丸メガネの人物史〜日本編(学者・文化人)その3


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ここでは1891年(明治24年)以降の丸メガネをかけた学者・文化人をご紹介します。

このページには新たに女性の丸メガネさんが登場します。明治生まれの女性は人前ではめったにメガネを掛けませんでした。林芙美子も、宮本百合子も若い頃は丸メガネを掛けていましたが、世に出てからは写真をとる時には必ずメガネをはずしたので、私たちが普通に見る彼女たちの写真にはメガネ無しのものしかないわけです。
昔は「女だてらにメガネなんて、生意気だ」という空気があったのでしょう。






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1891年(明治24年)
以降


生年順
生年 名前
1891 岸田劉生
1891 宇野浩二
1892 佐藤春夫
1892 弘田龍太郎
1892 山本省三
1893 児島善三郎
1894 速水御舟
1894 江戸川乱歩
1894 濱田庄司
1895 小倉遊亀
1896 小林かいち
1897 三木清
1897 内村祐之
1898 井伏鱒二
1899 宮本百合子
1899 渡辺渡
1901 丸木位里
1901 中野実
1902 中野重治
1902 直良信夫
1903 草野心平
1903 棟方志功
1903 島木健作
1903 今日出海
1903 林芙美子
1904 橋本明治
1904 堀辰雄
1905 伊藤整
1905 本庄陸男
1906 坂口安吾
1907 湯川秀樹
1908 東山魁夷
1909 中島敦
1909 杉山寧
1909 松本清張
1922 山田風太郎
1923 大山康晴

<生年順>




岸田劉生自画像岸田劉生

岸田 劉生(きしだ りゅうせい、1891年6月23日 - 1929年12月20日)は、大正〜昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。
北方ルネサンスの感化を受けて草土社を主宰し,大正画壇に異彩を放った。ダ・ビンチの「モナ・リザ」にヒントを得たという愛娘をモデルにした一連の「麗子像」は有名で、神秘的な微笑が印象的である。 病のため38歳で死去。UP




宇野浩二

宇野 浩二(うの こうじ、1891年7月26日-1961年9月21日)は、小説家・作家。福岡生まれ
3歳のときに父が脳溢血で急死、後、親戚から学資の援助を得て早稲田大学英文科に入学。1913年には小説集『清二郎 夢見る子』を出版。1919年に『蔵の中』を『文章世界』に発表、さらに同年、『苦の世界』を『解放』に発表し、新進作家として文壇で認められる。童話作家としても活躍した。また、妻のほかに芸妓などと交遊をもち、それらを小説化していった。昭和初年には精神を病み、斎藤茂吉の治療を受ける。その直後、親友芥川龍之介の自殺にあう。病気から回復したのちは芥川賞選考委員を務め、後進の育成にも努めた。 弟子に水上勉がいる。UP




佐藤春夫

佐藤 春夫(さとう はるお、1892年(明治25年)4月9日 - 1964年(昭和39年))5月6日)は小説家、詩人。和歌山県新宮市の医家に生まれる。『スバル』『三田文学』などに詩歌を発表、のち小説に転じた。1960年(昭和35年)に文化勲章受賞。芥川賞初代選考委員の一人。
友人の小説家谷崎潤一郎の妻・千代に恋慕し、のちに譲りうけたことがあった。谷崎の『蓼喰ふ蟲』はその経緯を描いたものと思われていたが、実はその前年の、千代を和田六郎(大坪砂男)に譲る件についてのものであることが分かった。谷崎と千代子の離婚成立後、三人連名の挨拶状を知人・マスコミに送り、「細君譲渡事件」としてセンセーショナルな反響を呼び起こした。代表作である「秋刀魚の歌」(詩集『我が一九二二年』所収)も千代への思慕が背景にある。
俗に門弟三千人と称され、門人に太宰治や檀一雄、吉行淳之介、稲垣足穂、柴田錬三郎、中村真一郎、五味康祐、遠藤周作、安岡章太郎、古山高麗雄などがいる。UP


弘田龍太郎

弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)6月30日-1952年(昭和27年)11月17日)は、作曲家。高知県安芸市に生まれる。代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『雀の学校』『春よこい』『靴が鳴る』など多数。他に歌曲『千曲川旅情のうた』、オペラ『西浦の神』、仏教音楽『仏陀三部作』など。UP




山本省三

山本省三1892-1971 大分県臼杵市出身。
下北かじや村の片岡家の男三人兄弟の末子として、明治二十六年に生まれる。最優秀の成績で臼杵中学を卒業し、長崎の医科大学へ進み、医師として第一歩を踏み出す。大阪西成区で開業し、貧しい人からの治療費は一切取らず、人々に「赤ひげ先生」と呼ばれた。大阪中に知れたわたる程の医者であり、在阪県人会第六代会長として臼杵人はもとより大分県人会の諸氏より先生と呼ばれ尊敬されていた。こちらもどうぞ UP




児島善三郎

児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年(明治26年)2月13日 - 1962年(昭和37年)3月22日) は、日本の洋画家。福岡市中島(現・博多区中洲中島町)生まれ。
1912年修猷館を卒業し長崎医学専門学校薬学科(現・長崎大学薬学部)に入学するも翌年中退し上京、岡田三郎助が指導する本郷洋画研究所に2ヵ月程学ぶが東京美術学校の受験に失敗し、以後師につかずほとんど独学。大正10年に二科展入選。大正13年から昭和3年まで滞欧。帰国後、二科展に滞欧作を発表、二科会会員となったが、昭和5年退会して独立美術協会の創立に参加。独自のフォーヴィズムから、日本の伝統的なフォルムと装飾的な表現の導入、写実への再確認などの展開を示しながら「日本人の油絵」の創造を目指した。代表作に、『箱根』、『アルプスへの道』などがある。UP





速水御舟

速水 御舟(はやみ ぎょしゅう、1894年(明治27年)8月2日 - 1935年(昭和10年)3月20日)は大正期〜昭和初期の日本画家。東京浅草生まれ。本名は蒔田 栄一(まきた えいいち)。
従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作「炎舞」のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。長くない生涯に多くの名作を残し、「名樹散椿」(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスにより急逝。40歳没。UP





江戸川乱歩

江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、明治27年(1894年)10月21日 - 昭和40年(1965年)7月28日)大正〜昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家。筆名はアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったもの。
少年向けに、明智小五郎と小林少年をはじめとする少年探偵団が活躍する作品『怪人二十面相』等を多数発表した。
日本推理作家協会初代理事長。戦後は評論による啓蒙や日本推理作家協会の設立に携わるなど多大な業績を残した。また新人発掘にも熱心で、筒井康隆、大薮春彦など乱歩に才能を見出された作家は少なくない。日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力し、同クラブに寄付した私財100万円の使途として江戸川乱歩賞が制定され、同賞は第3回より長編推理小説の公募賞となった。
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濱田庄司

濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年(明治27年)12月9日 - 1978年(昭和53年)1月5日)主に昭和に活躍した日本の陶芸家。神奈川県生まれ。
現東京工業大学窯業科で学び、卒業後は、学校が2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。また
イギリス、沖縄でも窯業を学び、1930年からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始する。殆ど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。民芸運動に熱心で、1977年には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館。
1955年第1回の重要無形文化財「民芸陶器」保持者(人間国宝)に認定、1968年には文化勲章を受章。

1978年益子にて没。享年83。UP





小倉遊亀

小倉 遊亀(おぐら ゆき、1895年3月1日 - 2000年7月23日)は、日本画家。本名、ゆき。滋賀県生れ。奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)卒。
女子高で国文学を教えるかたわら、1920年より安田靫彦に師事。1926年に「胡瓜」が院展に入選、以後1998年に「椿三題」を出品するまで連続入選。1932年、女性として初めて日本美術院同人となり、1936年に山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚し、鎌倉に住む。1976年より日本美術院会員、1978年に文化功労者に選ばれる。1980年には上村松園についで女性画家として二人目の文化勲章を受章。1990年から96年まで日本美術院理事長を務めた。1999年にはパリで個展を開いた。105歳の長寿を全うして、2000年に鎌倉で没している。色彩に富む人物画や静物画が特徴で、上村松園とともに日本を代表する女流画家。作「O夫人坐像」「小女」「浴女」など。奈良女子大学の講堂の緞帳は、小倉遊亀の「爛漫」という原画によるものである。UP





小林かいち

小林かいち(1896-1968)大正末期から昭和初期にかけて活躍した絵葉書のデザイナー。
京都京極の版元「さくら井屋」から販売された木版刷り絵葉書や絵封筒が多数現存する。生没年、経歴とも不詳であったが、2007年に作品をまとめた「小林かいちの世界―まぼろしの京都アール・デコ」が刊行されたことがきっかけで、2008年に遺族がみつかり、正体が判明した。
バラ、ハート、ゴンドラ、物憂げな人物等、ロマンティックなモティーフを多数描いているが、また他方で人気漫画「正チャン」、クロスワード・パズル、松井須磨子の歌謡曲等、大正末期の流行を取り入れたモティーフも目立つ。彼の作風は、単純化された線・面と鮮烈な色彩とがもたらす装飾性に特徴があり、都会的なアール・デコ様式の影響がみてとれる。時代の流行をとらえたデザインは谷崎潤一郎『卍』作中においても言及され、絵封筒《桜らんぼ》《トランプ》の2作品が登場する。
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三木清

三木 清 (みき きよし, 1897年1月5日-1945年9月26日) は、(西田左派を含めた上での)京都学派を代表する、兵庫県揖保郡揖西村(後の龍野市、現在のたつの市)出身の哲学者である。
第一高等学校から京都大学に進み、西田幾多郎に師事する。大学在学中は西田のみならず東北大学から転任してきた田辺元や左右田喜一郎らからも多くの学問的影響を受けた。UP




内村祐之

内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年11月12日〜1980年9月17日)は日本の精神医学研究者であり、プロ野球のコミッショナー職も歴任した人物。東京出身。父はキリスト教思想家として著名な内村鑑三。
東京帝大に進み、学生野球界では一高時代に、早稲田・慶應義塾を久しぶりに撃破するなど名だたる左腕投手として名を馳せた。大学卒業後は医学の道に進むかたわら学生野球の指導も行う。1928年に北大教授に就任、その後東京大学医学部教授(学部長も務める)、国立精神衛生研究所長などを務める。偉業を達成した人物の脳の研究や双生児の研究で多くの業績を残した。その一方、戦中戦後の野球界にも多大な影響を与え、いわゆるV9の巨人黄金時代の川上哲治監督に大きな影響を与えたといわれるアル・キャンパニスの「ドジャースの戦法」を翻訳したのも内村である。没後1983年、特別表彰として野球殿堂入りした。
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井伏鱒二

井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年2月15日 - 1993年7月10日)は、日本の小説家。広島県福山市加茂町の生まれ。本名、満壽二。筆名は釣り好きだったことによる。「山椒魚」は教科書でも有名。
早稲田大学文学部仏文科中退。1938年、『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞受賞、『文学界』の同人となる。戦時中は陸軍に徴用され、開戦時には南シナ海上の輸送船の中にいた。日本軍が占領したシンガポールに駐在し、現地で日本語新聞の編集に携わった。この経験が、その後の作品に大きな影響を与えている。直木賞選考委員、芥川賞選考委員、新潮同人雑誌賞選考委員を務めた。写真は31歳頃 
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宮本百合子

宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年2月13日 - 1951年1月21日)は昭和期の小説家、評論家。17歳の時に『貧しき人々の群』で文壇に登場、天才少女として注目を集め、その後もプロレタリア文学の作家、民主主義文学のリーダーとして活躍した。98歳で亡くなった(2007年7月18日)文芸評論家で共産党員でもあった9歳年下の宮本顕治は夫であった。UP





渡辺渡

渡辺渡(わたなべわたる 1899-1946) 愛媛県生まれ。詩人。
1926年東京にあって詩誌「太平洋詩人」を編集し大正末期の新興詩壇をにぎわせた(編集には菊田一夫が協力し 萩原恭次郎、岡本潤、林芙美子、北川冬彦、草野心平、尾形亀之助らが執筆しアナキズム系詩人のよりどころとなった)が、それより前、
房州南端の海岸にあって半ば行者のような生活をしながら「海洋の精神としでも稱すべき種類の思惟體系を全國に説いて歩く事によって一生を終えようと覺悟してゐた」ことがある。その頃の作品は『海の使者』『天上の砂』などにまとめられている。心境の變化によって上京後は市井に生活し、多少のダダと人生派的な情感とからなる作品を書いた。それらは『東京』に収められている。戦時中徴用されて外地にあった。 /「日本詩人全集 第五巻」より UP   





丸木位里 左隣は妻の俊

丸木 位里(まるき いり、1901年6月20日 - 1995年10月19日)は日本画家。広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)生まれ。

上京して田中頼璋・川端龍子に師事。日本南画院、青龍社に参加し1939年から1946年まで美術文化協会展に出品。1941年、洋画家の赤松俊子(丸木俊)と結婚した。広島に原爆が投下されると郊外の三滝に住んでいた父・金助、母・スマを始めとする実家の家族の安否を気遣い俊とともに被爆直後の広島に赴き救援活動に従事した。この体験をもとに1950年、俊と協働で『原爆の図』を発表。以後、原爆の絵を描き続け1966年、埼玉県に原爆の図丸木美術館を設立。1995年には、朝日賞を受賞したほか妻の俊とともにノーベル平和賞候補にも選ばれた。『原爆の図』以外では、牛をモチーフとした作品でも知られる。UP




中野実

中野実(なかの みのる、1901年11月30日〜1973年1月3日)は小説家、戯曲作家。大阪府生まれ。
法政大学文科中退後、戯曲などを中心に活動するようになる。1931年、戯曲「二等寝台車」でデビュー。ユーモア小説を得意とする。直木賞候補になることもあった。主に、『オール読物』や『キング』などの大衆紙に発表する事が多かった。戦後、1954年には、戯曲「明日の幸福」で毎日演劇賞を受賞した。
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中野重治

中野重治(なかの しげはる、1902年1月25日 - 1979年8月24日)は、日本の小説家、評論家、詩人。福井県出身。
東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。この間に多くの作品を発表した。1931年に日本共産党に入ったが、検挙される。戦後、再び日本共産党に入り、また、『新日本文学』の創刊に加わる。平野謙、荒正人らと「政治と文学論争」を引き起こし、戦後文学を確立させた。1947年から50年まで参議院議員。
代表作に、小説『むらぎも』『梨の花』『歌のわかれ』、評論『斎藤茂吉ノオト』『甲乙丙丁』、詩集『中野重治詩集』など。
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直良信夫

直良 信夫(なおら のぶお、 1902年1月1日(戸籍上は10日) - 1985年11月2日) 大分県臼杵市出身
考古学者、動物考古学者、古生物学者、文学博士。明石人、葛生人などの発見で知られる。また、従来の日本考古学では等閑に付されていた、遺跡から出土する骨や種子といった、動物植物の様々な遺骸を考古学的に研究し、過去の食物や環境復元を進めた。特に貝塚研究では先駆的業績をあげ、今日の動物考古学や環境考古学の礎(いしずえ)を築いた。こちらもどうぞ UP





草野心平

草野心平(くさの しんぺい、1903年(明治36年)5月12日 - 1988年(昭和63年)11月12日)は日本の詩人。福島県上小川村(現・いわき市小川町)出身。
兄の草野民平、弟の草野天平も詩人。「蛙の詩人」と俗に言われるほどに、生涯にわたって蛙をテーマとした詩を書きつづけた。また蛙と同様、生涯にわたって「富士山」を追い求め、最後の詩集にも登場する。UP





棟方志功

棟方 志功(むなかた しこう、1903年9月5日 - 1975年9月13日)は日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠。1942年以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。
少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「わだば、ゴッホになる」と芸術家を目指す。生命力、躍動感に溢れた力強い傑作を数多く生み出し、1956年ヴェネチア・ビエンナ-レ国際美術展に「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを鼻ずさみながら板画を彫った。仏を題材にした作品が特に有名。
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島木健作

島木 健作 (しまき けんさく、1903年9月7日 - 1945年8月17日)は、北海道札幌市生まれの小説家。本名は朝倉 菊雄(あさくら きくお)。高見順・中野重治・徳永直・林房雄らとともに、転向文学を代表する作家の1人。UP





今日出海(左は坂口安吾)

今 日出海(こん ひでみ、1903年11月6日 - 1984年7月30日)は、小説家、評論家。幅広い人脈を作った。初代文化庁長官。北海道函館生まれ。三人兄弟の末子で、長兄は、のちの小説家で天台宗僧侶の、今東光。
1928年、東大仏文科卒。就職できず、法科へ入り直したが、外交官試験の年齢制限に気付き翌年退学。『文學界』誌の同人に加わり、評論・随筆・翻訳を載せた。左翼に同じぬ正統芸術派的立場であった。1941年11月、陸軍の報道班員に徴用されマニラに約1年滞在、1944年12月に再度徴用された時は、マニラについて直ぐのアメリカ軍の上陸にあい、数ヶ月の逃避行の後、福岡雁ノ巣飛行場へ帰った。1968年佐藤栄作首相に請われて文化庁初代長官を約4年間勤めた。1972年から国際交流基金の初代理事長を8年間勤め、1980年には国立劇場会長となった。そのほか、放送番組向上委員会委員長、日本アカデミー賞協会会長などの役職が、80近くに及んだ。(写真向かって左は坂口安吾)
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林芙美子林芙美子

左は若い頃の林芙美子
林芙美子(はやし ふみこ、1903年12月31日 - 1951年6月28日)は、小説家。本名はフミ子。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」という言葉で知られる。晩年は映画化されるなど女流作家として確固たる地位を築いたが、作風は自らの貧困に苦しんだ生い立ち、流浪の経験などを基にした、生々しい実感を伴う表現や人物描写が特徴である。1928年から雑誌『女人芸術』に19歳から23歳頃までの多感な放浪の日々を書き綴った私小説『放浪記』を連載し、1930年に単行本として出版され当時のベストセラーとなった。女優の森光子が45年以上、舞台『放浪記』で林芙美子役を演じ続けている。
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橋本明治

橋本明治(はしもとめいじ、1904年8月5日 - 1991年3月25日)は、日本画家。島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)生まれ。19歳の時、妹をモデルに制作した≪ガラシャ夫人像≫が島根県展に入選。日本画の伝統にこだわらず、くっきりとした描線と鮮やかな色彩が印象的な、独自の作風を生み出したことで知られる。1940年、36歳の若さで法隆寺金堂壁画を模写するという大役を任された。1952年≪赤い椅子≫で芸能選奨文部大臣賞、1955年≪まり千代像≫で日本芸術院賞を受賞。1974年文化勲章受賞。UP





堀辰雄

堀 辰雄(ほり たつお、1904年12月28日-1953年5月28日)は、昭和初期に活躍した日本の作家。東京都出身。代表作「風立ちぬ」UP




伊藤整

伊藤 整(いとう せい、男性、1905年1月16日 - 1969年11月15日)は、評論家、詩人、小説家。本名は整(ひとし)。日本芸術院会員、日本芸術院賞。北海道松前郡生まれ.小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業後、教師を経て上京、東京商科大学(現一橋大学)入学・中退。
20世紀日本文学の重要な文芸評論家の一人。1954年には「婦人公論」連載エッセイ『女性に関する十二章』がベストセラーとなり、「○○に関する十二章」という書物の出版が相次ぐなど「十二章ブーム」を巻き起こした。同名の映画(市川崑監督)に本人もナレーション・端役で出演、この年には小説『火の鳥』もベストセラーとなるなど、一躍時の人となり、チャタレイ裁判とともに、伊藤整の名を広く知らしめることになった。伊藤滋(都市工学、東京大学名誉教授、早稲田大学教授、元慶應義塾大学教授)は長男。 伊藤礼(エッセイスト、元日本大学教授)は次男。
*1950年「チャタレイ婦人の恋人」の翻訳がわいせつ文書に当たるとして有罪となる。後に(1996年)息子の伊藤礼が完訳版を出版したが、現在に至るまでこの本はわいせつ文書として挑発されていない。
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本庄陸男

本庄陸男(ほんじょう むつお、1905年2月20日-1939年7月23日)は、日本の小説家。北海道石狩郡当別町出身。小学校の教師として、東京の名門、誠之小学校に勤務していたが、新興教育運動に参加し、下町の学校に自ら望んで転任する。そこでの経験はのちに「白い壁」という作品として結実した。彼の作品は、出身の北海道や幼少期を過ごした樺太での生活に取材したもの、東京での教員生活に取材したもの、という大きく分けて二つの系列がある。彼が作家として評価されるにいたった「白い壁」(1934年)は教員生活に取材したものだが、その後は北海道の歴史に取材したものに力を発揮した。長編「石狩は懐く」(1938年)や「石狩川」(1939年)によって彼の作品は高く評価されたが、間もなく結核のために死去した。UP



坂口安吾
坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年2月17日) は、日本の小説家、エッセイスト。本名は炳五(へいご)。東洋大学文学部印度哲学科卒業。純文学のみならず、歴史小説、推理小説、文芸エッセイまで、幅広く活動した。終戦直後に発表した『堕落論』などにより時代の寵児となり、無頼派と呼ばれる作家の一人、その後の多くの作家にも影響を与えた。UP




湯川秀樹

湯川秀樹(明治40年(1907年)1月23日 - 昭和56年(1981年)9月8日)は、日本の理論物理学者。ノーベル物理学賞受賞。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。従二位勲一等。理学博士
.中間子論の提唱などで原子核・素粒子物理学の発展に大きな功績をあげ、1949年日本人として初めてのノーベル賞を受賞した。このニュースは、敗戦・占領下の自信を失っていた国民に大きな力を与えたとされ、フィーバーを巻き起こした。核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。またその一方で、非局所場理論・素領域理論といった革新的かつ野心的な理論を提唱しつづけ、最後まで第一線級の物理学者であり続けた。UP




東山魁夷

東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年7月8日 - 1999年5月6日)は、昭和期を代表する日本画家。千葉県市川市名誉市民。

約10年の歳月をかけて制作した奈良・唐招提寺御影堂障壁画は畢生の大作となった。このプロジェクトを手がけたことにより国内での知名度と人気はさらに高まり、国民的日本画家とも称されるようになった。ドイツ留学中に知ったドイツロマン主義の画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒを日本に初めて紹介したのも彼である。また、瀬戸大橋の色を提案したことでも知られる。
UP

【メガネ寸評】
この学生時代の東山氏がかけているのは一山ブリッジの丸メガネである。
この写真が撮られた大正15年は、ノーズパッドがアメリカで発明された1920年からまだ間もない頃なので、我が国にはまだ一山ブリッジしかなかったのであろう。
このメガネの 玉型サイズ(レンズ径)は、40〜42mm、鼻幅は18〜20mm程度であろう。




中島敦

中島 敦(なかじま あつし、1909年5月5日 - 1942年12月4日)は、日本文学の作家。
作家の深田久弥と深い交友を持ち、デビュー作の『山月記』と『文字禍』(発表時の題は二作まとめて『古譚』)、続けて発表された『光と風と夢』などは、彼の推薦による。気管支喘息のため早逝。『李陵』他いくつかの作品は没後に発表された。漢文調の格調高い文体とユーモラスに語る独特の文体を巧みに使い分けている。『李陵』は無題であったものを深田が命名したもの。UP





杉山寧

杉山 寧(すぎやま やすし、明治42年(1909年)10月20日 - 平成5年(1993年)10月20日)は、日本画家。1909年、東京浅草に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。
1928年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。山本丘人、高山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に積極的に携わった。卓越した素描力と堅固な構成による、安定感に満ちた静謐な画風が特色である。
1958年、長女瑤子が三島由紀夫と結婚。三島は瑤子を選んだ理由について「芸術家の娘だから、芸術家に対して何ら幻想を抱いていないこと」を挙げた。1974年、文化勲章を受章。UP




松本清張

松本 清張 (1909年12月21日-1992年8月4日) 小説家。本名、清張(きよはる)。九州福岡県生まれ。
生家が貧しかったために高等小学校卒業後、給仕、版工などの職につく。1950年、朝日新聞社勤務中に書いた処女作「西郷札」が『週刊朝日』の「百万人の小説」に入選し、1953年に「或る『小倉日記』伝」が第28回芥川賞を受賞。以後作家活動に専念する。「自分は作家としてのスタートが遅かったので、残された時間の全てを作家活動に注ぎたい」と語り、広汎なテーマについて質の高い作品を多作した。
1958年に発表した推理小説『点と線』『眼の壁』の2長編はベストセラーとなる。犯罪の動機を重視した「社会派推理小説」とよばれる作品は「清張ブーム」を引き起こし、推理小説を大衆に開放することに成功した。ほかの作品に『砂の器』や『Dの複合』、『ゼロの焦点』など。
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山田風太郎

山田 風太郎(やまだ ふうたろう、1922年(大正11年)1月4日 - 2001年(平成13年)7月28日)は、日本の小説家。本名は山田 誠也。 戦後日本を代表する娯楽小説の大家であり、晩年から死後にかけては「戦中派天才老人」などと呼ばれることが多い。『南総里見八犬伝』をはじめとした日本の古典伝奇文学に造詣が深く、それらに影響を受けた奇想天外な大衆小説とエッセイを多数執筆。1958年(昭和33年)に発表した『甲賀忍法帖』を皮切りに、安土桃山時代から江戸時代を舞台として、想像の限りを尽くした忍法を駆使する忍者たちの死闘を描いた、いわゆる忍法帖もので一世を風靡し、流行作家となる。1963年(昭和38年)から講談社より発売された『山田風太郎忍法全集』は累計で300万部を売り上げるという爆発的なベストセラーとなった。金井美恵子・馳星周・菊地秀行・京極夏彦・中島らも・澁澤龍彦など、プロの作家にもファンは多かった。UP




大山康晴

大山 康晴(おおやま やすはる、大正12年(1923年)3月13日 - 平成4年(1992年)7月26日)は、日本の将棋棋士で、十五世名人。棋士番号26。岡山県倉敷市出身。しばしば「史上最強の棋士」と称される。タイトル獲得80期は棋戦の数が少なかった時代的背景を考えれば驚異的な数字である。五冠王を5年近く保持した記録も持つ。棋風は、「受け」の達人として知られ、相手に攻めさせてから、指し切りにさせてしまう「受け潰し」を得意とした。優勢となっても勝ちを急がず、安全に勝つことを目指した。UP




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