丸メガネの人物史~日本編(学者・文化人)その2

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ここでは1881年(明治14年)から1890年(明治23年)に丸メガネをかけた学者・文化人をご紹介します。





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1881年(明治14年)~
1890年(明治23年)

《生年順》

生年 名前
1881 会津八一
1882 小川未明
1882 金田一京助
1882 斎藤茂吉
1882 種田山頭火
1883 和田三造
1883 高村光太郎
1883 北大路魯山人
1883 川瀬巴水
1883 阿部次郎
1883 青木健作
1884 安田靫彦
1884 吉田久
1884 竹久夢二
1885 大杉栄
1885 北原白秋
1885 野上弥生子
1885 武者小路実篤
1885 三田光一
1886 井上日召
1886 谷崎潤一郎
1886 藤田嗣治
1886 大川周明
1887 葛西善蔵
1887 折口信夫
1887 山本有三
1887 荒畑寒村
1888 村上華岳
1888 賀川豊彦
1888 菊池寛
1889 内田百間
1889 室生犀星
1889 久保田万太郎
1890 河井寛次郎
1890 岸田国士
1890 仁科芳雄
1890 首藤定

<生年順>




会津八一
会津八一(あいづやいち、1881年8月1日 - 1956年11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人、渾斎。1951年、新潟市名誉市民。UP




小川未明

小川 未明 (おがわ みめい、男性、1882年4月7日 - 1961年5月11日)は、小説家・児童文学作家。本名・小川健作。雅号の「未明」は、正しくは「びめい」とよむ。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれる。娘の岡上鈴江も児童文学者。
長篇よりもむしろ短編作品に才能を発揮した。童話の代表作としては、「金の輪」、「赤い蝋燭と人魚」、「月夜と眼鏡」、「野薔薇」など。寓話性、教訓性よりも、むしろ、ロマン、詩情、ヒューマニズムなどを表現した作品が多く、子供だけでなく、大人の鑑賞にも十分に堪えうる内容をもっている。UP





金田一京助


金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年5月5日 - 1971年11月14日)は、言語学者、民俗学者。
アイヌ語研究においては、第一人者で、現代アイヌ語研究の基礎を作り上げ、アイヌ民族の叙事詩「ユーカラ」を世に広めた。1954年文化勲章受賞。

岩手県盛岡市四ツ家町(現本町通二丁目)出身。歌人、石川啄木の盛岡中学時代の先輩で親友。啄木に金をよく貸したことでも有名。郷土盛岡の風土と自然をこよなく愛した人として知られ、数多くの随筆や短歌で盛岡の自然と人情について語り、1959年には盛岡の名誉市民第一号となった。UP




斎藤茂吉

斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年5月14日(戸籍では7月27日) - 1953年2月25日)は、山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)出身の歌人、精神科医。伊藤左千夫門下。アララギ派の中心人物。長男は故・斎藤茂太。次男は北杜夫。斎藤由香は孫。
小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無かったため、親戚の、浅草の医師・斎藤紀一の家に養子に入る。中学時代から和歌の創作を開始する。高校時代に、正岡子規の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りする。
生涯に全17冊の歌集を発表し、全17907首の歌を詠んだ。UP




種田山頭火

種田 山頭火(たねだ さんとうか、男性、
1882年12月3日(明治15年) - 1940年10月11日(昭和15年)は明治・大正・昭和初期にかけての俳人。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。曹洞宗の僧侶。本名・種田正一。UP




和田三造

和田 三造(わだ さんぞう、1883年3月3日 - 1967年8月22日)は大正~昭和期に活躍した洋画家。
16歳の時、画家を志して上京。黒田清輝に師事し、東京美術学校(現東京芸大)に進んだ。明治40年の第一回文展では『南風』が二等賞(最高賞)に選ばれた。小船の上に立つたくましい男のモデルは、和田が通っていた柔道場「明道館」2代目館長の河野半次郎といわれる。色彩研究にも尽力し、1945年日本色彩研究所を設立。1955年には映画『地獄門』の色彩デザインをし、アカデミー衣装デザイン賞を受賞。晩年は油彩画の他,工芸や水墨画にも活躍。 1958年文化功労者となった。
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高村光太郎

高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年3月13日 - 1956年4月2日)は芸術家詩人。東京都出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。
彫刻、絵画、詩等多方面で活躍。『智恵子抄』等の詩集が有名になり教科書にも掲載されるようになったため詩人として認識されることも多い。UP





北大路魯山人

北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん/きたおおじ ろざんじん、
男性、1883年3月23日 - 1959年12月21日)は、芸術家。本名は房次郎。
篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など様々な顔を持っていた。UP




川瀬巴水

川瀬 巴水(かわせ はすい、1883年5月18日 - 1957年11月7日)は、大正・昭和期の版画家。
幼少の頃より絵に関心を寄せて油彩画や日本画を学び、27歳で鏑木清方に師事。その後、同門の伊東深水の影響を受けて版画への関心を深めると、大正7(1918)年に処女作となる塩原3部作を発表。巴水は、"新版画運動"の一員として、処女作以来、約40年にわたり、風景版画を生み出し、日本各地の取材にもとづき、四季折々の風景を描き続けた。
衰退した日本の浮世絵版画を復興すべく吉田博らとともに新しい浮世絵版画である新版画を確立した人物として知られる。アメリカの鑑定家ロバート・ミューラーの紹介によって欧米で広く知られるところとなった。UP





阿部次郎

阿部 次郎(あべ じろう、1883年8月27日 - 1959年10月20日)は、哲学者、美学者、作家
1914年に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名で、学生必読の書であった。1917年に一高の同級生であった岩波茂雄が雑誌「思潮」(現在の「思想」)を創刊。その主幹となる。慶應義塾大学、日本女子大学の講師を経て、1922年文部省在外研究員としてのヨーロッパ留学。同年に『人格主義』を発表。真・善・美を豊かに自由に追及する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く。UP




青木健作

青木健作(あおきけんさく)本名、井本健作(1883~1964))。山口県出身。東京大学卒業。「真実なる人生と文芸の対境」で、“都会者”的文学に対し、“田舎者”的文学を提唱する文章を発表。のち、鈴木三重吉・夏目漱石らに出会い、「虻」「お絹」等の山口県を舞台にした作品を発表し独自な作風を確立した。主な著作に『お絹 虻』、『青木健作短編集』、『明治文学全集』がある。UP





安田靫彦

安田 靫彦(やすだ ゆきひこ、本名:安田 新三郎、1884年2月16日 - 1978年4月29日)は、大正~昭和期の日本画家。東京都出身。
前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに、焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ1981年、1986年、1996年に切手に用いられた。良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。また自らも皇居新宮殿千草の間に書、『万葉の秀歌』を揮毫した。
1965年東京芸術大学名誉教授。東京国立博物館評議員会評議員、文化財審議会専門委員、国立近代美術館設立準備員も歴任。門下に小倉遊亀、森田曠平、益井三重子、岩橋英遠らがいる。初代中村吉右衛門とは同年で親しく、実兄は吉右衛門門下の中村七三郎。UP





吉田久

吉田久(よしだひさし 1884年8月21日生まれ)福井県出身。裁判官
昭和17年の衆議院選挙をめぐり、当時の鹿児島2区の選挙は無効だと判断し、司法の独立を守った判決を下した。判決の原本は空襲の際に焼失したとされ、判例集にも掲載されなかったことで「幻の判決文」となっていたが、61年ぶりに最高裁判所の倉庫で発見された。当時の選挙は、国を挙げて戦争を遂行するためという理由で、事実上国が候補者を推薦する形で行われ「翼賛選挙」と呼ばれた。推薦されなかった候補には投票しないよう呼びかけるなど、さまざまな妨害が加えられた。この選挙について、大審院(現在の最高裁)の裁判長であった吉田久は昭和20年3月「自由で公正な選挙ではなく、無効だ」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法上大いに疑問がある」と指摘して国を厳しく批判し、画期的な判決といわれた。2008年9月、これまでほとんど知られる事のなかったこの判決と孤高の裁判官の生涯を追った『気骨の判決』清水聡著が出版された。UP
「わたしは、死んでもいい。
裁判官が事件の調べに行って 殺されるのは、
あたかも軍人が戦争に臨んで
弾に当たって死ぬと 同じことだ。
悔ゆることはない」




竹久夢二

竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は、茂次郎(もじろう)。
数多くの美人画を残しており、その作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する画家である。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも詩「宵待草」には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装丁、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりとも言える。UP





大杉栄

大杉栄(おおすぎ さかえ、大杉榮 1885年(明治18年)1月17日 - 1923年(大正12年)9月16日)は、思想家、作家、社会運動家、アナキスト。
伊藤野枝との子に長女・魔子(のち真子)、次女・エマ(のち幸子)、三女・エマ(のち笑子)、四女・ルイズ(のち留意子)、長男・ネストル(のち栄)がいる。次女エマ以外は大杉・伊藤の死後、伊藤の実家に引き取られ、戸籍を届けるときに改名された。
日陰茶屋事件(当時妻子ある大杉栄と同棲中だった神近市子が、伊藤野枝に心を移した大杉栄を神奈川県葉山町の日陰茶屋に誘い出して、刃物で刺した。「新しい女」の起こした四角関係として話題になった。) などのほん放な生き方でも知られるが、1923年9月関東大震災の混乱に際して,妻の伊藤野枝,および甥(おい)とともに甘粕憲兵大尉に殺害された。
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北原白秋

北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日) は、詩人、童謡作家、歌人。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。詩、童謡、短歌以外にも、「松島音頭」や「ちゃっきり節」等の新民謡も書き、あらゆるジャンルで傑作を生んだ。生涯に数多くの詩歌を残し、「ゆりかごのうた」、「からたちの花」「この道」「ペチカ」など、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、日本を代表する詩人である。UP




野上弥生子

野上 弥生子(1885年5月6日 - 1985年3月30日)小説家。大分県臼杵市生まれ。
14歳で単身上京、夏目漱石門下で同郷の野上豊一郎と結婚。『ホトトギス』に『縁』を掲載して作家デビュー。以来、99歳で逝去するまで現役の作家として活躍する。法政大学女子高等学校名誉校長も努め、「女性である前にまず人間であれ」の言を残す。
秀吉という政治的人間と芸術的人間・利休の葛藤を描いた『秀吉と利休』は有名。
イタリア文学者の野上素一は長男、物理学者の野上茂吉郎は次男、哲学者の長谷川三千子は三男の娘。UP





武者小路実篤


武者小路 実篤 1885年5月12日 - 1976年4月9日 白樺派を代表する小説家。東京都千代田区に、子爵武者小路実世の第8子として生まれる。理想的な調和社会・階級闘争の無いユートピアの実現を目指して、宮崎県に「新しき村」を建設したが、ダム建設により村の大半が水没したため、1939年に埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。両村は現存するが、実篤自身はわずか6年で離村。村の建設など、理想主義・空想社会主義的な行動で揶揄されることもあった。UP




三田光一

三田光一(1885~1943年)
大正から昭和初期にかけて活躍した霊能力者。
浅草観音堂の裏にかけてある山岡鉄舟の文字の額面「南無観世音」を神戸(?)で透視、念写。
1917年(大正6年)名古屋県会議事堂で、桂公の肖像を念写したら、「至誠」の文字が写った。また、2日前に念じたものが写った。月の裏側の念写にも成功している。
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井上日召

井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年4月12日 - 1967年3月4日)は日蓮宗の僧侶で右翼活動家。戦前の右翼団体血盟団、戦後の右翼団体護国団の指導者。本名は井上昭。昭の字を分けて日召とす。後の日本赤軍のリーダーの重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。UP





谷崎潤一郎

谷崎 潤一郎(たにざきじゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、明治末期から第2次世界大戦後にかけて活動した小説家。耽美主義とされる作風で、『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し、文豪と称された。UP






藤田嗣治

藤田 嗣治(ふじた つぐはる 1886年11月27日 – 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在も、フランスにおいて最も有名な日本人画家であり、明治以降の日本人芸術家で藤田嗣治ほどの成功を海外で収めたものは他にいない。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリの代表的な画家である。私生活でも3度の結婚と離婚をしているが、彼の自由で奔放な人生は生前日本社会からは認められなかった。死後、日本政府から勲一等瑞宝章を追贈 UP




大川周明

大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、戦前の代表的な思想家の一人。敗戦後、A級戦犯として東京裁判に出廷した被告の中で唯一の民間人。起訴されるが病を理由に不起訴扱いとなる。戦後は、イスラームへの興味から、コーランの全文翻訳するなど日本のイスラーム研究にも貢献した。
大川は水色のパジャマを着、素足に下駄を履いて東京裁判に出廷した。休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がする程はたいたり、「インダー、コメンジー!(独:「インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア、コメディ!(英:「これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」と奇声を発するなど、常軌を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。翌日の法廷で、オーストラリアのウェブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した(実はこの時脳梅毒を罹っていた。)ちなみに、のちにイスラーム研究者となる井筒俊彦に、精神的にも物質的にも援助をしていたのが、大川周明だった。UP





葛西善蔵

葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年1月16日 - 1928年7月23日)は、日本の小説家である。青森県弘前市に生まれた。
1919年に創作集『子をつれて』を刊行し、作家としての地位を確立するものの、生活は困難を極めた。貧困や家庭の問題が、その真率さで読者に感銘を与える一方、妻を故郷において東京で別の女性と同棲して、子もなしたことへの批判は当時から根強く、それへの反発が葛西の作品の底流にある。40歳に近づく頃から生活も荒れ41歳で死去した。UP





折口信夫

折口 信夫(おりくち しのぶ、明治20年(1887年)2月11日 - 昭和28年(1953年)9月3日)は、日本の民俗学、国文学、国学の研究者。
釈迢空(しゃく ちょうくう)と号して詩歌もよくした。みずからの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築き、芸能史、国文学を主な研究分野とするその研究は「折口学」といわれる。同性愛者であることも知られるところであるが、「同性愛を変態だと世間では言うけれど、そんなことはない。男女の間の愛情よりも純粋だと思う。変態と考えるのは常識論にすぎない」と述べた。UP





山本有三

山本有三(やまもと ゆうぞう、明治20年(1887年)7月27日-昭和49年(1974年)1月11日) 劇作家、小説家
生家は呉服商。家業を手伝いながらも学問への願いを断ち難く、19歳で東京中学に編入、22歳で第一高等学校に入学。一高時代の同期に近衛文麿、土屋文明、芥川龍之介、菊池寛らがいる。東京帝国大学ではドイツ文学を専攻。
「真実一路」「路傍の石」戯曲「米百俵」などの作品が有名で、逆境に耐えて光明を求め成長する人間をよく描いた。戦後は参議院議員として国民の祝日の制定、国立国語研究所の設立、満年齢の採用、文化財保護法など文化政策の推進に大きな功績を残した。
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荒畑寒村

荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年8月14日 - 1981年3月6日)社会主義者・労働運動家・作家・小説家。元衆議院議員。神奈川県横浜市生まれ。
横須賀の海軍工廠に勤務する中で労働運動に参加。社会主義者の幸徳秋水や堺利彦らが発行する週刊『平民新聞』の非戦論に共鳴し、社会主義に接近する。1908年赤旗事件で検挙され入獄。出獄後、1912年に大杉栄と『近代思想』を創刊、さらに月刊『平民新聞』を発行するが、サンディカリズムを唱えた大杉とマルクス主義に立脚する荒畑との対立が次第に表面化。大杉と訣別して後は労働組合活動を続けながら、関西で活動。1920年に日本社会主義同盟・1922年に日本共産党の創立にそれぞれ参加する。戦後は全金同盟の委員長に就任するとともに日本社会党の結成に参加。1946年以降衆議院議員を2期務めた。
晩年には「死なばわがむくろを包め戦いの塵に染みたる赤旗をもて」という歌を作っている。
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村上華岳

村上華岳(むらかみ かがく、1888年7月3日 - 1939年11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。華岳の描く仏や菩薩は、世俗性と精神性、妖艶さと聖性、官能美と悟りの境地という相反する要素が不思議に調和している。華岳の仏画は20世紀の宗教絵画の最高峰と言って過言ではないであろう。UP




賀川豊彦

賀川 豊彦(1888年7月10日 - 1960年4月23日)は、キリスト教社会運動家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。「東洋のカンジー」とも言われ、ノーベル平和賞候補にもなった。自伝的小説「死線を越えて」は当時の大ベストセラーに。現・コープこうべ(日本最大の生協)の生みの親でもある。UP





菊池寛

菊池 寛(きくち かん、1888年(明治21年)12月26日- 1948年(昭和23年)3月6日)は、小説家、劇作家、ジャーナリスト。文芸春秋社を創設した実業家でもある。UP




内田百間

内田 百間(うちだ ひゃっけん、1889年5月29日 - 1971年4月20日)は、夏目漱石門下の日本の小説家、随筆家。戦後は筆名を内田百閒と改めた.。本名は内田栄造。迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。師である夏目漱石の縁故から漱石の次男、夏目伸六と親交が深かったことでも有名。UP



室生犀星

室生 犀星(むろう さいせい、本名: 室生 照道(てるみち)、1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日)は、石川県金沢市生まれの詩人・小説家。
私生児として生まれ、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。犀星という筆名は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。戦後は小説家としての地位を確立し、多くの秀作を生んだ。
抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名である。UP




久保田万太郎

久保田万太郎(くぼた まんたろう、1889年11月7日 - 1963年5月6日)は、小説家、劇作家、俳人。元NHK文芸課長。東京・浅草生まれ。俳号に暮雨、傘雨。小説『末枯』『春泥』『花冷え』『市井人』、戯曲『雨空』『大寺学校』、句集『道芝』『流寓抄』など。俳誌『春燈』を主宰。劇『北風のくれたテーブルかけ』など。浅草下町の情趣を描き、独自の作風を築いた。美食家、好角家としても有名。死因は梅原龍三郎邸にて設けられた宴席で、赤貝のにぎり寿司を口に放り込んだところ喉につかえての窒息死。彼らの遺作を通して東京の下町文化を継承していこうと、「みつわ会」という劇団が結成され、公演が行われている。UP





河井寛次郎

河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)陶芸家。
華やかな作品で新人にして名人と一躍注目を浴びたが、世評に反し自身の制作に悩むようになる。後、古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民芸運動」にかかわり、古典から日用の器へと路線を変更した。寛次郎は各地を訪れ、手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用的で簡素な造形に釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びた。この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになる。さまざまな賞を受賞するも生涯、無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い、1966年に76歳で没した。UP





岸田國男

岸田 國士(きしだ くにお、明治23年(1890年)11月2日 - 昭和29年(1954年)3月5日)は、日本の劇作家・小説家・評論家・翻訳家・演出家。
代表作に、戯曲「牛山ホテル」、小説『暖流』、『双面神』など

長女は童話作家の岸田衿子、次女は女優の岸田今日子、甥に俳優の岸田森がいる。UP




仁科芳雄

仁科 芳雄(にしな よしお、1890年12月6日 - 1951年1月10日)は、日本の物理学者である。湯川秀樹、朝永振一郎など後のノーベル賞受賞者たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも評される。
米国の科学技術が進んでいることから日米開戦には反対していたが、陸軍から新型爆弾の研究開発を要請され、仁科研究室が中心になって原子爆弾の開発が行われることになった。しかし、結局1945年のアメリカ軍の空襲により設備が償却し、日本の原爆開発は潰える事になった。広島と長崎では現地の被害を調査し、新型爆弾が原子爆弾であると政府に報告、これが日本のポツダム宣言受諾に繋がったといわれている。また、終戦の日のラジオ放送において原子爆弾の解説をおこなった。UP

首藤定

首藤定(しゅとうさだむ、1890-1959)大分県臼杵市出身の実業家。中国で関東都督府事務官の書生などを務めた後、実業家として独立。金融業や鉱工業などを手がけて満州財閥の巨頭とも呼ばれた。終戦時、 多数の同胞が同じ苦しみにあえぎ、難民であふれる大連。なんとか 1人でも多くの難民を救済しなければならない、と、全財産をなげうち、在留邦人のために、苦心して集めた美術品を提供して難民救済、食料獲得の資金に充てる為、ソ連に美術品を渡し、雑穀100トンを提供させたという。その時の目録に掲載された点数は、中国画24、日本画226、書5、洋画35、骨董(こっとう)271の計561点だった。現在でも優品の多くが行方不明だという。UP





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