丸メガネの人物史~日本編(学者・文化人)その3


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ここでは1891年(明治24年)以降生まれの、丸メガネをかけた学者・文化人をご紹介します。

明治生まれの女性は人前ではめったにメガネを掛けませんでした。林芙美子も、宮本百合子も若い頃は丸メガネを掛けていましたが、世に出てからは写真をとる時には必ずメガネをはずしたので、私たちが普通に見る彼女たちの写真にはメガネ無しのものしかないわけです。
昔は「女だてらにメガネなんて、生意気だ」という空気があったのでしょう。






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1891年
(明治24年)以降

生年順
生年 名前
1891 河合栄治郎
1891 瀧川 幸辰 
1891 並木凡平
1891 岸田劉生
1891 長谷川利行
1891 宇野浩二
1891 久米正雄
1891 堂本印象
1891 古川竹二
1891 重松髜修
1892 原田 永之助
1892 郷倉 千靱
1892 佐藤春夫
1892 山口青邨
1892 弘田龍太郎
1892 山本省三
1893 児島善三郎
 1893 三島徳七
1893 前田久吉
1893 木村荘八
1893 下村千秋
1893 山本倉丘
1893 山口蓬春
1893 梥本一洋 
1893 松平信博
1893 宮芳平
1893 島田孝一
1894 豊田喜一郎
1894 北川千代
1894 速水御舟
1894 江戸川乱歩
1894 濱田庄司
1895 小倉遊亀
1895 川上澄生
1895 辻本 史邑
1895 中山岩太
1895 篠遠 喜人
1896 宇田 荻邨
1896 村山塊太
1896 湯浅芳子
1896 池田 亀鑑
1896 小林かいち
1897 三木清
1897 内村祐之
1897 嘉村 礒多
1897 海野十三
1898 伊東深水
1898 井伏鱒二
1898 横尾深林人
1898 宮田東峰
1898 今東光
1898 森 白甫 
1898 常岡文亀
1899 宮本百合子
1899 島田 清次郎
1899 渡辺渡
1899 一戸謙三
1899 梅原北明
1900 山口勘一
1900 戸坂 潤
1900 麻田辨次
1900 稲垣足穂
1901 薩摩 治郎八
1901 岡潔
1901 丸木位里
1901 海音寺潮五郎
1901 中野実
1901 三界稔
1902 中野重治
1902 直良信夫
1902 吉野秀雄
1902 水田硯山
1903 草野心平
1903 山本周五郎
1903 堀越二郎
1903 棟方志功
1903 島木健作
1903 今日出海
1903 林芙美子
1904 石川光陽
1904 橋本明治
1904 堀辰雄
1905 伊藤整
1905 佐藤義美
1905 本庄陸男
1905 加藤楸邨
1905 松田解子
1905 白井 晟一
1906 松本たかし
1906 吉行エイスケ
1906 坂口安吾
1906 平川英夫
1907 湯川秀樹
1907 折口春洋
1907 安井郁
1907 須賀田礒太郎
1908 東山魁夷
1909 小野忠重
1909 中島敦
1909 川島武宜
1909 杉山寧
1909 松本清張
1910 白川静
1911 高橋英吉
1911 瑛九
1911 徳田白楊
1911 田中克己
1912 檀一雄
1912 森本薫
1913  石田 波郷
1914 早坂文雄
1918 杉浦睦夫
1918 柴田武
1918 平多正於
1922 山田風太郎
1923 大山康晴
1924 橋本峰雄
1931 小松左京 
1932 大島渚
1933 種村季弘
1934 黒川紀章
1934 井上ひさし
1947 立松和平
1948 北重人

生年順
河合栄治郎

河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - 1944年2月15日)は、日本の社会思想家、経済学者。東京生まれ。東京帝国大学法科大学卒、銀時計受領。第二次世界大戦前夜における、著名な自由主義知識人の一人。東京帝大教授、経済学部長を務める。理想主義的リベラリズムとフェビアン的社会主義の立場から、マルクス主義とファシズムの両方と対立したため著書の発禁処分などの弾圧を受け、1939年(昭和14)には大学を追われ、起訴された。 大審院で有罪判決を受けた翌年1944年に死去。
戦後忘れられたに等しいとされるも、門下生に政治学者の猪木正道など、また、保守派の論客としても知られる渡部昇一も尊敬するとされる人物。UP




瀧川 幸辰
瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。元大阪高裁判事・元大阪大学教授(刑事法)の瀧川春雄は長男。
 旧岡山藩士の子として生まれる。鳥取の瀧川家によれば、戦国期の武将滝川一益の三男辰政は岡山池田家に御預けになっており、これが幸辰の先祖とされている。

「汝の道を進め、人々をして語るにまかせよ」が信条であったが、正にそのとおりの人生を送った。

京大で新派刑法理論に立つ勝本勘三郎の刑法総論の講義を受け、1回生の期末試験で新派刑法理論を批判し、応報刑論で答案を書いた。勝本は瀧川の答案を2回生の刑法各論の講義に際し、学生達の前で読み上げ、「この答案はなかなかおもしろいが、自分の子供の頭を思い切り殴られたようで思い切った点数があげられなかった」と言って笑ったという]。

滝川事件で大学を追われるが、第二次世界大戦後、大学に復帰、京都大学総長を務め、学生運動との対立事件を繰り返した。特に「第2次滝川事件」と呼ばれる学生による瀧川への「暴行」事件は有名である。なお総長が理系学部から選ばれる傾向の強い京都大学(および前身の京都帝国大学)では、現在のところ、瀧川が文系学部から選出された最後の総長となっている。UP

並木凡平
並木凡平(なみき ぼんぺい、1891(明治24)年5月23日~1941(昭和16)年9月29日) は札幌生まれの歌人。その短歌は定形律の口語歌で生活感に満ち溢れており、人柄の優しさと相まって多くの人々に親しまれ愛された。長年の新聞記者生活の中で失業の憂き目に会ったときに、コップなどガラスの器に、自作の短歌を刻み付ける「凡平歌コップ」を思いつき製作販売した。好評でよく売れたが歌人、新聞人として失意の凡平を励ましたのは、弟子や友人によって朝里不動尊境内に建てられた、並木凡平歌碑だった。
【 廃船のマストにけふも浜がらす鳴いて日暮れる張碓の浜】
昭和14年、室蘭の新聞社に招かれ、小樽を去り、2年後急逝、51年の生涯を閉じた。「オミキノンベイ」とあだ名されるほどの酒好きで、日々の哀歓を酒とともに詠んだ歌をいくつも残している。UP



岸田劉生自画像岸田劉生

岸田 劉生(きしだ りゅうせい、1891年6月23日 - 1929年12月20日)は、大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。
北方ルネサンスの感化を受けて草土社を主宰し,大正画壇に異彩を放った。ダ・ビンチの「モナ・リザ」にヒントを得たという愛娘をモデルにした一連の「麗子像」は有名で、神秘的な微笑が印象的である。 病のため38歳で死去。UP




長谷川利行

長谷川 利行(はせがわ としゆき。「はせがわ りこう」とも。1891年7月9日 - 1940年10月12日)は京都府京都市山科区出身の洋画家。
絵は独学だったが非常に速筆で、1~2時間ほどでれっきとした油絵を仕上げてしまう。自身の "アトリエ" を持たず、「思い立ったら絵を描く」スタンスを生涯続けた。彼の生活は、一日中貧民街で絵を描いているか、絵を換金して酒を飲んでいるかだったという。ついには、友人たちに絵を書いて送りつけたり、岸田國士ら著名人のところに押しかけて絵を描き、金をせびったりするなど生活は荒れ果てていった。このため、知人たちは後世まで彼については堅く口を閉ざし(このため彼の経歴には不明な点が多い)、長谷川の評価が進んだのは死後数十年たってからである。UP




宇野浩二

宇野 浩二(うの こうじ、1891年7月26日-1961年9月21日)は、小説家・作家。福岡生まれ
3歳のときに父が脳溢血で急死、後、親戚から学資の援助を得て早稲田大学英文科に入学。1913年には小説集『清二郎 夢見る子』を出版。1919年に『蔵の中』を『文章世界』に発表、さらに同年、『苦の世界』を『解放』に発表し、新進作家として文壇で認められる。童話作家としても活躍した。また、妻のほかに芸妓などと交遊をもち、それらを小説化していった。昭和初年には精神を病み、斎藤茂吉の治療を受ける。その直後、親友芥川龍之介の自殺にあう。病気から回復したのちは芥川賞選考委員を務め、後進の育成にも努めた。 弟子に水上勉がいる。UP




久米正雄

久米 正雄(くめ まさお、1891年(明治24年)11月23日 - 1952年(昭和27年)3月1日 )は、長野県上田市生まれの小説家、劇作家。“微苦笑”という語の発明者として有名。東京帝国大学文学部英文学科卒業。俳号を三汀(さんてい)といい、俳人としても知られる。6歳の時に小学校校長だった父親が御真影焼失の責任を取り割腹自殺をしている。
大学在学中、成瀬正一、松岡譲らと第三次「新思潮」を創刊し、作品を発表。戯曲「牛乳屋の兄弟」(1914年)で認められる。「新思潮」廃刊後は、「帝国文学」同人。1915年(大正4年)、夏目漱石の門人となる。師である漱石の長女筆子への失恋(筆子は松岡と結婚)を素材とした『蛍草』『破船』で一躍流行通俗作家となった晩年は高血圧に悩み、脳溢血で急逝した。死の直前に松岡と和解している。忌日は三汀忌、もしくは微苦笑忌と呼ばれる。UP




堂本印象
堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年12月25日 - 1975年9月5日)は京都市生れの日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。1961年(昭和36年)文化勲章受章。
京都市立美術工芸学校卒業後西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選を皮切りに特選、帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。京都市立絵画専門学校教授として、また、私塾東丘社の主催者として、画壇の指導者としても活躍。戦後、抽象表現や障壁画の世界にも活躍の場を広げ、国際展覧会に多くの作品を出展するなど国際的にも活躍。1963年(昭和38年)には大阪カテドラル聖マリア大聖堂 に壁画『栄光の聖母マリア』を描いた功績により当時のローマ教皇ヨハネス23世より聖シルベストロ文化第一勲章を受章した。自らのデザインにより設立した自作を展示する堂本美術館は京都府に寄贈され平成4年4月京都府立堂本印象美術館として開館し今日に至っている。 UP



古川竹二
写真は御茶ノ水女子大学デジタルアーカイブズより

古川 竹二(ふるかわ たけじ、 1891年 - 1940年)は、教育学者、心理学者。東京女子高等師範学校 (現お茶の水女子大学) 教授。
1927年の「血液型による氣質の研究」(『心理學研究』) 以下一連の論文や著作で、血液型と性格の関係を本格的に論じた人として知られる。UP




重松髜修
重松髜修(しげまつ まさなお)明治24(1891)年、愛媛県生まれ。
正岡子規らの母校でもある松山中学に学んだのち上京し、東洋協会専門学校(拓殖大学の前身)を卒業。大陸雄飛の国策に従って朝鮮半島へ渡り、平壌で朝鮮金融組合理事となる。万歳橋事件のときに暴徒に拳銃で右足を撃たれて不具の身となるも、貧しく報われない朝鮮農民の中に入っていき、近代農業を根付かせ、その暮らしを豊かにし感謝され頌徳碑を建てられた。日本の朝鮮統治35年のうち、31年を当地で暮らし、戦後は愛媛で牧場を経営した。
著作に『朝鮮農村物語』正続二巻があり、活躍した時代を回想するテープを残した。UP



原田 永之助
原田 永之助(はらだ えいのすけ、1892年2月25日 - 1946年12月20日)は、熊本県天草郡(現・天草市)出身の眼科医。後にVogt-Koyanagi-Harada 病と統一した名前になる疾患を1926年に原著として発表した。
1913年東京帝国大学医学部卒業。陸軍軍医その後内科を選び駒込病院などに勤務。結婚相手の父親が長崎の眼科開業医原満里であったので、東京大学眼科に転向(1922年1月)。恩師は石原忍と河本重次郎である。原田の恩師で、色盲の研究で有名な石原忍は次の文章を遺している。
「原田永之助氏の原著は大正15年の発表であるが、いつとはなしに原田病と称するようになった。昭和4年まではうちの教室では使っていなかった。同年京都大学の高橋氏がその使用に異議を唱えたが、私は原田氏病という病名が使われておれば、あえて抹殺する必要はないと思う。」UP



郷倉 千靱
写真は<大日本画家名鑑-昭和15年版>より
郷倉 千靱(ごうくら せんじん、1892年3月3日 - 1975年10月25日)は、富山県出身の日本画家、日本芸術院会員。本名・與作。1915年東京美術学校日本画科卒業。寺崎広業に指導を受けた。後期印象派、とくにセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンに傾倒した。1916年渡米、1922年には院展日本美術院賞を受賞した。帝国美術学校日本画科教授、多摩美術学校日本画科教授、多摩美術大学教授などを歴任。日展審査員、日本美術院評議員なども務めた。また画塾草樹社を率いた。1960年日本芸術院賞を受賞、翌年インドへ渡り、仏教美術を研究した。壁画(京都東本願寺大谷夫人会館壁画、大阪四天王寺大講堂壁画)も制作。堅固な写実を基盤にした緻密な画風で多くの作品を描いた。代表作は「山霧」。1971年勲四等旭日小綬章受章、没後勲三等瑞宝章追贈。UP



佐藤春夫
佐藤 春夫(さとう はるお、1892年(明治25年)4月9日 - 1964年(昭和39年))5月6日)は小説家、詩人。和歌山県新宮市の医家に生まれる。『スバル』『三田文学』などに詩歌を発表、のち小説に転じた。1960年(昭和35年)に文化勲章受賞。芥川賞初代選考委員の一人。
友人の小説家谷崎潤一郎の妻・千代に恋慕し、のちに譲りうけたことがあった。谷崎の『蓼喰ふ蟲』はその経緯を描いたものと思われていたが、実はその前年の、千代を和田六郎(大坪砂男)に譲る件についてのものであることが分かった。谷崎と千代子の離婚成立後、三人連名の挨拶状を知人・マスコミに送り、「細君譲渡事件」としてセンセーショナルな反響を呼び起こした。代表作である「秋刀魚の歌」(詩集『我が一九二二年』所収)も千代への思慕が背景にある。
俗に門弟三千人と称され、門人に太宰治や檀一雄、吉行淳之介、稲垣足穂、柴田錬三郎、中村真一郎、五味康祐、遠藤周作、安岡章太郎、古山高麗雄などがいる。UP



山口青邨

山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年5月10日 - 1988年12月15日)は、岩手県盛岡市出身の俳人・鉱山学者。東京帝国大学工学部卒業。工学博士・東京大学名誉教授。
土に親しんだ句、また、みちのくを題材とした句が多いことでも知られている。1922年に水原秋桜子、山口誓子、富安風生、高野素十らと東大俳句会を結成。同人誌 「夏草」創刊。UP




弘田龍太郎
弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)6月30日-1952年(昭和27年)11月17日)は、作曲家。高知県安芸市に生まれる。代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『雀の学校』『春よこい』『靴が鳴る』など多数。他に歌曲『千曲川旅情のうた』、オペラ『西浦の神』、仏教音楽『仏陀三部作』など。UP



山本省三
山本省三1892-1971 大分県臼杵市出身。
下北かじや村の片岡家の男三人兄弟の末子として、明治二十六年に生まれる。最優秀の成績で臼杵中学を卒業し、長崎の医科大学へ進み、医師として第一歩を踏み出す。大阪西成区で開業し、貧しい人からの治療費は一切取らず、人々に「赤ひげ先生」と呼ばれた。大阪中に知れわたる程の医者であり、在阪県人会第六代会長として臼杵人はもとより大分県人会の諸氏より先生と呼ばれ尊敬されていた。こちらもどうぞ UP



児島善三郎

児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年(明治26年)2月13日 - 1962年(昭和37年)3月22日) は、日本の洋画家。福岡市中島(現・博多区中洲中島町)生まれ。
1912年修猷館を卒業し長崎医学専門学校薬学科(現・長崎大学薬学部)に入学するも翌年中退し上京、岡田三郎助が指導する本郷洋画研究所に2ヵ月程学ぶが東京美術学校の受験に失敗し、以後師につかずほとんど独学。大正10年に二科展入選。大正13年から昭和3年まで滞欧。帰国後、二科展に滞欧作を発表、二科会会員となったが、昭和5年退会して独立美術協会の創立に参加。独自のフォーヴィズムから、日本の伝統的なフォルムと装飾的な表現の導入、写実への再確認などの展開を示しながら「日本人の油絵」の創造を目指した。代表作に、『箱根』、『アルプスへの道』などがある。UP





三島 徳七(みしま とくしち、1893年2月24日 - 1975年11月19日)は、淡路島(現在の兵庫県洲本市五色町)生まれの冶金学者。産業技術進歩に大きな役割を果たしたMK鋼の発明者として知られる。立教中学を首席で卒業。書生をしながら苦学して東京帝国大学に入学し、後に主任教授の三島家の養子となる。東京帝国大学工学部鉄冶金学料卒業。日本学術会議会員、日本学士院会員、文化勲章受章。

鉄にニッケルを加えたニッケル鋼は磁石とならないが、さらにアルミニウムを加えた合金は永久磁石(MK磁石)に適していることを1931年に発見した。1917年にKS鋼を発明した東北帝国大学の本多光太郎は磁石開発における競争相手であった。KS鋼に比べ、MK鋼は材料価格も安く、製造費用を抑えることができた。本多は、1934年にMK鋼を上回る新KS鋼を開発し、MK鋼とほぼ同水準の材料を作りあげている。UP



前田久吉

前田 久吉(まえだ ひさきち、1893年4月22日 - 1986年5月4日)は大阪府出身の実業家、政治家。「大阪の新聞王」と呼ばれた。
1913年(大正2年)、母方の祖父母が経営する新聞販売店の手伝いを始め、1914年(大正3年)その経営を任され、南大阪でも指折りの新聞販売店にする。その後、産経新聞を全国紙として育成するとともに、電波業界にも進出。1957年(昭和32年)、ニッポン放送の鹿内信隆専務と共に日本電波塔を設立し、翌1958年(昭和33年)には333メートルの東京タワーを完成・開設した。このほか、関西テレビ放送、大阪放送(ラジオ大阪)の各放送局を相次いで設立・開局して両社の(初代)社長にも就任。また、1962年にはマザー牧場も開設し、グループ企業としている。UP




木村荘八
木村 荘八(きむら しょうはち 1893年8月21日 - 1958年11月18日)は、東京府出身の洋画家、随筆家、版画家。新派の喜多村緑郎を囲み、里見弴、大佛次郎、久保田万太郎等と集まりを持っていた。また、1945年頃、加藤潤二の加藤版画研究所から新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表している。UP


下村千秋
下村千秋(しもむらちあき、1893年(明治26年)9月4日-1955年(昭和30年)1月31日)茨城県出身の小説家。早稲田大学英文科を卒業して読売新聞社に入社するも、すぐに退社し文筆活動に入る。小説・短歌・戯曲などを発表、また、ゴーリキー全集の翻訳、「赤い鳥」などに多くの童話を発表するなどした。昭和に入ってからは、社会小説に境地を開き、大阪朝日夕刊に連載された『街の浮浪者』で一躍ルンペン作家の異名をはせ、流行作家となる一方、農村の窮状と農民の哀歓を描いた農民小説の傑作を多数発表し、高い評価を得ている。彼の真価はむしろ、綿密な取材に基づいた農民小説にあるといわれる。 戦後は、昭和28年に「中学生」を出版し、混乱する戦後の教育界一石を投じたが、昭和30年1月31日、肝炎のため入院していた立川共済病院で死去、享年63歳だった。(阿見町ホームページより一部抜粋) UP



山本倉丘
写真は「現代美術家名鑑-昭和29年版」より
山本倉丘(やまもと そうきゅう、明治26(1893)年10月12日-平成5(1993)年)は高知県出身の日本画家。名は伝三郎。京都絵専卒。山元春挙の早苗会に入塾し、のち堂本印象の東丘社に入る。戦後は日展・東丘社展・京展・関西展等で活躍、四条派の伝統の上に近代的な様式を加えた花鳥画で知られた。日展参事・東丘社顧問。京都市文化功労者・京都府美術工芸功労者。勲四等旭日小授章受章。芸術院賞・京都府文化賞特別功労賞受賞。京都に住し、平成5(1993)年、99才で亡くなった。長男の山本知克も日本画家として活躍した。 UP



山口蓬春葉山一色の磯に佇む蓬春
昭和35年(1960)
藤本四八撮影

山口蓬春(やまぐちほうしゅん、1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、日本画家。北海道松前郡松城町(現・松前町)生まれ。
1913年に東京・高輪中学校を卒業後、東京美術学校(現・東京芸術大学)に進学。松岡映丘に師事し、大和絵を習得。23年卒業、1924年新興大和絵会に参加する。26年帝国美術院賞受賞。29年帝展審査員。50年日展運営会参事、日本芸術院会員、54年日展運営会理事、58年日展常務理事、1965年文化勲章受章、文化功労者。69年日展顧問。画風は西欧絵画の日本的表現と見られる

山口蓬春記念館が神奈川県三浦郡葉山町一色2320にある。UP




梥本一洋
<大日本画家名鑑-昭和15年版>より
梥本一洋(まつもと いちよう、明治26(1893)年11月29日-昭和27(1952)年3月9日)は、京都府出身の日本画家。本名は謹之助。京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校卒。
山元春挙、川村曼舟に師事。在学中の大正4年文展で「壬生狂言の楽屋」が初入選以来、帝展でも毎回のように入選を重ね、昭和2年「蝉丸」、3年「餞春」で連続特選を受賞した。帝展審査員、文展審査員、日展審査員、母校京都市立絵画専門学校教授などを務めた。また、私塾耕人社を主宰して美術教育にも携わり、後進の指導に尽力した。歴史画を得意とし、王朝の物語絵や歴史風俗をモチーフにした作品を多く残し、 新興大和絵系画家の代表格として活躍した。UP



松平信博
松平信弘(まつだいら のぶひろ、1893年-1949年)は愛知県出身の作曲家
主なヒット曲は、
サムライ・ニッポン、ルンペン節、天国に結ぶ恋など。UP



宮芳平
宮芳平(みやよしひら、1893(明治26)年-1971(昭和46)年)は、新潟県生まれの画家。

宮芳平は、1893年(明治26年)新潟県堀之内町に生まれた。日本海に沈む夕日の美しさに感動して画家になることを決意し、上京後、東京美術学校に入学する。1914年(大正3年)第8回文部省美術展覧会に作品「椿」を出展するも落選、審査主任であった森鴎外を訪ねたのが縁で、以後、知遇を受けるようになる。文豪と画学生とのさわやかなこの交流を、鴎外は短編小説『天寵』に著した。1915年(大正4年)第9回文展に入選後、日本美術学院洋画部にて村山槐多、山崎省三らと共に学ぶ。その後、新潟県柏崎、神奈川県平塚と移住しつつ、中村彝に師事し、曾宮一念とも生涯にわたる交友を結ぶ。1923年(大正12年)諏訪高等女学校(現諏訪二葉高校)に、彫刻家清水多嘉示の後任として赴任し、美術教師として多くの教え子たちに愛された。戦後は国画会出展を中心に自己の画境を進め、晩年にはエルサレムなどの聖地を巡礼し、敬虔な祈りのうちに、1971年(昭和46年)京都で生涯を閉じた。
(安曇野市 豊科近代美術館公式HPより)UP



島田 孝一
島田 孝一(しまだ こういち、1893年-1987年)は東京出身の交通経済学者。早稲田大学商学部卒業。第6代早稲田大学総長(1946年 - 1954年)、流通経済大学初代学長(1965年-1974年)、日本交通学会初代会長(1941年-1973年)。父は衆議院議員でジャーナリストでもあった島田三郎。UP



豊田喜一郎

豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、1894年6月11日 - 1952年3月27日)は、日本の実業家。トヨタ自動車工業株式会社社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。東京帝国大学工学部機械工学科卒業。愛知県豊田市(挙母市)の発展に大きく貢献した実績から、豊田市役所の広場には銅像が立てられている。父は、豊田自動織機創業者の豊田佐吉。現在のトヨタ自動車社長の豊田章男は孫にあたる。UP




北川千代
北川千代(きたがわ ちよ、1894年(明治27年)6月14日-1965年(昭和40年)10月14日)は、大正から昭和期を代表する児童文学作家。埼玉県出身。
大正4年に、周囲の反対を押し切って江口渙と結婚するも、離婚。この間、社会主義婦人団体の「赤瀾会」に参加するなど、女性の自立を求めて活動を始める。労働運動家の高野松太郎と結ばれ、娼妓解放支援などの社会運動に参加する中で、社会的矛盾を直視した作品を数多く発表した。晩年は千葉県の蓮沼村に移り住み、71歳の生涯を終える。葬儀は、市川房枝が葬儀委員長となり告別式が催された。、昭和44年にその業績を記念して日本児童文学者協会により「北川千代賞」創設。煉瓦工場や小山川の土手などを舞台とした『雪の日』『らっきょう』『汽車の婆の話』には、自叙伝としての深谷の思い出が描かれている。深谷市ホームページより抜粋UP



速水御舟

速水 御舟(はやみ ぎょしゅう、1894年(明治27年)8月2日 - 1935年(昭和10年)3月20日)は大正期~昭和初期の日本画家。東京浅草生まれ。本名は蒔田 栄一(まきた えいいち)。
従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作「炎舞」のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。長くない生涯に多くの名作を残し、「名樹散椿」(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスにより急逝。40歳没。UP




江戸川乱歩

江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、明治27年(1894年)10月21日 - 昭和40年(1965年)7月28日)大正~昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家。筆名はアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったもの。
少年向けに、明智小五郎と小林少年をはじめとする少年探偵団が活躍する作品『怪人二十面相』等を多数発表した。
日本推理作家協会初代理事長。戦後は評論による啓蒙や日本推理作家協会の設立に携わるなど多大な業績を残した。また新人発掘にも熱心で、筒井康隆、大薮春彦など乱歩に才能を見出された作家は少なくない。日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力し、同クラブに寄付した私財100万円の使途として江戸川乱歩賞が制定され、同賞は第3回より長編推理小説の公募賞となった。 UP




濱田庄司

濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年(明治27年)12月9日 - 1978年(昭和53年)1月5日)主に昭和に活躍した日本の陶芸家。神奈川県生まれ。
現東京工業大学窯業科で学び、卒業後は、学校が2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。またイギリス、沖縄でも窯業を学び、1930年からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始する。殆ど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。民芸運動に熱心で、1977年には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館。
1955年第1回の重要無形文化財「民芸陶器」保持者(人間国宝)に認定、1968年には文化勲章を受章。

1978年益子にて没。享年83。UP




小倉遊亀

小倉 遊亀(おぐら ゆき、1895年3月1日 - 2000年7月23日)は、日本画家。本名、ゆき。滋賀県生れ。奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)卒。
女子高で国文学を教えるかたわら、1920年より安田靫彦に師事。1926年に「胡瓜」が院展に入選、以後1998年に「椿三題」を出品するまで連続入選。1932年、女性として初めて日本美術院同人となり、1936年に山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚し、鎌倉に住む。1976年より日本美術院会員、1978年に文化功労者に選ばれる。1980年には上村松園についで女性画家として二人目の文化勲章を受章。1990年から96年まで日本美術院理事長を務めた。1999年にはパリで個展を開いた。105歳の長寿を全うして、2000年に鎌倉で没している。色彩に富む人物画や静物画が特徴で、上村松園とともに日本を代表する女流画家。作「O夫人坐像」「小女」「浴女」など。奈良女子大学の講堂の緞帳は、小倉遊亀の「爛漫」という原画によるものである。UP




川上澄生

川上 澄生(かわかみ すみお、1895年4月10日 - 1972年9月1日)は、神奈川県横浜市出身の版画家。3歳の時、一家で東京に移り住む。22歳でカナダビクトリアへ渡航し4ヶ月滞在した後、米国アラスカで缶詰工場の人夫として働く。帰国後、栃木県の宇都宮中学(現・宇都宮高校))で英語教師となり、本格的な木版画制作を開始。大正15年、国画会に出品した「初夏の風」は、棟方志功を感激させ彼に版画家への転向を決意させたとして有名である。 1945年(昭和20年)、妻の故郷である北海道苫小牧に疎開し、苫小牧中学(現・苫小牧東高校)で教壇に立ちながら版画制作を行う。戦後は一貫して南蛮と文明開化をテーマとした作品を制作。 命日は洋燈忌と名づけられ、現在も宇都宮市の延命院で法要が営まれる。1991年(平成3年)、川上澄生美術館(鹿沼市)開館。生涯に数千点という膨大な数の作品を制作した。UP




辻本史邑
写真は「福山誠之館同窓会」のHPより

辻本 史邑(つじもと しゆう、明治28年(1895年)5月3日 - 昭和32年(1957年)12月22日)は、奈良県出身の書家。名は勝巳、字は士礼といい、史邑は号、別号に寧楽庵主人、江村がある。
書は各体ともによく、清朝の書風に傾倒した艶麗な作品を数多く残した。日本書芸院の設立に力を注ぎ、寧楽書道会を興して雑誌『書鑑』を発行、また、『昭和新撰碑法帖大観』(全36冊)を発行して古典の普及を図るなど、戦前戦後にかけて後進の指導に果たした功績は大きく、関西書壇の興隆に貢献した。今井凌雪、村上三島、辻本翔鶴、原田観峰、辻本九華、谷辺橘南、広津雲仙、岡本松堂、森田翠香などの人材を育成した。近藤雪竹、中村春堂、井原雲涯、丹羽海鶴、山本竟山、比田井天来、尾上柴舟に書を学び、日展参事、日本書道連盟関西総支部長、日本書芸院会長などを歴任。昭和28年(1953年、58歳)日本芸術院賞を受賞した。UP




中山岩太
中山岩太の「セルフポ-トレイト(1931)」
=写真集「甦る中山岩太」より
写真は神戸本町商店街HPより

中山 岩太(なかやま いわた、1895年8月3日 - 1949年1月20日)は、戦前の日本の新興写真を代表する写真家の1人。福岡県柳川市出身。
1918年に東京美術学校臨時写真科を卒業(第1期生)すると、農商務省の派遣で、アメリカのカリフォルニア大学で学ぶ。その後、ニューヨークにて、菊地東陽のスタジオで働いたり、「ラカン・スタジオ」を開設したのち、1926年には渡仏。マン・レイや未来派のエンリコ・プランポリーニと知り合う。1927年に日本に帰国したのちは、芦屋カメラクラブをハナヤ勘兵衛ら地元の写真愛好家を集め結成し、欧米での経験を生かして活躍。1932年には、野島康三、木村伊兵衛と雑誌『光画』を創刊。日本の戦前において、福原信三と並んで、海外の同時代の写真を、自分の身をもって体験した数少ない写真家の1人で、海外の前衛的な写真動向を的確に理解・消化し、帰国後、自作を持って、広く紹介した。フォトグラム、フォトモンタージュなど、高度な技術をも駆使して、スタジオ内で作り上げられた華麗な作品群は、単なるヨーロッパの前衛写真の物まねにとどまらず、中山独自の美意識を十分に表現したものとなっており、戦前の日本の写真の1つの到達点として、高く評価できる。UP




篠遠 喜人
「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より

篠遠 喜人(しのとお よしと、1895年 - 1989年9月16日)は、長野県下諏訪町出身の遺伝学者、科学史家である。
長野県立諏訪中学校(のち長野県諏訪清陵高等学校)卒業、東京大学理学部卒業、東京大学教授、名誉教授、国際基督教大学学長。理学博士。遺伝学の祖メンデルを記念した日本メンデル協会初代会長、財団法人染色体研究所理事長などを勤めた。1966年紫綬褒章受章。1971年叙勲三等授旭日中綬章。1989年叙従四位。UP




宇田 荻邨
写真は「現代美術家名鑑-昭和29年版」より

宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年6月30日 - 1980年1月28日)は、三重県松阪生まれの日本画家、日本芸術院会員。本名・善次郎。京都市立絵画専門学校別科(現:京都市立芸術大学)卒業。1919年(大正8年)の 第1回帝展で「夜の一力」で初入選をはじめ、1923年「花畑」が大阪毎日新聞社賞受賞1925年「山村」が第6回帝展特選を受賞、第7回帝展で「淀の水車」(現大倉集古館蔵)が特選、帝国美術院賞を受賞。1928年帝展審査員、1956年には画塾白甲社を創設、1973年には日展顧問など、数多くの要職を勤めた。UP




村山塊太
村山塊太(むらやま かいた、1896年9月15日~1919年2月20日)は、神奈川県横浜市生まれの画家。中学を卒業後、日本美術院研究所に入所、洋画を学ぶ。二科展、日本美術院展に出品し、1915年第2回日本美術院展に出品した〈カンナと少女〉で院賞を受賞する。第3回日本美術院試作展に〈湖水と女〉、〈コスチュームの娘〉を出品し奨励賞を、第4回日本美術院展に〈乞食と女〉を出品し院賞を受賞する。同年日本美術院友に推挙される。失恋や制作上の苦しみから放浪と退廃の生活を送り、フォーヴィスムを基調として陰影の濃い青春の哀感を表現するが、結核に冒され22歳の若さで夭折した。UP



湯浅 芳子
湯浅 芳子(ゆあさ よしこ、1896年12月7日 - 1990年10月24日)は、京都市出身のロシア文学者、翻訳家。
昭和2-5年中条(宮本)百合子とともにモスクワに留学。帰国後、プロレタリア文学運動に参加。22年「婦人民主新聞」編集長となる。訳書にチェーホフ「桜の園」、ゴーリキー「幼年時代」、随筆集に「狼いまだ老いず」などがある。
同性愛者で、宮本をはじめとして何人かの女性と同棲生活を送った。百合子との関係については、沢部ひとみ『百合子、ダスヴィダーニヤ 湯浅芳子の青春』(学陽書房「女性文庫」、1996年)に詳しい。また、生前の湯浅芳子と交流があった瀬戸内寂聴による回想評伝『孤高の人』(筑摩書房、ちくま文庫で再刊、2007年)がある。2008年には、宮本百合子との往復書簡が刊行され、2010年には、浜野佐知監督による映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』が制作された。
死後、彼女の功績を記念し、外国戯曲の優れた翻訳・脚色・上演を行った者に贈られる湯浅芳子賞が作られた。UP



池田 亀鑑

池田 亀鑑(いけだ きかん、1896年(明治29年)12月9日 - 1956年(昭和31年)12月19日)は、鳥取県出身の国文学者。平安文学専攻。鳥取師範学校、東京高等師範学校を経て、女子学習院助教授、1926年、東京帝国大学国文科卒業、同副手。1934年、助教授、その一方、兼任で二松学舎専門学校教授、大正大学教授、日本女子専門学校教授、昭和女子大学日本文学科科長、立教大学大学院教授を務める。1955年、58歳でようやく東京大学教授となるが、翌年、「源氏物語大成」全8巻完結の直後に死去。源氏物語に生涯を捧げ、殉じた。UP




小林かいち
小林かいち(1896-1968)大正末期から昭和初期にかけて活躍した絵葉書のデザイナー。
京都京極の版元「さくら井屋」から販売された木版刷り絵葉書や絵封筒が多数現存する。生没年、経歴とも不詳であったが、2007年に作品をまとめた「小林かいちの世界―まぼろしの京都アール・デコ」が刊行されたことがきっかけで、2008年に遺族がみつかり、正体が判明した。
バラ、ハート、ゴンドラ、物憂げな人物等、ロマンティックなモティーフを多数描いているが、また他方で人気漫画「正チャン」、クロスワード・パズル、松井須磨子の歌謡曲等、大正末期の流行を取り入れたモティーフも目立つ。彼の作風は、単純化された線・面と鮮烈な色彩とがもたらす装飾性に特徴があり、都会的なアール・デコ様式の影響がみてとれる。時代の流行をとらえたデザインは谷崎潤一郎『卍』作中においても言及され、絵封筒《桜らんぼ》《トランプ》の2作品が登場する。UP


三木清

三木 清 (みき きよし, 1897年1月5日-1945年9月26日) は、(西田左派を含めた上での)京都学派を代表する、兵庫県揖保郡揖西村(後の龍野市、現在のたつの市)出身の哲学者である。
第一高等学校から京都大学に進み、西田幾多郎に師事する。大学在学中は西田のみならず東北大学から転任してきた田辺元や左右田喜一郎らからも多くの学問的影響を受けた。UP



内村祐之

内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年11月12日~1980年9月17日)は日本の精神医学研究者であり、プロ野球のコミッショナー職も歴任した人物。東京出身。父はキリスト教思想家として著名な内村鑑三。
東京帝大に進み、学生野球界では一高時代に、早稲田・慶應義塾を久しぶりに撃破するなど名だたる左腕投手として名を馳せた。大学卒業後は医学の道に進むかたわら学生野球の指導も行う。1928年に北大教授に就任、その後東京大学医学部教授(学部長も務める)、国立精神衛生研究所長などを務める。偉業を達成した人物の脳の研究や双生児の研究で多くの業績を残した。その一方、戦中戦後の野球界にも多大な影響を与え、いわゆるV9の巨人黄金時代の川上哲治監督に大きな影響を与えたといわれるアル・キャンパニスの「ドジャースの戦法」を翻訳したのも内村である。没後1983年、特別表彰として野球殿堂入りした。UP




嘉村 礒多

嘉村 礒多(かむら いそた 明治30年(1897年)12月15日 - 昭和8年(1933年)11月30日)は私小説家。山口県吉敷郡仁保村(現在は山口市仁保)出身。
1926年(大正15)、中村武羅夫の主宰する雑誌「不同調」の記者となり、葛西善蔵等の知己を得、葛西の口述筆記にたずさわる。同誌に「業苦」「崖の下」を発表。これらに対する宇野浩二の言及から文壇の注目を浴びた。1929年(昭和4)「近代生活」創刊に際して同人となる。翌年、新興芸術派倶楽部に参加。1932年(昭和7)年「途上」(『中央公論』)で文壇的地位を確立した。『中央公論』に小説が載ったことで嘉村は「天下をとった!」と叫んで走り回ったことを、「神前結婚」(33年1月『改造』)で書いたことは有名な話である。
私生活では結婚当初から不仲だったこともあり、妻子を捨て、当時勤務していた学校の裁縫教師であった小川ちとせと駆け落ちした。ちとせは35歳の若さでなくなった嘉村礒多の死後、再婚するも、その作品を世に出すことに努めた。また、ちとせは戦時中に下松市の実家松永家に礒多の未発表作品を預けようとしたが断られ、その未発表作品は結局、戦災で焼失した。UP




海野十三

海野 十三(うんの じゅうざ又はうんの じゅうぞう、1897年12月26日 - 1949年5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、科学解説家。徳島市生まれ。日本SFの始祖の一人と呼ばれる。早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電気試験所に勤務しながら、1928年、雑誌『新青年』に掲載された探偵小説「電気風呂の怪死事件」で本格的にデビュー。太平洋戦争中には軍事科学小説を量産し、海軍報道班員として従軍したものの、敗戦に大きな衝撃を受ける。1946年2月に友人小栗虫太郎の死が追い打ちをかけ、戦後を失意の内に過ごし、1949年5月17日、結核のため死去。多磨霊園に葬られた。UP




伊東深水

伊東 深水(いとう しんすい、1898年2月4日 - 1972年5月8日)は大正・昭和期の日本画家。
日本画独特のやわらかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあったという。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し、評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。
次男は日本画家で日展評議員を務めた伊東万燿(いとう まんよう)。息子に日本画家の勝田深氷(かつた しんぴょう)、電通で映像事業局長などを務めた勝田祥三がいる。娘は女優の朝丘雪路。UP




井伏鱒二

井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年2月15日 - 1993年7月10日)は、日本の小説家。広島県福山市加茂町の生まれ。本名、満壽二。筆名は釣り好きだったことによる。「山椒魚」は教科書でも有名。
早稲田大学文学部仏文科中退。1938年、『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞受賞、『文学界』の同人となる。戦時中は陸軍に徴用され、開戦時には南シナ海上の輸送船の中にいた。日本軍が占領したシンガポールに駐在し、現地で日本語新聞の編集に携わった。この経験が、その後の作品に大きな影響を与えている。直木賞選考委員、芥川賞選考委員、新潮同人雑誌賞選考委員を務めた。写真は31歳頃 UP




横尾 深林人
写真は<大日本画家名鑑-昭和9年版>より
横尾 深林人(よこお しんりんじん、明治31年(1898年)3月22日 - 昭和54年(1979年))は、新潟県出身の日本画家。本名は信次郎。小坂芝田(しでん)、小室翠雲(こむろ すいうん)らに学んだ。別号に南田、翠田がある。日本南画院展などに出品したのち大正7年文展に初入選。昭和4年帝展で「徜徉」が特選。36年現代日本墨画海外展にも出品。UP



宮田東峰
宮田東峰(みやた とうほう、1898年3月24日-1986年1月31日)群馬県出身
大正から昭和にかけて活躍したハーミニカ演奏家、作曲家で事業家。自分の顔を楽器に関する商品の商標として登録したことで有名。ハーモニカの箱の裏に、この人の顔写真が載っていることを覚えている人も多いだろう。UP



今東光

今 東光(こん とうこう、1898年3月26日 - 1977年9月19日)は、天台宗僧侶(法名 今 春聴)、小説家、参議院議員。新感覚派作家として出発し、出家後は住職として住んだ河内や東北を題材にした作品で知られる。作家・評論家で文化庁長官を務めた今日出海は弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は遠縁にあたる。UP




森 白甫
写真は<大日本画家名鑑-昭和15年版>より
森 白甫(もり はくほ、1898(明治31)年7月6日 - 1980(昭和55)年5月27日)は、東京都出身の日本画家、日本芸術院会員。本名は喜久雄。
1916年荒木十畝に師事。大正14年帝展で「巣籠る鷺」が初入選。昭和33年「花」が芸術院賞。53年芸術院会員。多摩美大教授。著作に「日本画の技法」がある。UP
 



常岡文亀
常岡文亀(つねおか ぶんき、1898年11月13日-1979年11月29日)は兵庫県丹波出身の画家。
1917年東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科に主席で入学。特待生になり、その後、日本画の大家である結城素明に師事。また、小泉勝爾らの呼びかけで矢沢弦月らと
「晨光会」を結成し、在学中に第三回帝展で「百日紅」が初入選を果たす。卒業後結城門下の塾頭として東山魁夷、加藤栄三など後進の指導にもあたり、昭和3年には東京美術学校助教授となる。昭和4年の第10回帝展では 「鶏頭花」 が特選に選ばれた。昭和9年には小倉遊亀や寺島紫明らと共に「九皐会」を結成中央画壇において多くの作品を世に送り出し活躍した。UP



宮本百合子

宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年2月13日 - 1951年1月21日)は昭和期の小説家、評論家。17歳の時に『貧しき人々の群』で文壇に登場、天才少女として注目を集め、その後もプロレタリア文学の作家、民主主義文学のリーダーとして活躍した。98歳で亡くなった(2007年7月18日)文芸評論家で共産党員でもあった9歳年下の宮本顕治は夫であった。UP




島田 清次郎
島田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2月26日 - 1930年(昭和5年)4月29日は、石川県石川郡美川町(現白山市)出身の小説家。文壇で有名であった時代には「島清」という略称でも呼ばれた。
20歳で出版した長篇『地上』が大ベストセラーになり、 一時は天才作家としてもてはやされたが、「精神界の帝王」「人類の征服者」と自称するなどの傲岸不遜な言動は文壇で嫌われ、女性スキャンダルで一般の人気も急落。早発性痴呆(現在の統合失 調症)と診断されて精神病院に収容され、肺結核のため31歳で死去した。



渡辺渡

渡辺渡(わたなべわたる 1899-1946) 愛媛県生まれ。詩人。
1926年東京にあって詩誌「太平洋詩人」を編集し大正末期の新興詩壇をにぎわせた(編集には菊田一夫が協力し 萩原恭次郎、岡本潤、林芙美子、北川冬彦、草野心平、尾形亀之助らが執筆しアナキズム系詩人のよりどころとなった)が、それより前、房州南端の海岸にあって半ば行者のような生活をしながら「海洋の精神としでも稱すべき種類の思惟體系を全國に説いて歩く事によって一生を終えようと覺悟してゐた」ことがある。その頃の作品は『海の使者』『天上の砂』などにまとめられている。心境の變化によって上京後は市井に生活し、多少のダダと人生派的な情感とからなる作品を書いた。それらは『東京』に収められている。戦時中徴用されて外地にあった。 /「日本詩人全集 第五巻」より UP   




一戸謙三

一戸謙三(いちのへ けんぞう、明治32年(1899)~昭和54年(1979)は青森県弘前市出身の詩人。
慶應義塾大学医学部に入学するも、家庭の事情で中退。高等小学校の教師などをするかたわら作品を発表。関東大震災後の難を避けて故郷に帰ってきていた同郷の詩人福士幸次郎を中心に地方文化運動が発足するが、謙三もこれに参加し、本格的な詩作活動を展開した。詩集に津軽方言詩集「ねぷた」をはじめ「歴年」「椿の宮」「一戸謙三詩集」などがある。津軽を愛し郷土文化に貢献し、80年の生涯を閉じた。UP




梅原北明

梅原北明(うめはら ほくめい、1899年 - 1946年)は、日本の作家・編集者。本名は梅原貞康。昭和初期のエログロナンセンス文化を代表する出版人である。宗教研究家の梅原正紀は息子。
富山県の裕福な保険代理店に生まれる。早稲田大学中退。デカメロンを翻訳し何度かの発禁処分の末、出版。変態資料、文藝市場などのアングラ雑誌・書籍を多数発刊。出版法違反で前科1犯となる。彼の業績の中でよく知られたものとして、1928年(昭和3年)11月から6年8月まで何度も発禁処分を受けながらも出版をつづけた雑誌『グロテスク(GROTESQUE)』(全21冊)があげられる。当局の弾圧をかわすためグロテスク社、文藝市場社、談奇館書局など数回にわたり発行所の変更を余儀なくされた。今東光、村山知義らと親交があり、また小笠原長生中将も彼のファンであった。敗戦の翌年、発疹チフスで死去。UP





山口勘一(やまぐち かんいち、 1900(明治33)年2月20日-1955(昭和30)年2月24日)は、兵庫県出身の大正-昭和時代の農民運動家。
淡路(あわじ)を中心に日本農民組合の組織拡大と争議の指導につとめ、昭和3年の三・一五事件後、全国農民組合(全農)兵庫県連委員長となる。6年の全農分裂後は左派の全農全会に属した。UP



戸坂 潤

戸坂 潤(とさか じゅん、1900年9月27日 - 1945年8月9日)は、東京出身の哲学者。
東京開成中学校、第一高等学校(現東京大学教養学部)理科を経て、1924年京都帝国大学文学部哲学科卒業、同大学院進学。大学講師、大日本帝国陸軍少尉等を経て、1929年大谷大学教授就任も、翌年検挙。もともとは物理学専攻であったが、後に西田幾多郎の下で哲学を学ぶ。西田に師事する一方で、マルクス主義の研究者でもあったことから、学派的には三木清、舩山信一、梯明秀らとともにいわゆる西田左派に属する。また、彼は1932年に設立された唯物論研究会の創始者の一人であり、同事務長等を務めたが、治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ、栄養失調から全身疥癬に苦しめられ、敗戦の直前(8月9日)に長野刑務所で獄死した。戸坂は始め新カント主義の立場にあったが、空間論の研究を進めるなかで唯物論の立場に移り、日本の代表的な唯物論哲学者となった。唯物論研究会の事実上のリーダーといってよい。観念論哲学に対する批判を旺盛に行ったが、その死は観念論哲学者(田辺元など)からも惜しまれた。UP




麻田辨次
写真は「現代美術家名鑑-昭和29年版」より
麻田辨次(あさだ べんじ、明治33(1900)年12月14日-昭和59(1984)年10月29日)は京都出身の日本画家。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。旧姓は中西。本名は弁次。 西村五雲に師事。帝展、日展を中心に活躍。昭和34年「風霜」が日展文部大臣賞。40年「潮騒」が芸術院賞を受賞。作品はほかに「樹蔭」「群棲」など。UP



稲垣足穂

稲垣 足穂(いながき たるほ、1900年12月26日 - 1977年10月25日)は、日本の小説家。大正時代から昭和時代にかけて、抽象志向と飛行願望・メカニズム愛好と不毛なエロティシズム・天体とオブジェなどをモチーフにした数々の作品を発表。小説家になる前に前衛芸術家を志望していた経歴もあり、凝った装幀の本が多い。代表作は『一千一秒物語』、『弥勒』など。UP




薩摩 治郎八

薩摩 治郎八(さつま じろはち、1901年(明治34年)4月13日 - 1976年(昭和51年)2月22日)は、東京・日本橋において一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫として生まれる。実業家、作家で大富豪。
その華麗で洒落た浪費ぶりから爵位がなかったにもかかわらず「バロン薩摩」と呼ばれた。パリでは多くの芸術家と親交を深め、当時のヨーロッパ社交界にその名を轟かせた。当時パリで活躍していた、画家の藤田嗣治などの日本人芸術家を支援したほか、美術や音楽、演劇などの文化後援に惜しみなく私財を投じた。1959年(昭和34年)に徳島県を訪れ、旧友の蜂須賀正氏侯爵の墓参りを兼ねて阿波踊りを妻とともに楽しんでいた際に脳卒中で倒れ、その後徳島で療養生活を送った。パリで開催された「薩摩展」で紹介された作品を中心とした「薩摩治郎八と巴里の日本人画家」企画展で紹介された作品の多くが徳島県立美術館に寄贈された。フランス政府からレジオン・ドヌール勲章、日仏文化交流の功労で勲三等旭日章を授章。
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岡潔
岡 潔(おか きよし、1901年4月19日 - 1978年3月1日)は、日本の数学者。奈良女子大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1940年)。大阪府大阪市生まれ。
フランス留学時代に、生涯の研究テーマである多変数解析函数論に出会い、当時まだまだ発展途上であった多変数解析函数論において大きな業績を残した。その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、「岡潔」というのはニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていた事もあるという。京都大学時代には湯川秀樹、朝永振一郎らも岡の講義を受けており、物理の授業よりもよほど刺激的だったと後に語っている。
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丸木位里 左隣は妻の俊

丸木 位里(まるき いり、1901年6月20日 - 1995年10月19日)は日本画家。広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)生まれ。
上京して田中頼璋・川端龍子に師事。日本南画院、青龍社に参加し1939年から1946年まで美術文化協会展に出品。1941年、洋画家の赤松俊子(丸木俊)と結婚した。広島に原爆が投下されると郊外の三滝に住んでいた父・金助、母・スマを始めとする実家の家族の安否を気遣い俊とともに被爆直後の広島に赴き救援活動に従事した。この体験をもとに1950年、俊と協働で『原爆の図』を発表。以後、原爆の絵を描き続け1966年、埼玉県に原爆の図丸木美術館を設立。1995年には、朝日賞を受賞したほか妻の俊とともにノーベル平和賞候補にも選ばれた。『原爆の図』以外では、牛をモチーフとした作品でも知られる。UP




海音寺潮五郎

海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう、1901年(明治34年)11月5日 - 1977年(昭和52年)12月1日、戸籍上は3月13日生れ)は、日本の小説家・作家。本名は末富 東作(すえとみ とうさく)。鹿児島県伊佐郡大口村(現・伊佐市)生まれ。國學院大學高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら、創作をおこなう。1934年作家デビュー。歴史小説を多数発表した。國學院大學教授で戦国史の大家であった桑田忠親との交友も深かった。「天正女合戦」(『オール讀物』1936年4月号~7月号)と「武道伝来記」その他 (『日の出』1936年3月号)で第3回直木三十五賞(1936年上半期)を受賞。史伝『西郷隆盛』がライフワークで、絶筆・未完作となった。UP



中野実

中野実(なかの みのる、1901年11月30日~1973年1月3日)は小説家、戯曲作家。大阪府生まれ。
法政大学文科中退後、戯曲などを中心に活動するようになる。1931年、戯曲「二等寝台車」でデビュー。ユーモア小説を得意とする。直木賞候補になることもあった。主に、『オール読物』や『キング』などの大衆紙に発表する事が多かった。戦後、1954年には、戯曲「明日の幸福」で毎日演劇賞を受賞した。UP


三界稔

三界稔(みかい みのる、1901年-1961年)は鹿児島県出身の作曲家。
主なヒット曲は、島育ち、元気でねさようなら、上海だより、北満だよりなど。UP



中野重治

中野重治(なかの しげはる、1902年1月25日 - 1979年8月24日)は、日本の小説家、評論家、詩人。福井県出身。
東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。この間に多くの作品を発表した。1931年に日本共産党に入ったが、検挙される。戦後、再び日本共産党に入り、また、『新日本文学』の創刊に加わる。平野謙、荒正人らと「政治と文学論争」を引き起こし、戦後文学を確立させた。1947年から50年まで参議院議員。
代表作に、小説『むらぎも』『梨の花』『歌のわかれ』、評論『斎藤茂吉ノオト』『甲乙丙丁』、詩集『中野重治詩集』など。UP


直良信夫

直良 信夫(なおら のぶお、 1902年1月1日(戸籍上は10日) - 1985年11月2日) 大分県臼杵市出身
考古学者、動物考古学者、古生物学者、文学博士。明石人、葛生人などの発見で知られる。また、従来の日本考古学では等閑に付されていた、遺跡から出土する骨や種子といった、動物植物の様々な遺骸を考古学的に研究し、過去の食物や環境復元を進めた。特に貝塚研究では先駆的業績をあげ、今日の動物考古学や環境考古学の礎(いしずえ)を築いた。こちらもどうぞ UP




吉野 秀雄

吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年7月3日 - 1967年7月13日)は、群馬県高崎市生まれの歌人。慶應義塾大学経済学部に入学するが中退。在学中に若くして結核をわずらい、以後生涯の多くを床の中で過ごすも、創作活動に没頭する。(「病人歌人」としても知られる。)伊藤左千夫・正岡子規らアララギ派の作風に強い影響を受けた作風で知られる。
戦中に妻はつ子と死別。2番目の妻のとみ子は詩人の八木重吉(結核の為29歳で亡くなる。)の元妻である。次男・吉野壮児(1933年 - 1993年)は翻訳家で、森珠樹の筆名を持つ。戦後、鎌倉アカデミアで教鞭をとり、そこで学んだ山口瞳は、吉野と終生交流を持ち、没後1969年に『小説・吉野秀雄先生』を書き、師の実像を伝えた。UP




水田硯山
写真は<大日本画家名鑑-昭和15年版>より
水田硯山(みずた けんざん、明治35(1902)年12月14日-昭和63(1988)年9月7日)は大阪出身の大正から昭和時代の日本画家。本名は美朗(よしろう)。
兄の水田竹圃(ちくほ)にまなぶ。日本南画院を中心に、帝展、新文展、日展などでも活躍し、帝展特選3回。後期印象派の影響をうけた山水画をえがく。作品に「雲散、水肥」「桐江新翠」など。UP



草野心平

草野心平(くさの しんぺい、1903年(明治36年)5月12日 - 1988年(昭和63年)11月12日)は日本の詩人。福島県上小川村(現・いわき市小川町)出身。
兄の草野民平、弟の草野天平も詩人。「蛙の詩人」と俗に言われるほどに、生涯にわたって蛙をテーマとした詩を書きつづけた。また蛙と同様、生涯にわたって「富士山」を追い求め、最後の詩集にも登場する。UP




山本周五郎

山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、山梨県出身の小説家。本名、清水三十六(しみず さとむ)。作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。1943年『日本婦道記』で第17回直木賞に推されるも辞退し、直木賞史上唯一の授賞決定後の辞退者となった。1961年(昭和36年)文藝春秋読者賞に『青べか物語』が推薦されるがこれも辞退。死後、功績をたたえて、山本周五郎賞がつくられた。数多くの作品が映画化やドラマ化、舞台化された。UP





堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年6月22日 - 1982年1月11日) 日本の航空技術者。
位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。
三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて革新的な設計を行うが、むしろ零式艦上戦闘機の設計主任として有名。
戦前には七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機(後の九六式艦上戦闘機)、戦時中は零式艦上戦闘機を含め、雷電、烈風と数は少ないものの、後世に語り伝えられる名機の設計を手掛けた。九試単座戦闘機では逆ガル翼を採用するなど革新的な設計を行い、のちの九六式艦上戦闘機の開発につながった。戦後は木村秀政らとともにYS-11の設計に参加した。三菱重工業は戦後分割されたため、それにともない発足した中日本重工業(のちの新三菱重工業)に勤務した。新三菱重工業では参与を務めた。
新三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関で教鞭を執った。1963年から1965年にかけて、東京大学の宇宙航空研究所にて講師を務めた。65年「人の操縦する飛行機の飛行性の改善に関する研究 :昇降だ操縦系統の剛性低下方式」で東大工学博士。 1965-69年防衛大学校教授。1972-73年日本大学生産工学部教授。UP



棟方志功
棟方 志功(むなかた しこう、1903年9月5日 - 1975年9月13日)は日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠。1942年以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。
少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「わだば、ゴッホになる」と芸術家を目指す。生命力、躍動感に溢れた力強い傑作を数多く生み出し、1956年ヴェネチア・ビエンナ-レ国際美術展に「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを鼻ずさみながら板画を彫った。仏を題材にした作品が特に有名。UP



島木健作

島木 健作 (しまき けんさく、1903年9月7日 - 1945年8月17日)は、北海道札幌市生まれの小説家。本名は朝倉 菊雄(あさくら きくお)。高見順・中野重治・徳永直・林房雄らとともに、転向文学を代表する作家の1人。UP




今日出海(左は坂口安吾)

今 日出海(こん ひでみ、1903年11月6日 - 1984年7月30日)は、小説家、評論家。幅広い人脈を作った。初代文化庁長官。北海道函館生まれ。三人兄弟の末子で、長兄は、のちの小説家で天台宗僧侶の、今東光。
1928年、東大仏文科卒。就職できず、法科へ入り直したが、外交官試験の年齢制限に気付き翌年退学。『文學界』誌の同人に加わり、評論・随筆・翻訳を載せた。左翼に同じぬ正統芸術派的立場であった。1941年11月、陸軍の報道班員に徴用されマニラに約1年滞在、1944年12月に再度徴用された時は、マニラについて直ぐのアメリカ軍の上陸にあい、数ヶ月の逃避行の後、福岡雁ノ巣飛行場へ帰った。1968年佐藤栄作首相に請われて文化庁初代長官を約4年間勤めた。1972年から国際交流基金の初代理事長を8年間勤め、1980年には国立劇場会長となった。そのほか、放送番組向上委員会委員長、日本アカデミー賞協会会長などの役職が、80近くに及んだ。(写真向かって左は坂口安吾)UP




林芙美子林芙美子
左は若い頃の林芙美子
林芙美子(はやし ふみこ、1903年12月31日 - 1951年6月28日)は、小説家。本名はフミ子。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」という言葉で知られる。晩年は映画化されるなど女流作家として確固たる地位を築いたが、作風は自らの貧困に苦しんだ生い立ち、流浪の経験などを基にした、生々しい実感を伴う表現や人物描写が特徴である。1928年から雑誌『女人芸術』に19歳から23歳頃までの多感な放浪の日々を書き綴った私小説『放浪記』を連載し、1930年に単行本として出版され当時のベストセラーとなった。女優の森光子が45年以上、舞台『放浪記』で林芙美子役を演じ続けている。
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石川光陽

石川 光陽(いしかわ こうよう、本名:石川 武雄。1904年(明治37年7月5日) - 1989年(平成元年)は警視庁に所属していた警察官・写真家である。警視総監直々の命令を受けて東京大空襲の惨状などを撮影したことで知られる。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の際も、その惨状を33枚の写真に残した。空襲開始後に両国警察署(現・本所警察署)にかろうじて到達したが、猛烈な風と煙と火の粉のために撮影はできず、目前で多数の市民が死んでいくのをどうすることもできなかったという。カメラを抱いて逃げまどい、奇跡的に生存、夜が明けてから被害の様相を撮影した。このときの様子については「無惨な同胞の死体にカメラを向けることは、死者から叱られるようで一番つらかった。然し使命の前には非情にならざるを得なかった。合掌をしながらそこを立ち去り警視庁まで歩いて帰った」と戦後に記している。戦時中は一般市民が空襲の被災現場を写真に撮影することは事実上禁じられていたため、光陽が撮影した一連の写真は空襲の被害を伝える貴重な映像となった。また、戦後GHQの空襲被害状況を撮影したネガを提出せよという命令を拒否し、ネガが押収される事を防ぐために、自宅の庭に埋めて保存した。光陽がGHQからネガを守りぬいたことにより、東京大空襲の惨状を視覚的に捕らえる写真という形で後世に残る事になった。戦後も警察官として1963年(昭和38年)まで活躍し、1989年(平成元年)に85歳で死去した。UP




橋本明治

橋本明治(はしもとめいじ、1904年8月5日 - 1991年3月25日)は、日本画家。島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)生まれ。19歳の時、妹をモデルに制作した≪ガラシャ夫人像≫が島根県展に入選。日本画の伝統にこだわらず、くっきりとした描線と鮮やかな色彩が印象的な、独自の作風を生み出したことで知られる。1940年、36歳の若さで法隆寺金堂壁画を模写するという大役を任された。1952年≪赤い椅子≫で芸能選奨文部大臣賞、1955年≪まり千代像≫で日本芸術院賞を受賞。1974年文化勲章受賞。UP




堀辰雄
堀 辰雄(ほり たつお、1904年12月28日-1953年5月28日)は、昭和初期に活躍した日本の作家。東京都出身。代表作「風立ちぬ」UP



伊藤整

伊藤 整(いとう せい、男性、1905年1月16日 - 1969年11月15日)は、評論家、詩人、小説家。本名は整(ひとし)。日本芸術院会員、日本芸術院賞。北海道松前郡生まれ.小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業後、教師を経て上京、東京商科大学(現一橋大学)入学・中退。
20世紀日本文学の重要な文芸評論家の一人。1954年には「婦人公論」連載エッセイ『女性に関する十二章』がベストセラーとなり、「○○に関する十二章」という書物の出版が相次ぐなど「十二章ブーム」を巻き起こした。同名の映画(市川崑監督)に本人もナレーション・端役で出演、この年には小説『火の鳥』もベストセラーとなるなど、一躍時の人となり、チャタレイ裁判とともに、伊藤整の名を広く知らしめることになった。伊藤滋(都市工学、東京大学名誉教授、早稲田大学教授、元慶應義塾大学教授)は長男。 伊藤礼(エッセイスト、元日本大学教授)は次男。
*1950年「チャタレイ婦人の恋人」の翻訳がわいせつ文書に当たるとして有罪となる。後に(1996年)息子の伊藤礼が完訳版を出版したが、現在に至るまでこの本はわいせつ文書として挑発されていない。UP




佐藤義美

佐藤 義美(さとう よしみ、1905年1月20日- 1968年12月16日)は、大分県竹田市出身の童謡作詞家、童話作家、詩人。代表作の『犬のおまわりさん』は、2007年(平成19年)に日本の歌百選に選出されている。他に童謡の代表的な作品に、『月の中』、『ともだちシンフォニー』、『おすもうくまちゃん』、『アイスクリームのうた』などがある。また、童話集『あるいた雪だるま』は1954年(昭和29年)に第1回産経児童出版文化賞を、『佐藤義美全集』(全6巻)は1975年(昭和50年)に第5回赤い鳥文学賞を受賞している。UP




本庄陸男

本庄陸男(ほんじょう むつお、1905年2月20日-1939年7月23日)は、日本の小説家。北海道石狩郡当別町出身。小学校の教師として、東京の名門、誠之小学校に勤務していたが、新興教育運動に参加し、下町の学校に自ら望んで転任する。そこでの経験はのちに「白い壁」という作品として結実した。彼の作品は、出身の北海道や幼少期を過ごした樺太での生活に取材したもの、東京での教員生活に取材したもの、という大きく分けて二つの系列がある。彼が作家として評価されるにいたった「白い壁」(1934年)は教員生活に取材したものだが、その後は北海道の歴史に取材したものに力を発揮した。長編「石狩は懐く」(1938年)や「石狩川」(1939年)によって彼の作品は高く評価されたが、間もなく結核のために死去した。UP




加藤楸邨

加藤楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)は日本の俳人、国文学者。本名は加藤健雄。妻は俳人の加藤知世子。
埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)の教員時代の同僚の勧めで俳句を始め、水原秋桜子の主宰する『馬酔木』に投句、秋桜子に師事し、馬酔木の同人となる。のちに俳誌『寒雷』を創刊し主宰となり、1942年(昭和17年)馬酔木を離脱。1944年歌人の土屋文明らと中国に渡り戦地俳句を詠む。(大本営への協力を疑われ批判された。)
楸邨は「真実感合」を唱え、人の内面心理を詠むことを追求し、中村草田男、石田波郷らと共に人間探求派と呼ばれた。『寒雷』からは金子兜太、森澄雄、古沢太穂、田川飛旅子、石寒太、今井聖など多様な俳人が育ち「楸邨山脈」と言われた。
1954年-1974年青山学院女子短期大学教授。1968年(昭和43年)句集『まぼろしの鹿』で第二回蛇笏賞を受賞。1985年日本芸術院会員。松尾芭蕉の研究などの功績により紫綬褒章、勲三等瑞宝章叙勲。1993年従四位を追贈。UP




松田解子

松田 解子(まつだ ときこ、本名:大沼 ハナ、1905年(明治38年)7月18日 - 2004年(平成16年)12月26日)は、日本の小説家。秋田県荒川村出身。長男は記録映画作家の大沼鉄郎。
三菱鉱山経営の荒川鉱山に育った彼女は鉱山の過酷な労働条件をみるなかで、社会の矛盾を考えるようになり、上京。プロレタリア文学運動に参加し、小林多喜二や宮本百合子と知り合う。戦後、新日本文学会に参加し、その後日本民主主義文学会にいたるまで、民主主義文学運動の代表的な作家として、平和と民主主義のために多面的に活動し、社会の不合理への抗議の意識を晩年までもちつづけた。女性問題や産児制限の問題に関連した作品や、尾去沢鉱山の事故に取材したルポ、自分の母親の生涯に材をとった長編『おりん口伝』、東京電力の人権侵害賃金差別(思想差別)撤廃の訴訟に取材する『あなたの中のさくらたち』など作品多数。UP




白井 晟一

白井 晟一(しらいせいいち、1905年 - 1983年11月22日)は日本の建築家。京都出身。
生前からしばし丹下健三と比較され、戦後日本を代表する建築家の1人とされている。
京都高等工芸学校を経てベルリン大学哲学科に留学、ヤスパースらに師事した。
1935年に帰国し、建築設計を始めた。
第二次世界大戦中、秋田に疎開した縁で秋田県内(特に湯沢市)には白井が手がけた建築が多数残されている。戦後はモダニズム建築全盛の風潮に背を向け、哲学的と称される独自の建築を生み出した。白井の建築作品を特徴付けているのは、象徴的な形態と光に対する独特の感性である。白井の作品では合理的な解法という面と、形而上学的な表現という面は分かちがたく両立している。また、コンクリート造りの内部空間はしばしば「洞窟的」と称される、独特の光の扱いと思考的空間を宿しているが、木造においてはむしろ開放的に明るい。

「空間」を建築創造の主題とする近代主義(モダニズム)建築の主流に迎合せず、むしろそれ以前の部屋単位の組み立てや、陰影や素材によってもたらされる(パースペクティヴ的でない)奥行き感、象徴的な造形、人間の胎内感覚といった要素を重視して別の可能性を切り開いた。UP




松本たかし

松本 たかし(まつもと たかし、1906年(明治39年)1月5日 - 1956年(昭和31年)5月11日)は、日本の俳人。東京都神田猿楽町出身にて宝生流能役者の家に生まれる。神奈川県鎌倉市浄明寺に住んでいた事もある。錦華小学校卒業後、在宅で漢学や国文学を学びながら能の修行に励むも、病身のため能役者を断念。1922年俳句をはじめ、高浜虚子に師事。1929年「ホトトギス」の同人となる。虚子門下では、川端茅舎、中村草田男、芝不器男に並び称された。平明な言葉で、気品に富む美しい句を残した。1953年、第5回読売文学賞の詩歌俳句賞を『石魂』で受賞。弟に能楽師の松本惠雄(人間国宝)。UP




吉行エイスケ
吉行 エイスケ(よしゆき えいすけ、本名:栄助、1906年5月10日 - 1940年7月8日)は、日本のダダイスト詩人、小説家。
アナーキズムに傾倒し、旧制第一岡山中学校(現・県立岡山朝日高校)を4年時に退学し詩作に励む。その翌年当時まだ学生の吉行あぐりと結婚し、長男吉行淳之介が生まれるが暮らし向きは良くなかった。上京後、詩人の辻潤、清沢清志、高橋新吉らと交友を通し、『ダダイズム』を発行、1926年『虚無思想』を新居格らと主宰し新興芸術派の旗手と目されるが、1933年には断筆し、1940年に狭心症のため34歳の若さで急死した。妻の吉行あぐりは美容師で1997年NHK連続テレビ小説「あぐり」のモデルでもある。長男は小説家の吉行淳之介、長女は女優の吉行和子、次女は詩人の吉行理恵。UP



坂口安吾

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年2月17日) は、日本の小説家、エッセイスト。本名は炳五(へいご)。東洋大学文学部印度哲学科卒業。純文学のみならず、歴史小説、推理小説、文芸エッセイまで、幅広く活動した。終戦直後に発表した『堕落論』などにより時代の寵児となり、無頼派と呼ばれる作家の一人、その後の多くの作家にも影響を与えた。UP



平川英夫
平川 英夫(ひらかわ ひでお、1906年-?)熊本県出身の作曲家。
主なヒット曲は別れのタンゴ、恋のマドロス、小島通いの郵便船など。UP



湯川秀樹

湯川秀樹(明治40年(1907年)1月23日 - 昭和56年(1981年)9月8日)は、日本の理論物理学者。ノーベル物理学賞受賞。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。従二位勲一等。理学博士
.中間子論の提唱などで原子核・素粒子物理学の発展に大きな功績をあげ、1949年日本人として初めてのノーベル賞を受賞した。このニュースは、敗戦・占領下の自信を失っていた国民に大きな力を与えたとされ、フィーバーを巻き起こした。核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。またその一方で、非局所場理論・素領域理論といった革新的かつ野心的な理論を提唱しつづけ、最後まで第一線級の物理学者であり続けた。UP



折口春洋
                    
↑写真は「石川県立羽咋高等学校同窓会」HPから 

折口 春洋(おりくち はるみ、旧姓:藤井、1907年2月28日 - 1945年3月19日)は石川県出身の国文学者。1925年、國學院大學予科に入学し、折口信夫に師事。折口主宰の短歌結社「鳥船社」に入り、新派短歌を作る。1928年、同性愛者であった折口と同居開始。1943年2度目の召集を受け金沢歩兵聯隊に入営。1944年7月硫黄島に着任し、陸軍中尉を拝命。同じ1944年7月、折口信夫の養子として入籍した1945年3月19日、硫黄島にて戦死。しかし折口信夫は米軍上陸の2月17日を命日と定め、「南島忌」と名づけた。折口信夫が建てた父子の墓は、羽咋市にある。墓碑銘には、「もつとも苦しき たゝかひに最苦しみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋 ならびにその 父信夫の墓」 と刻まれている。UP




安井郁

安井 郁(やすい かおる、1907年4月25日 - 1980年3月2日)は大阪府出身の国際法学者。平和運動家。1955年原水爆禁止日本協議会(原水協)の初代理事長に就任、1970年には北朝鮮のチュチェ(主体)思想を研究し、日朝社会科学者連帯委員会の議長に就任した。法政大学名誉教授、国際法学会幹事長。


【解説】
ブリッジの位置が天地の中央付近の高さにあることや、鼻当てパッドが写真では見えないことからしてこれはおそらく、一山であろう。

この写真が1955年ころに撮られたものであれば、そのころはもうパッドつきのメガネは出回っていたから、愛着があるとか何らかの理由でかなり以前のメガネをそのまま使っているのであろう。(もしかして、枠は親の形見?)

この枠のフレームPD(左右のレンズの中央の間隔)は64mmくらいで、この人のPD(瞳孔間距離)はそれよりも、2~3mm長い。そうすると、このように瞳孔中心がレンズの中央よりも耳側に寄って、外見的にもいまひとつだし、装用者本人の耳側視野が狭くなって使い勝手も良くない。

昔はフレームPDの広いメガネは無かったので、(いまも丸メガネではフレームPDの広いものは少ない)少しPDの広い人がメガネを掛けるとこんな状態になったのだが、セルの丸メガネでも、本会オリジナルの Akademeia なら、この人がかけても、こんなことにはならなかったであろう。

このサイトの人物史に収録されている大勢の人物の写真を本人のPDとフレームPDとの適合性、という観点で見るのも一つの鑑賞方法である。UP



須賀田礒太郎

須賀田 礒太郎(すがた いそたろう、1907年11月15日 - 1952年7月5日)は日本の作曲家。神奈川県横浜市生まれ。病弱のため、1927年に関東学院中等部を退学。山田耕筰、信時潔、菅原明朗、クラウス・プリングスハイムに師事。戦前から戦中にかけて活躍した。1935年に管弦楽曲『日本絵巻』が宮内省のコンクールに入選。1938年に管弦楽曲『交響的舞曲』が新響第2回法人作品コンクールに入選。戦時中は栃木県田沼町に疎開し、戦後も同地に留まり肺結核にて死去。UP




東山魁夷

東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年7月8日 - 1999年5月6日)は、昭和期を代表する日本画家。千葉県市川市名誉市民。

約10年の歳月をかけて制作した奈良・唐招提寺御影堂障壁画は畢生の大作となった。このプロジェクトを手がけたことにより国内での知名度と人気はさらに高まり、国民的日本画家とも称されるようになった。ドイツ留学中に知ったドイツロマン主義の画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒを日本に初めて紹介したのも彼である。また、瀬戸大橋の色を提案したことでも知られる。UP

【メガネ寸評】
この学生時代の東山氏がかけているのは一山ブリッジの丸メガネである。
この写真が撮られた大正15年は、ノーズパッドがアメリカで発明された1920年からまだ間もない頃なので、我が国にはまだ一山ブリッジしかなかったのであろう。
このメガネの 玉型サイズ(レンズ径)は、40~42mm、鼻幅は18~20mm程度であろう。



小野忠重

小野 忠重(おの ただしげ、1909年1月19日 - 1990年10月17日)は東京都出身の版画家。版画史や古地図、浮世絵の研究者でもある。1932年から藤牧義雄らとともに「新版画集団」(その後、造形版画協会に名称変更)を結成。版画展に多数出品。東京藝術大学版画研究室の講師や第6、7回東京国際版画ビエンナーレ展諮問委員などをつとめる。1979年、紫綬褒章を受章。UP




中島敦

中島 敦(なかじま あつし、1909年5月5日 - 1942年12月4日)は、日本文学の作家。
作家の深田久弥と深い交友を持ち、デビュー作の『山月記』と『文字禍』(発表時の題は二作まとめて『古譚』)、続けて発表された『光と風と夢』などは、彼の推薦による。気管支喘息のため早逝。『李陵』他いくつかの作品は没後に発表された。漢文調の格調高い文体とユーモラスに語る独特の文体を巧みに使い分けている。『李陵』は無題であったものを深田が命名したもの。UP




川島武宜

川島 武宜(かわしま たけよし、1909年(明治42年)10月17日 - 1992年5月21日)は、日本の法学者、弁護士。専門は民法、法社会学。1979年学士院会員、1991年文化功労者。
岐阜県岐阜市生まれ。啓蒙的な著作を多く著し、丸山眞男、大塚久雄とともに戦後民主主義、啓蒙主義を代表する論者。東京帝国大学教授、スタンフォード大学客員教授等を歴任。東京大学教授退官後は弁護士として活動した。UP




杉山寧

杉山 寧(すぎやま やすし、明治42年(1909年)10月20日 - 平成5年(1993年)10月20日)は、日本画家。1909年、東京浅草に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。
1928年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。山本丘人、高山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に積極的に携わった。卓越した素描力と堅固な構成による、安定感に満ちた静謐な画風が特色である。
1958年、長女瑤子が三島由紀夫と結婚。三島は瑤子を選んだ理由について「芸術家の娘だから、芸術家に対して何ら幻想を抱いていないこと」を挙げた。1974年、文化勲章を受章。UP



松本清張

松本 清張 (1909年12月21日-1992年8月4日) 小説家。本名、清張(きよはる)。九州福岡県生まれ。
生家が貧しかったために高等小学校卒業後、給仕、版工などの職につく。1950年、朝日新聞社勤務中に書いた処女作「西郷札」が『週刊朝日』の「百万人の小説」に入選し、1953年に「或る『小倉日記』伝」が第28回芥川賞を受賞。以後作家活動に専念する。「自分は作家としてのスタートが遅かったので、残された時間の全てを作家活動に注ぎたい」と語り、広汎なテーマについて質の高い作品を多作した。
1958年に発表した推理小説『点と線』『眼の壁』の2長編はベストセラーとなる。犯罪の動機を重視した「社会派推理小説」とよばれる作品は「清張ブーム」を引き起こし、推理小説を大衆に開放することに成功した。ほかの作品に『砂の器』や『Dの複合』、『ゼロの焦点』など。UP




白川静

白川 静(しらかわ しずか、男性、1910年4月9日 - 2006年10月30日)は、漢文学者・漢字学者。学位は文学博士(京都大学)。立命館大学名誉教授、名誉館友。文字文化研究所所長、理事長。福井県福井市生まれ。
漢字研究の第一人者として知られ、漢字学三部作『字統』、『字訓』、「字通」は白川のライフワークの成果である。甲骨文字や金文といった草創期の漢字の成り立ちに於いて宗教的、呪術的なものが背景にあったと主張したが、実証が難しいこれらの要素をそのまま学説とすることは、吉川幸次郎を筆頭とする当時の歴史学の主流からは批判された。しかし、白川によって先鞭がつけられた殷周代社会の呪術的要素の究明は、平勢隆郎ら古代中国史における呪術性を重視する研究者たちに引き継がれ、発展を遂げた。万葉集などの日本古代歌謡の呪術的背景に関しても優れた論考を行っている。UP




高橋英吉
高橋 英吉(たかはし えいきち、明治44(1911)年4月13日-昭和17(1942)年11月2日)
宮城県石巻市の彫刻家、東京美術学校(現東京芸大)卒。
木彫をまなび、「黒潮閑白」で文展入選、「潮音」で特選、「漁夫像」で無鑑査となり、若き彫刻家として注目された。昭和16年文展審査員に推挙されたが、妻と誕生間もない娘を残して応召され、昭和17年11月2日ガダルカナル島で31歳の若さで戦死した。出身地の宮城県石巻市とガダルカナル島に「潮音」のブロンズ像がたつ。UP



瑛九

瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月10日)は、宮崎県宮崎市出身の画家、版画家、写真家。本名・杉田秀夫。前衛的な作品、抽象的な作品(抽象絵画)が多い。日本美術学校卒業。1936年にフォトグラムの作品集『眠りの理由』を刊行。戦前では最もまとまった、しかも質の高いフォトグラム作品集で、瑛九のフォトグラムは特に「フォト・デッサン」とも呼ばれる。また、フォトモンタージュも得意とした。戦後は、むしろ絵画や版画(銅版画、リトグラフ)の制作に力を入れた。泉茂や早川良雄らとともに1951年にデモクラート美術家協会を結成。自由美術家協会、創造美育協会などにも参加。オノサトトシノブと、深い親交を結ぶ。余談だが、2006年9月12日放送の開運!なんでも鑑定団において「田園」という題名の瑛九の絵が鑑定された時、5000万円の値がつけられた。これはこの番組でも滅多に出ないほどの高額である。UP




徳田白楊

徳田白楊(とくだ はくよう、明治44(1911)年5月28日-昭和8(1933)年1月19日)、は豊後(現在の大分県)出身で、21歳で夭折したアララギ派の歌人。過酷な闘病生活を続けながら創作に励み、アララギ派の歌壇に認められた。昭和2年、16歳で助膜炎を発病し、長い休学の後、昭和4年、やや健康を回復。キリスト教に入信し、再び学校に通い始める。当時の大分新聞に歌を投稿したところ、選者であった土屋文明が目を留め、新聞は「宝玉的天才歌人現る」と報じた。19歳で再び病状が悪化、晩年の3年間は悲惨な状況であったという。その時に詠んだ歌が、「新しき命求めて生きてゆかむ これのねがひをかなへさせ給へ」であった。闘病生活の末、21歳の若さで亡くなった。UP




田中克己
田中克己(たなか かつみ、1911年8月31日-1992年1月15日)大阪生まれ。詩人、東洋史学者
東京帝大文学部東洋史学科を卒業。戦中の従軍を生き残り、後に帝塚山学院短期大学教授、成城大学文藝学部教授などつとめる。
「四季」「コギト」など同人誌編集創刊、「詩集西康省」「大陸遠望」等の詩集、東洋史、ドイツ文学、支那古典文学の著作多数。51歳の時に日本基督教団吉祥寺教会にて受洗UP



檀一雄

檀 一雄(だん かずお、1912年(明治45年)2月3日 - 1976年(昭和51年)1月2日)は、山梨県生まれの小説家、作詞家。私小説や歴史小説、料理の本などで知られる。また、西遊記の日本語抄訳もある。「最後の無頼派」作家といわれた。
1932年(昭和7年)東京帝国大学(現東京大学)経済学部に入学。在学中に、太宰治との交友が始まり、太宰治、中原中也、森敦らと『青い花』を創刊(1934年)。翌年、日本浪曼派に合流する。

代表作は、律子夫人の没後に描いた『リツ子 その愛』『リツ子 その死』、時代娯楽作も人気があり『真説石川五右衛門』(1950年、第24回直木賞受賞)、『夕日と拳銃』など、また20年以上に渡り書き続けライフワークとなった遺作『火宅の人』など。女優の檀ふみは長女。エッセイストの檀太郎は長男。太郎と同じくエッセイストの檀晴子は太郎の夫人(ふみの義姉)にあたる。UP




森本薫

森本 薫(もりもと かおる、明治45年(1912年)6月4日 - 昭和21年(1946年)10月6日)は、日本の劇作家・演出家・翻訳家。男性。大阪市東淀川区生まれ。
旧制第三高等学校文科より、京都帝国大学文学部英文科に進む。旧制高校在学中に発表した一幕ものの戯曲『ダムにて』が、処女作である。 京都にあった劇団エラン・ヴィタールに参加。作家や演出家として、また当時は俳優としても活動。ラジオ・ドラマの台本、映画シナリオなども手がける。1940年に、かねてより親交のあった岩田豊雄に推され、文学座に参加。大学時代より胸を患っていたが、戦時中に肺結核が再発。『女の一生』の初演(1945年4月)台本を戦後版へ改訂(文明社版)し、死去。享年34。代表作に『女の一生』、『華々しき一族』など。UP




石田 波郷
石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18日 - 1969年(昭和44年)11月21日)は、昭和期の俳人。本名哲大(てつお)。正岡子規、高浜虚子を生んだ近代俳句発祥の地、愛媛県温泉郡垣生村(はぶむら)(現・松山市西垣生)に生まれた。明治大学文芸科中退。戦後の俳壇を先導し、俳句文学に大きな功績を残した。長男の石田修大は日本経済新聞社の元論説委員で、現在は流通経済大学法学部教授。日本経済新聞では「私の履歴書」の担当記者でもあった。また伝記や句集を編んだ俳人の友人に村山古郷や楠本憲吉がいる。UP 



早坂文雄

早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 1955年10月15日)は、日本の作曲家。
日本映画音楽に新風を吹き込み、国際的な水準にまで高めた第一人者。「汎東洋主義」を唱え、日本的・東洋的な美学を、作品に生かそうと試み、武満徹、黛敏郎、芥川也寸志、佐藤慶次郎、佐藤勝といった後の世代の作曲家にも、大きな影響を与えた。黒澤明とのコンビでは「酔いどれ天使」、「野良犬」、「醜聞」、「羅生門」、「白痴」、「生きる」、「七人の侍」の作品を手がけたが、「生きものの記録」を最後に、41歳の短い生涯を閉じた。
UP




杉浦睦夫
 杉浦夫人提供写真~HP「パリエット」より
杉浦睦夫(すぎうら むつお 1918(大正7)年3月13日-1986(昭和61)年8月26日)は静岡県出身のカメラ技術者。東京写真専門学校卒。
オリンパス光学工業につとめる。同僚の深海(ふかうみ)正治、東大病院分院外科の宇治達郎とともに胃カメラの開発に取りくみ、1950(昭和25)年世界初の胃カメラ第一号の開発に成功し、胃の内部をフィルムに映し出すことに成功。さらに改良して2年後の1952(昭和27)年に実用化となった。その後、岡谷光学工業株式会社を経て、1958(昭和33)年、杉浦研究所を設立し研究に専念。UP



柴田武

柴田 武(しばた たけし、1918年7月14日 - 2007年7月12日)は、言語学、国語学者。東京大学名誉教授、埼玉大学名誉教授。文学博士(東京大学)(1969年)。愛知県名古屋市生まれ。
方言地理学、社会言語学などの研究を続け、「日本の方言」などを著した。『新明解国語辞典』や『類語大辞典』の編纂にも参加した。長く、NHKテレビ『日本語再発見』に出演し、1985年、NHK放送文化賞を受賞。私的な側面では国字ローマ字論の第一人者であり、財団法人日本のローマ字社の理事長を長らく務めた。UP




平多正於
平多正於(島田 正男から改名)ひらたまさお、1918年-1985年5月18日
1947年(S.22)舞踊こまどり会を東京都大田区に創立。1953年「こまどり芸術学園」として東京都に認可される。「大人も子供も楽しめる新しい舞踊ジャンル「平多舞踊」を確立した、舞踊界のカリスマ。舞踊芸術賞をはじめ数々の賞を受賞。UP



山田風太郎

山田 風太郎(やまだ ふうたろう、1922年(大正11年)1月4日 - 2001年(平成13年)7月28日)は、日本の小説家。本名は山田 誠也。 戦後日本を代表する娯楽小説の大家であり、晩年から死後にかけては「戦中派天才老人」などと呼ばれることが多い。『南総里見八犬伝』をはじめとした日本の古典伝奇文学に造詣が深く、それらに影響を受けた奇想天外な大衆小説とエッセイを多数執筆。1958年(昭和33年)に発表した『甲賀忍法帖』を皮切りに、安土桃山時代から江戸時代を舞台として、想像の限りを尽くした忍法を駆使する忍者たちの死闘を描いた、いわゆる忍法帖もので一世を風靡し、流行作家となる。1963年(昭和38年)から講談社より発売された『山田風太郎忍法全集』は累計で300万部を売り上げるという爆発的なベストセラーとなった。金井美恵子・馳星周・菊地秀行・京極夏彦・中島らも・澁澤龍彦など、プロの作家にもファンは多かった。UP



大山康晴

大山 康晴(おおやま やすはる、大正12年(1923年)3月13日 - 平成4年(1992年)7月26日)は、日本の将棋棋士で、十五世名人。棋士番号26。岡山県倉敷市出身。しばしば「史上最強の棋士」と称される。タイトル獲得80期は棋戦の数が少なかった時代的背景を考えれば驚異的な数字である。五冠王を5年近く保持した記録も持つ。棋風は、「受け」の達人として知られ、相手に攻めさせてから、指し切りにさせてしまう「受け潰し」を得意とした。優勢となっても勝ちを急がず、安全に勝つことを目指した。UP



橋本峰雄

橋本 峰雄(はしもと みねお、1924年(大正13年) - 1984年(昭和59年))は、徳島県出身の哲学者、法然院の第30代貫主。旧制大阪高等学校を経て、京都大学文学部哲学科へ進学。同級生の梅原猛と藤沢令夫とは、この頃からの親友。卒業後、出家する。仏門入りして、西洋哲学を学ぶ異色の学者として知られていた。神戸大学文学部教授として、哲学・倫理学専攻を担当した。「京都べ平連」の結成に参加するほか、思想の科学研究会・現代風俗研究会の会員としても研究活動に参加した。没後には現代風俗研究会がにその業績を記念して「橋本峰雄賞」を創設した。法然院・第31代貫主の梶田真章は長男。UP





写真(旧制中学時代)は産経新聞
【宇宙からのメッセージ 小松左京と秘書のおかしな物語】
より

小松 左京(こまつ さきょう、1931年1月28日 - 2011年7月26日)は、日本の小説家。本名、小松 実(こまつ みのる)。 星新一・筒井康隆と共に「御三家」と呼ばれる、日本SF界を代表するSF作家。1970年の日本万国博覧会でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年の国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られる。宇宙開発の振興を目的とした啓蒙活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問を務めるなど、執筆以外の活動を幅広いジャンルに対して行っていた。UP



大島 渚
大島 渚(おおしま なぎさ、1932年〈昭和7年〉3月31日 - 2013年〈平成25年〉1月15日)は、岡山県玉野市生まれの映画監督。妻は女優の小山明子。1959年(昭和34年)に『愛と希望の街』で映画監督デビュー。社会性の高い作品に特徴があり、権力機構に侮蔑される側にいる人間の屈辱感を厚みを持って描き出し、権力に闘争的に対峙する作品は日本国内で早くから注目を集め、松竹ヌーベルバーグの旗手とも呼ばれた[1]。1961年に松竹を退社するとテレビドキュメンタリーにも活躍の場を広げ、政治的・ジャーナリスティックな作品を手がけた。1976年の『愛のコリーダ』(L'Empire des sens)、つづく『愛の亡霊』(Empire of Passion)で、人間の愛欲の極限を描き出し、国際的な評価を確固たるものにした。このほか世界的に話題を呼んだ映画作品に『戦場のメリークリスマス』(1983年)、『御法度』(1999年)などがある。UP



種村 季弘

種村 季弘(たねむら すえひろ、1933年(昭和8年)3月21日 - 2004年(平成16年)8月29日)は、東京池袋生まれの独文学者、評論家である。
ヨーロッパの異端の文化や裏面史に関する広汎な知識で知られ、独文学の翻訳の他、幻想小説や美術、演劇に関する多彩な評論を展開し、神秘学思想研究でも知られる。また、西洋の歴史上のいかがわしくも魅力的な、詐欺師や怪奇人物・怪奇現象などを著作で多数、紹介した。仏文学者で評論家の澁澤龍彦との交流でも知られ、澁澤ともに幻想文学というジャンルの確立に貢献した。UP




黒川紀章
黒川 紀章(くろかわ きしょう、1934年4月8日 - 2007年10月12日)は、日本の建築家。愛知県海部郡蟹江町生まれ。京都大学工学部建築学科卒業。中銀カプセルタワービル(1972年)、大阪万博(1970年)のパビリオンの設計で国際的に名を知られるようになり、海外での作品も数多い。2007年4月の東京都知事選挙、同年7月29日の参院選に出馬。いずれも落選だったが、バラエティー番組への出演と合わせて、話題を呼んだ。参院選出馬のわずか2ヵ月後多臓器不全のため死去。UP



井上ひさし

井上 ひさし(いのうえ ひさし、1934年11月17日 - 2010年4月9日)は、日本の小説家、劇作家、放送作家。日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。UP




立松和平
立松 和平(たてまつ わへい、1947年12月15日 - 2010年2月8日)は、栃木県宇都宮市出身の小説家。
早稲田大学政治経済学部卒業。日本ペンクラブ会員。本名、横松和夫(よこまつかずお)「横松」のもじりで「立松」にしたとの事。行動派作家として知られ、自然環境保護問題にも積極的に取り組み、徳島で、川の学校の講師を務めたこともある。小説のほか、紀行文、絵本、戯曲、など、純文学作家としては異例なほど著書が多い。また近年は仏教への関心を深めており(インドへの関心は若い頃からのもの)、その方面のエッセイ類も多数ある。UP



北重人
北 重人(きた しげと、1948年1月3日 - 2009年8月26日)は、 山形県酒田市生まれの小説家。千葉大学工学部建築学科卒。一級建築士資格取得後、株式会社LAU都市施設研究所設立。造園、都市計画のコンサルタント業務の傍ら執筆活動を続けていたが、妻や友人の勧めもあり、短編『陽ざかりの棗(なつめ)』をオール讀物新人賞に応募。最終選考まで残るが、決選投票で山本一力著『蒼龍』に敗れる。1999年『超高層に懸かる月と、骨と』で第38回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2007年、『蒼火』で第9回大藪春彦賞を受賞。2009年、『汐のなごり』で第140回直木賞候補。胃がんにより61歳で死去。UP


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