読の書であった。1917年に一高の同級生であった岩波茂雄が雑誌「思潮」(現在の「思想」)を創刊。その主幹となる。慶應義塾大学、日本女子大学の講師を経て、1922年文部省在外研究員としてのヨーロッパ留学。同年に『人格主義』を発表。真・善・美を豊かに自由に追及する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く。UP




橋本関雪

橋本 関雪(はしもと かんせつ、1883年11月10日 - 1945年2月26日)は、日本画家。神戸市生まれ。
播磨明石藩の漢学者・橋本海関の子。本名は関一。父から漢学を学び、1903年、竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り、1913年、文展で二等賞、翌年も同じ。1916年と翌年、特選を受賞。帝展審査員を務め、1934年、帝室技芸員、1935年、帝国美術院会員、1937年、帝国芸術院会員、1940年、建仁寺襖絵を製作。支那古典に精通したことでも知られ、たびたび支那へ渡った。京都の白沙村荘に住み、白沙村人と別号した。谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』の颯子のモデルとされる渡邊千萬子は、関雪の孫に当たる(娘高折妙子の娘)。
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青木健作

青木健作(あおきけんさく)本名、井本健作(1883~1964))。山口県出身。東京大学卒業。「真実なる人生と文芸の対境」で、“都会者”的文学に対し、“田舎者”的文学を提唱する文章を発表。のち、鈴木三重吉・夏目漱石らに出会い、「虻」「お絹」等の山口県を舞台にした作品を発表し独自な作風を確立した。主な著作に『お絹 虻』、『青木健作短編集』、『明治文学全集』がある。UP





平田華蔵
平田華蔵(ひらた けぞう、明治16年(1883年)~昭和43年(1968年)
平田学園創設者。仏教による女子教育を志し、大正15年に国府台高等女学院を創設。37年間の長きにわたり校長の職を務め、「敬虔、勤労、高雅」を校訓とした教育を実践した。千葉県私学団体連合会初代会長等を歴任し、私学教育の振興に尽力した。(けぞうは常用漢字を使用しています。)
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山村暮鳥

山村 暮鳥(やまむら ぼちょう、1884年1月10日 - 1924年12月8日)は、明治・大正期の詩人、児童文学者。群馬県出身。東京都築地の聖三一神学校を卒業後はキリスト教日本聖公会の伝道師として秋田、仙台、水戸などで布教活動に携わる。神学校在学中より詩や短歌の創作をはじめ、1909年、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらう。
1913年7月、萩原朔太郎、室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立。1914年3月、同社の機関誌「卓上噴水」創刊。1913年12月、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成。機関誌「風景」には萩原朔太郎、室生犀星の他、三木露風らが参加。1919年、結核のため伝道師を休職。茨城県大洗町で死去、40歳。自然のあらゆるものに神を見いだす彼独特の神学は、しばしば熱狂的な信徒を怒らせ、異端として追放された事も数多くあったという。萩原朔太郎は「彼自身の見たる如き、ちがつた意味での基督教を信じてゐたにちがひない」と、追悼文『山村暮鳥のこと』で述べている。
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安田靫彦

安田 靫彦(やすだ ゆきひこ、本名:安田 新三郎、1884年2月16日 - 1978年4月29日)は、大正~昭和期の日本画家。東京都出身。
前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに、焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ1981年、1986年、1996年に切手に用いられた。良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。また自らも皇居新宮殿千草の間に書、『万葉の秀歌』を揮毫した。
1965年東京芸術大学名誉教授。東京国立博物館評議員会評議員、文化財審議会専門委員、国立近代美術館設立準備員も歴任。門下に小倉遊亀、森田曠平、益井三重子、岩橋英遠らがいる。初代中村吉右衛門とは同年で親しく、実兄は吉右衛門門下の中村七三郎。UP





荻原井泉水

荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年6月16日(明治17年) - 1976年5月20日(昭和51年))日本の俳人。本名・幾太郎のち藤吉。東京芝区神明町(現・東京都港区浜松町)生まれ。

東京帝国大学文学部言語学科卒業。明治44年(1911年)新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰。河東碧梧桐もこれに加わった。しかし、季題について意見を異にする碧梧桐が大正初頭同誌を去り、井泉水は季題と定型を揚棄した自由律俳句を唱え、門下から野村朱鱗洞(しゅりんどう)、芹田鳳車(せりたほうしゃ)、尾崎放哉(ほうさい)、種田山頭火(さんとうか)らの作家を出した。
句集に『原泉』(1960)、『長流』(1964)、『大江』(1971)、主著に『俳句提唱』(1917)、『新俳句研究』(1926)、『旅人芭蕉(ばしょう)』正続(1923~25)、『奥の細道評論』(1928)など。65年(昭和40)芸術院会員。UP




吉田久

吉田久(よしだひさし 1884年8月21日生まれ)福井県出身。裁判官
昭和17年の衆議院選挙をめぐり、当時の鹿児島2区の選挙は無効だと判断し、司法の独立を守った判決を下した。判決の原本は空襲の際に焼失したとされ、判例集にも掲載されなかったことで「幻の判決文」となっていたが、61年ぶりに最高裁判所の倉庫で発見された。当時の選挙は、国を挙げて戦争を遂行するためという理由で、事実上国が候補者を推薦する形で行われ「翼賛選挙」と呼ばれた。推薦されなかった候補には投票しないよう呼びかけるなど、さまざまな妨害が加えられた。この選挙について、大審院(現在の最高裁)の裁判長であった吉田久は昭和20年3月「自由で公正な選挙ではなく、無効だ」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法上大いに疑問がある」と指摘して国を厳しく批判し、画期的な判決といわれた。2008年9月、これまでほとんど知られる事のなかったこの判決と孤高の裁判官の生涯を追った『気骨の判決』清水聡著が出版された。UP
「わたしは、死んでもいい。
裁判官が事件の調べに行って 殺されるのは、
あたかも軍人が戦争に臨んで
弾に当たって死ぬと 同じことだ。
悔ゆることはない」




竹久夢二

竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は、茂次郎(もじろう)。
数多くの美人画を残しており、その作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する画家である。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも詩「宵待草」には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装丁、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりとも言える。UP





大杉栄

大杉栄(おおすぎ さかえ、大杉榮 1885年(明治18年)1月17日 - 1923年(大正12年)9月16日)は、思想家、作家、社会運動家、アナキスト。
伊藤野枝との子に長女・魔子(のち真子)、次女・エマ(のち幸子)、三女・エマ(のち笑子)、四女・ルイズ(のち留意子)、長男・ネストル(のち栄)がいる。次女エマ以外は大杉・伊藤の死後、伊藤の実家に引き取られ、戸籍を届けるときに改名された。
日陰茶屋事件(当時妻子ある大杉栄と同棲中だった神近市子が、伊藤野枝に心を移した大杉栄を神奈川県葉山町の日陰茶屋に誘い出して、刃物で刺した。「新しい女」の起こした四角関係として話題になった。) などのほん放な生き方でも知られるが、1923年9月関東大震災の混乱に際して,妻の伊藤野枝,および甥(おい)とともに甘粕憲兵大尉に殺害された。
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北原白秋

北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日) は、詩人、童謡作家、歌人。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。詩、童謡、短歌以外にも、「松島音頭」や「ちゃっきり節」等の新民謡も書き、あらゆるジャンルで傑作を生んだ。生涯に数多くの詩歌を残し、「ゆりかごのうた」、「からたちの花」「この道」「ペチカ」など、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、日本を代表する詩人である。UP




野上弥生子

野上 弥生子(1885年5月6日 - 1985年3月30日)小説家。大分県臼杵市生まれ。
14歳で単身上京、夏目漱石門下で同郷の野上豊一郎と結婚。『ホトトギス』に『縁』を掲載して作家デビュー。以来、99歳で逝去するまで現役の作家として活躍する。法政大学女子高等学校名誉校長も努め、「女性である前にまず人間であれ」の言を残す。
秀吉という政治的人間と芸術的人間・利休の葛藤を描いた『秀吉と利休』は有名。
イタリア文学者の野上素一は長男、物理学者の野上茂吉郎は次男、哲学者の長谷川三千子は三男の娘。UP





武者小路実篤


武者小路 実篤 1885年5月12日 - 1976年4月9日 白樺派を代表する小説家。東京都千代田区に、子爵武者小路実世の第8子として生まれる。理想的な調和社会・階級闘争の無いユートピアの実現を目指して、宮崎県に「新しき村」を建設したが、ダム建設により村の大半が水没したため、1939年に埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。両村は現存するが、実篤自身はわずか6年で離村。村の建設など、理想主義・空想社会主義的な行動で揶揄されることもあった。UP




三田光一

三田光一(1885~1943年)
大正から昭和初期にかけて活躍した霊能力者。
浅草観音堂の裏にかけてある山岡鉄舟の文字の額面「南無観世音」を神戸(?)で透視、念写。
1917年(大正6年)名古屋県会議事堂で、桂公の肖像を念写したら、「至誠」の文字が写った。また、2日前に念じたものが写った。月の裏側の念写にも成功している。
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井上日召

井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年4月12日 - 1967年3月4日)は日蓮宗の僧侶で右翼活動家。戦前の右翼団体血盟団、戦後の右翼団体護国団の指導者。本名は井上昭。昭の字を分けて日召とす。後の日本赤軍のリーダーの重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。UP





佐々紅華

佐々 紅華(さっさ こうか、本名:佐々 一郎、1886年7月15日 - 1961年1月18日)は日本の作曲家。東京都台東区生まれ。東京高等工業学校(現・東京工業大学)卒業。 印刷会社勤務を経て、日本蓄音器商会(現・日本コロムビア)入社。東京蓄音器株式会社が新たに設立され、移籍。浅草オペラと仕事上の関係を持ち、大正期の浅草オペラのめまぐるしい転変の渦中にあって、プロデューサー、舞台監督、作曲家として活躍した。その後、日本ビクターや日本コロムビアでも作曲活動を行った。UP





谷崎潤一郎

谷崎 潤一郎(たにざきじゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、明治末期から第2次世界大戦後にかけて活動した小説家。耽美主義とされる作風で、『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し、文豪と称された。UP






藤田嗣治

藤田 嗣治(ふじた つぐはる 1886年11月27日 – 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在も、フランスにおいて最も有名な日本人画家であり、明治以降の日本人芸術家で藤田嗣治ほどの成功を海外で収めたものは他にいない。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリの代表的な画家である。私生活でも3度の結婚と離婚をしているが、彼の自由で奔放な人生は生前日本社会からは認められなかった。死後、日本政府から勲一等瑞宝章を追贈 UP




大川周明

大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、戦前の代表的な思想家の一人。敗戦後、A級戦犯として東京裁判に出廷した被告の中で唯一の民間人。起訴されるが病を理由に不起訴扱いとなる。戦後は、イスラームへの興味から、コーランの全文翻訳するなど日本のイスラーム研究にも貢献した。
大川は水色のパジャマを着、素足に下駄を履いて東京裁判に出廷した。休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がする程はたいたり、「インダー、コメンジー!(独:「インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア、コメディ!(英:「これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」と奇声を発するなど、常軌を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。翌日の法廷で、オーストラリアのウェブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した(実はこの時脳梅毒を罹っていた。)ちなみに、のちにイスラーム研究者となる井筒俊彦に、精神的にも物質的にも援助をしていたのが、大川周明だった。UP





葛西善蔵

葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年1月16日 - 1928年7月23日)は、日本の小説家である。青森県弘前市に生まれた。
1919年に創作集『子をつれて』を刊行し、作家としての地位を確立するものの、生活は困難を極めた。貧困や家庭の問題が、その真率さで読者に感銘を与える一方、妻を故郷において東京で別の女性と同棲して、子もなしたことへの批判は当時から根強く、それへの反発が葛西の作品の底流にある。40歳に近づく頃から生活も荒れ41歳で死去した。UP





折口信夫

折口 信夫(おりくち しのぶ、明治20年(1887年)2月11日 - 昭和28年(1953年)9月3日)は、日本の民俗学、国文学、国学の研究者。
釈迢空(しゃく ちょうくう)と号して詩歌もよくした。みずからの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築き、芸能史、国文学を主な研究分野とするその研究は「折口学」といわれる。同性愛者であることも知られるところであるが、「同性愛を変態だと世間では言うけれど、そんなことはない。男女の間の愛情よりも純粋だと思う。変態と考えるのは常識論にすぎない」と述べた。UP





山本有三

山本有三(やまもと ゆうぞう、明治20年(1887年)7月27日-昭和49年(1974年)1月11日) 劇作家、小説家
生家は呉服商。家業を手伝いながらも学問への願いを断ち難く、19歳で東京中学に編入、22歳で第一高等学校に入学。一高時代の同期に近衛文麿、土屋文明、芥川龍之介、菊池寛らがいる。東京帝国大学ではドイツ文学を専攻。
「真実一路」「路傍の石」戯曲「米百俵」などの作品が有名で、逆境に耐えて光明を求め成長する人間をよく描いた。戦後は参議院議員として国民の祝日の制定、国立国語研究所の設立、満年齢の採用、文化財保護法など文化政策の推進に大きな功績を残した。
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荒畑寒村

荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年8月14日 - 1981年3月6日)社会主義者・労働運動家・作家・小説家。元衆議院議員。神奈川県横浜市生まれ。
横須賀の海軍工廠に勤務する中で労働運動に参加。社会主義者の幸徳秋水や堺利彦らが発行する週刊『平民新聞』の非戦論に共鳴し、社会主義に接近する。1908年赤旗事件で検挙され入獄。出獄後、1912年に大杉栄と『近代思想』を創刊、さらに月刊『平民新聞』を発行するが、サンディカリズムを唱えた大杉とマルクス主義に立脚する荒畑との対立が次第に表面化。大杉と訣別して後は労働組合活動を続けながら、関西で活動。1920年に日本社会主義同盟・1922年に日本共産党の創立にそれぞれ参加する。戦後は全金同盟の委員長に就任するとともに日本社会党の結成に参加。1946年以降衆議院議員を2期務めた。
晩年には「死なばわがむくろを包め戦いの塵に染みたる赤旗をもて」という歌を作っている。
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奥山貞吉

奥山貞吉(おくやま さだきち、1887年-1956年)は、コロムビアの代表的な編曲家。東京都出身、東洋音楽学校卒業。
船のバンドとして外国人客などを相手にダンスミュージックを演奏したり、ハタノ・オーケストラに加わり帝国ホテルでオーケストラを演奏するかたわら、開局まもない東京放送局(NHK)で内外楽曲の編曲にあたった。浅草オペラ全盛期には金竜館で楽長をつとめ、その頃知り合った佐々紅華の勧めでコロムビアに入った。以降はコロムビアの専属作編曲家として多くの作品を残した。
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九鬼 周造

九鬼 周造(くき しゅうぞう、1888年2月15日 - 1941年5月6日)は、日本の哲学者。東京都生まれ。
父は明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一。母は周造を妊娠中に岡倉天心(隆一は岡倉のパトロンであった)と恋におち、隆一と別居(のち離縁)するという事態となった。生みの父・隆一、精神上の父・天心、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期を過ごし、後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。
東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、ヨーロッパ諸国へ足かけ8年間ものあいだ留学。ドイツに渡り、新カント派のハインリヒ・リッケルトに師事、のちフランスに渡り、アンリ・ベルクソンと面識を得、その後ふたたびドイツに留学し、今度はマルティン・ハイデガーに師事し、現象学を学んだ。九鬼は三木清や和辻哲郎などとともに日本でハイデガーの哲学を受容した最初の世代にあたり、「実存」といった哲学用語の訳語の定着をはじめとして、日本におけるハイデガー受容において彼が果たした役割は少なからぬものがあるといえる。
帰国後、没するまで京都帝国大学文学部哲学科教授として、デカルト、ベルクソンをはじめとするフランス哲学や近世哲学史、現象学を中心とした(その当時の)現代哲学などを教えた。
ヨーロッパの長期滞在の中でかえって日本の美と文化に惹かれていく自分に気づいていった彼は、帰国後、その洞察を活かして『「いき」の構造』(1930) を発表する。これは、日本の江戸時代の遊廓における美意識である「いき」(粋)を、現象学という西洋の哲学の手法で把握しようと試みた論文である。この著作が生まれた背景には、彼の生い立ちや独特の美意識、ヨーロッパという異文化体験、思想遍歴といったものが幾重にも交錯しており、そのことによってこの著作は、哲学書・美学研究書・日本文化論そのいずれの枠にも収まりきらない異色の書として、日本思想史上、際立った存在となっている。京都の法然院で、谷崎潤一郎や内藤湖南らとともに眠っている。UP





村上華岳

村上華岳(むらかみ かがく、1888年7月3日 - 1939年11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。華岳の描く仏や菩薩は、世俗性と精神性、妖艶さと聖性、官能美と悟りの境地という相反する要素が不思議に調和している。華岳の仏画は20世紀の宗教絵画の最高峰と言って過言ではないであろう。UP




賀川豊彦

賀川 豊彦(1888年7月10日 - 1960年4月23日)は、キリスト教社会運動家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。「東洋のカンジー」とも言われ、ノーベル平和賞候補にもなった。自伝的小説「死線を越えて」は当時の大ベストセラーに。現・コープこうべ(日本最大の生協)の生みの親でもある。UP





菊池寛

菊池 寛(きくち かん、1888年(明治21年)12月26日- 1948年(昭和23年)3月6日)は、小説家、劇作家、ジャーナリスト。文芸春秋社を創設した実業家でもある。UP




内田百間

内田 百間(うちだ ひゃっけん、1889年5月29日 - 1971年4月20日)は、夏目漱石門下の日本の小説家、随筆家。戦後は筆名を内田百閒と改めた.。本名は内田栄造。迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。師である夏目漱石の縁故から漱石の次男、夏目伸六と親交が深かったことでも有名。UP



室生犀星

室生 犀星(むろう さいせい、本名: 室生 照道(てるみち)、1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日)は、石川県金沢市生まれの詩人・小説家。
私生児として生まれ、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。犀星という筆名は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。戦後は小説家としての地位を確立し、多くの秀作を生んだ。
抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名である。UP




南原繁

南原 繁(なんばら しげる、明治22年(1889年)9月5日 - 昭和49年(1974年)5月19日)は日本の政治学者。香川県出身。東京帝国大学の総長を務めた。東京大学名誉教授。
2月11日の紀元節には日の丸をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化の創造」を説いた。貴族院議員時代には、単独講和を主張した当時の内閣総理大臣・吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となったことで、南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判された。アララギ派の歌人としても知られ、歌集『形相』がある。 UP





福士幸次郎

福士幸次郎(ふくし こうじろう、明治22(1889)年11月5日-昭和21(1946)年10月11日)は青森県弘前市生まれの詩人。
佐藤紅緑(こうろく)に師事。大正3年口語自由詩集の「太陽の子」を自費出版。ほとんど売れなかったが、その口語自由詩は詩壇に先駆け、萩原朔太郎をして後に「『太陽の子』の暗示なしに、僕の『月に吠える』は無かった」と言わしめた。また地方主義を宣言し、方言詩を提唱。詩における音律の研究「日本音数律論」、また古代研究にも情熱を傾けるようになり、古代鉄文化の民俗学研究「原日本考」などを著した。UP




久保田万太郎

久保田万太郎(くぼた まんたろう、1889年11月7日 - 1963年5月6日)は、小説家、劇作家、俳人。元NHK文芸課長。東京・浅草生まれ。俳号に暮雨、傘雨。小説『末枯』『春泥』『花冷え』『市井人』、戯曲『雨空』『大寺学校』、句集『道芝』『流寓抄』など。俳誌『春燈』を主宰。劇『北風のくれたテーブルかけ』など。浅草下町の情趣を描き、独自の作風を築いた。美食家、好角家としても有名。死因は梅原龍三郎邸にて設けられた宴席で、赤貝のにぎり寿司を口に放り込んだところ喉につかえての窒息死。彼らの遺作を通して東京の下町文化を継承していこうと、「みつわ会」という劇団が結成され、公演が行われている。UP





尾山篤二郎

尾山篤二郎(おやま とくじろう、明治22年(1889年12月15日)-昭和38年(1963)石川県金沢市生まれの歌人・国文学者 刈萱、秋人、無柯亭主人の別号
明治33年金沢商業に入学するも、病(膝関節結核のため、右足を大腿部から切断)の為中退。室生犀星を知り、上京後は前田夕暮、若山牧水らと交わった。自然主義的な思潮を浴びた歌集『さすらひ』(1913)から、平明自在で、闊達なうちに、濃(こま)やかな哀愁を残す『とふのすがごも』(1946)、『雪客(さぎ)』(1961)に至る12冊の歌集がある。歌誌『自然』『箜篌(くご)』『芸林』を主宰。『短歌五十講』などの歌論書も多い。研究書『西行(さいぎょう)法師評伝』(1934)、学位論文となった『大伴家持(やかもち)の研究』、歌集『とふのすがごも』などの業績により1951年(昭和26)芸術院賞を受賞した。UP




坪田譲治

坪田 譲治(つぼた じょうじ、1890年(明治23年)3月3日 - 1982年(昭和57年)7月7日)は、岡山県出身の児童文学作家。プロレタリア文学台頭の中で困窮生活を送るも、1935年(昭和10年)山本有三の紹介で『お化けの世界』を雑誌『改造』に発表し、好評を得る。翌年朝日新聞夕刊の新聞小説として連載した『風の中の子供』が絶賛され、幅広い年代層の支持を得て一躍人気作家となる。戦後は、日本児童文学者協会の第3代会長などを務めた。後年は自らも童話雑誌「びわの実学校」を主宰し、松谷みよ子、あまんきみこ、寺村輝夫、大石真等の後進を育てた。『お化けの世界』や『風の中の子供』、『子供の四季』などの「善太と三平」物が名高い。全集が三度刊行されている(『坪田譲治全集』8巻本、12巻本。『坪田譲治童話全集』10巻本)。UP





今井邦子

今井 邦子(いまい くにこ、明治23年(1890年)5月31日 - 昭和23年(1948年)7月15日、旧姓山田、本名くにえ)は、徳島市出身の「アララギ」の歌人。後に短歌誌「明日香」を創刊した。「万葉集」をはじめとして古典の研究、評論、随筆や研究書も多く出版した。昭和23年(1948年)、手抜きをすることなく全力で走りきった人生であったが、7月15日朝、疎開先であり幼少女期を過ごした長野県下諏訪町湯田の実家で、心臓麻痺のため59歳の人生を終わった。妻として、母として、歌人として、そして何よりも一人の女として、理性と熱情の間で激しく揺れ動く、美貌で勝気な歌人であった。今井家の菩提寺である小石川・寂円寺に埋葬され、後に静岡県、富士霊園に移葬された。下諏訪町に今井邦子文学館がある。UP





河井寛次郎

河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)陶芸家。
華やかな作品で新人にして名人と一躍注目を浴びたが、世評に反し自身の制作に悩むようになる。後、古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民芸運動」にかかわり、古典から日用の器へと路線を変更した。寛次郎は各地を訪れ、手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用的で簡素な造形に釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びた。この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになる。さまざまな賞を受賞するも生涯、無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い、1966年に76歳で没した。UP





土屋文明

土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年9月18日 - 1990年12月8日)は、歌人・国文学者。
群馬県出身。幼少期に育てられた伯父に俳句を教わり、旧制高崎中学在学中から蛇床子の筆名で俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿。卒業後に恩師の紹介により伊藤左千夫を頼って上京し、短歌の指導を受け『アララギ』に参加。東大在学中には芥川龍之介・久米正雄らと第三次『新思潮』の同人に加わり、井出説太郎の筆名で小説・戯曲を書いた。1917年に『アララギ』選者。教師生活の傍ら作歌活動を続け、1925年に第一歌集『ふゆくさ』を出版。1930年には斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぎ、アララギ派の指導的存在となる。戦後は1953年に日本芸術院会員になり、1984年に文化功労者、1985年に『青南後集』で第8回現代短歌大賞受賞、1986年に文化勲章を受章。1990年に100歳の天寿を全うし、没後従三位に叙された。『万葉集』の研究でも知られ、『万葉集年表』・『万葉集私注』などの著作がある。UP




岸田國男

岸田 國士(きしだ くにお、明治23年(1890年)11月2日 - 昭和29年(1954年)3月5日)は、日本の劇作家・小説家・評論家・翻訳家・演出家。
代表作に、戯曲「牛山ホテル」、小説『暖流』、『双面神』など

長女は童話作家の岸田衿子、次女は女優の岸田今日子、甥に俳優の岸田森がいる。UP




仁科芳雄

仁科 芳雄(にしな よしお、1890年12月6日 - 1951年1月10日)は、日本の物理学者である。湯川秀樹、朝永振一郎など後のノーベル賞受賞者たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも評される。
米国の科学技術が進んでいることから日米開戦には反対していたが、陸軍から新型爆弾の研究開発を要請され、仁科研究室が中心になって原子爆弾の開発が行われることになった。しかし、結局1945年のアメリカ軍の空襲により設備が償却し、日本の原爆開発は潰える事になった。広島と長崎では現地の被害を調査し、新型爆弾が原子爆弾であると政府に報告、これが日本のポツダム宣言受諾に繋がったといわれている。また、終戦の日のラジオ放送において原子爆弾の解説をおこなった。UP

首藤定

首藤定(しゅとうさだむ、1890-1959)大分県臼杵市出身の実業家。中国で関東都督府事務官の書生などを務めた後、実業家として独立。金融業や鉱工業などを手がけて満州財閥の巨頭とも呼ばれた。終戦時、 多数の同胞が同じ苦しみにあえぎ、難民であふれる大連。なんとか 1人でも多くの難民を救済しなければならない、と、全財産をなげうち、在留邦人のために、苦心して集めた美術品を提供して難民救済、食料獲得の資金に充てる為、ソ連に美術品を渡し、雑穀100トンを提供させたという。その時の目録に掲載された点数は、中国画24、日本画226、書5、洋画35、骨董(こっとう)271の計561点だった。現在でも優品の多くが行方不明だという。UP





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