丸メガネの人物史~海外編(学者)


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海外の丸メガネをかけた学者をご紹介します。






《生年順》

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生年順
生年 名前
1706 ベンジャミン・フランクリン
1766 ジョン・ドルトン
1822 シュリーマン
1822 メンデル
1856 フロイト
1858 ジンメル
1858 プランク
1859 ザメンホフ
1860 シートン
1862 マイネッケ
1875 ユング
1878 コルチャック
1881 フレミング
1884 ピカール
1887 シュレーディンガー
1892 ベンヤミン
1906 ゲーデル


ベンジャミン・フランクリン

ベンジャミン・フランクリン1706年1月6日(グレゴリオ暦1月17日) - 1790年4月17日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたり、メガネのレンズの上半分を遠くにピントを合わせたレンズとし、下半分を近くにピントを合わせたレンズとする、フランクリン型の遠近両用(二重焦点)メガネを作った事でも有名。『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つ。UP




ドルトン

ジョン・ドルトン(John Dalton, 1766年9月6日 - 1844年7月27日)は、イギリスの化学者、物理学者ならびに気象学者。原子説を提唱したことで知られる。また、1794年には自らの色盲を題材にした論文を発表し、赤緑色覚異常(ドルトニズム)の語源となった。UP





シュリーマン

ハインリッヒ・シュリーマン(1822年1月6日 - 1890年12月26日)ドイツの考古学者。
幼少のころにホメロス(当時は「トロイア戦争はホメロスの作り話」と言われ、トロイアの実在も疑問視されていた。)のイーリアスに感動し、ギリシャ神話の伝説の都市トロイアが実在することを発掘によって証明した。また、音読により文章を丸暗記することで多国語を理解していたことでも有名。幕末の日本を訪れ、著作"La Chine et le Japon au temps présent"の中で鋭い観察眼を披露して日本の文化・風俗を絶賛している。
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グレゴール・ヨハン・メンデル

グレゴール・ヨハン・メンデル1822年 - 1884年
オーストリアブリュン(現在のチェコ ブルノ)の司祭。植物学研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見したことで有名。遺伝学の祖。
当時、遺伝現象は知られていたが、遺伝形質は交雑とともに液体のように混じりあっていく(混合遺伝)と考えられていた。メンデルの業績はこれを否定し、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという粒子遺伝を提唱したことである。
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ジークムント・フロイト

ジークムント・フロイト(1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、オーストリアの精神分析学者。オーストリアの東欧系ユダヤ人(アシュケナジム)の家庭に生まれた。
フロイトは、マルクス、ニ-チェとならんで20世紀の文化と思想に大きな影響を与えた人物の一人であるが、彼の理論に対しては生前から批判が絶えず、現代の精神医学においては、フロイトの理論自体が高く評価されているとはいえない。しかし、当時の医学では精神病理の治療はほとんど進んでおらず、フロイトが精神の病理という分野に大きなスポットライトを当て、治療のアプローチとして心理的な側面を発見したのは一種の革命に近いものがある。UP




ジンメル

ゲオルク・ジンメル(Georg Simmel, 1858年3月1日- 1918年9月28日)は、ドイツの社会学者、哲学者(生の哲学)。ユダヤ人(キリスト教徒)。形式社会学の祖と言われる。
ベルリン生まれ。裕福なユダヤ人商人の一家に生まれる。ベルリン大学で歴史、民族心理学、哲学を修め、23歳で哲学博士となる。その後、マックス・ヴェーバーの後援を受け、1885年ベルリン大学で哲学私講師になるも昇任の機会に恵まれず、1911年フライブルク大学から名誉博士号を受け、1914年シュトラスブルク大学(現ストラスブール大学)教授になる。ベルリン大学では、彼と並んでディルタイが教授で在任。昇任には、その存在が支障になったとも言われる。彼の哲学は、ニーチェ、ショーペンハウエルと共通点をもつ生の哲学だが、大学の世界で薫陶を受けているため、それをカント以来のドイツ観念論の系譜で一般的な用語法を持って語るという、なかなかユニークなもの。「断章」などにも本人が書いているように、知的遺産の後継者には恵まれなかったが、彼の思想は、アメリカにわたり、社会学のシカゴ学派、そしてシンボリック相互作用論に大きな影響を与え、定性的研究の源流のひとつとも言われるようになった。また、近年では、ドゥルーズ、ガタリ以降の生気論再評価の文脈で、社会化以前の生(「社交」)を捉えようとする後期ジンメルの論が新たに注目されている。UP





マックス・プランク

マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク(1858年4月23日 - 1947年10月4日)はドイツの物理学者で量子論の創始者の一人。1918年にノーベル物理学賞を受賞。
放射に関するプランクの法則(1900年)は、後にアインシュタイン、ニールス・ボーアなどによって確立された量子力学の基礎となるものであり、この業績からプランクは「量子論の父」とも呼ばれている。ナチス政権下に於いて、1944年のヒトラー暗殺計画に加担した次男のエルヴィンが処刑され、自身も「国賊の父」とされたが、第二次世界大戦後、彼を記念してカイザー・ヴィルヘルム研究所は「マックス・プランク研究所」と改名され、21世紀に入っても物理学研究の一大中心地として、様々な画期的研究成果を挙げている。UP





ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフ

ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフ 1859年 - 1917年
ユダヤ系ポーランド人の眼科医・言語学者で、現在のところ最も広く使われている人工言語、エスペラントの創案者。ザメンホフが生まれたポーランドは、当時、帝政ロシア領で、町の人々は4つの主な民族(ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、イディッシュ語を話す大勢のユダヤ人)のグループに分断されていた。彼は憎しみや偏見の主な原因が、民族的・言語的な基盤の異なる人々の間で中立的なコミュニケーションの道具として働くべき共通の言語がないことから起こる相互の不理解にあると考えた。
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シートン

シートン 1860年-1946年
アメリカの作家・博物学者。ナチュラリスト。イギリス、サウスシールズ生まれ。幼少の頃に両親と共にカナダの開拓農場へ移住。のちにロンドンやパリで絵画を勉強。パリのサロンに出品し入賞した経験もあり、挿絵画家としても多くの自著に作品を描き添えている。日本では「シートン動物記」の題で編纂されたものが有名
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マイネッケ

フリードリヒ・マイネッケ(1862年10月30日 - 1954年2月6日)は20世紀前半のドイツを代表する歴史学者。 第二次世界大戦後は最も伝統的な歴史学者として晩年に至るまでドイツ史学界に君臨していた。ヘーゲルに批判的であったことから、国粋主義的なヘーゲル思想復興の風潮が著しかった当時の思想界からは理解されなかった。UP






ユングユング

カール・グスタフ・ユング(1875年7月26日 - 1961年6月6日)は、スイスの精神科医・心理学者。分析心理学の理論を創始し、1948年にはスイス・チューリッヒにユング研究所を設立し、ユング派臨床心理学の基礎と伝統を確立した。フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近するも、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。フロイトと別れた後は、人間心理はフロイト式の抑圧感情に還元され得る部分も存在する事は認めつつも、それは局面の一つ以上ではないと考え、フロイトが想定したよりも遙かに広く大きいものとして無意識を再定義し、人間の無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通するイメージを想起させる力動を「元型」と名付けた。また、晩年、共時性(シンクロニシティー)の概念を提起した。UP





コルチャック

ヤヌシュ・コルチャック(1878年7月22日 - 1942年8月)は、ポーランドの小児科医、孤児院院長で、児童文学作家。ユダヤ系ポーランド人。
ワルシャワ大学で医学を学び、研修中のベルリンで障害児教育の現場に触れ、小児科医に。
1911年、新しく建設されるユダヤ人の孤児のための孤児院の院長のポストを受諾し、孤児院、ドム・シェロットに生涯を捧げた。1939年ドイツのポーランド侵攻により大規模なユダヤ人に対する差別、迫害が始まり、1940年10月ドム・シェロットの教師と子供たちはゲットーへ移動を余儀なくされ、1942年8月には、200人の子供たちは、トレブリンカ強制収容所に移送された。コルチャックは、子供たちを見捨てて自分だけが助かることを拒否し、子供たちと共に移動した。日記の記載がそこで終わっているため、恐らく1942年8月5日、ナチスにより子供たちと共にガス室で殺害されたとみられる。日本では1995年劇団ひまわりにより「コルチャック先生」が上演された。UP





アレクサンダー・フレミング

アレクサンダー・フレミング 1881年 - 1955年
イギリスの細菌学者。抗菌物質リゾチームと、アオカビ(Penicillium notatum)から見出した世界初の抗生物質、ペニシリンの発見者として知られている。
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オーギュスト・ピカール

オーギュスト・ピカール1884年 – 1962年
スイスの物理学者、気象学者、冒険家。宇宙と深海に対して大きな関心があった。1884年、スイスのバーゼルに双子の兄弟として生まれた。
1931年5月27日、宇宙線やオゾンを研究するために、自らが設計した水素気球に乗ってドイツのアウグスブルグ上空16000mの成層圏に達した。これは世界初の気球による成層圏到達である。この気球は直径30mと大型のもので、地上と上空の気圧の差を巧みに利用したものであった。1932年8月18日には自らの高度記録を更新している。彼はその後も気球に乗り続け、計27回の浮上で最高記録は23000mであった。
1930年代からは深海への到達を志すようになった。第二次世界大戦のため研究の遅れもあったが、1948年、気球の原理を応用して深海観測船(バチスカーフ)を発明した。1954年、自らが発明したバチスカーフで4000mの深海に到達した。
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シュレーディンガー

エルヴィン・ルドルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー(1887年8月12日 - 1961年1月4日、ウィーン生まれ)は、オーストリアの理論物理学者。波動形式の量子力学である「波動力学」を構築した。量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式やシュレーディンガーの猫などにより一般にも広く知られている。1933年にノーベル物理学賞を受賞。同年、ナチス・ドイツの台頭とともにドイツを去り、アイルランドのダブリンへ亡命。戦時中からさらに広い領域に活動を進め、1944年『生命とは何か』によって分子生物学への道を開く。1958年には『精神と物質』によって人間の精神世界の解明にとりくんだ。「量子力学」の基礎になった波動方程式は、東洋の哲学の諸原理を記述している、と著書の中で語っている。科学の多くの領域に足跡を残した20世紀の巨人。私生活では、奔放な生き方で知られ、ムーアによる伝記研究で明らかにされたとおり、小児性愛者でとりわけ幼女との接触を好んだ。UP





ベンヤミン

ヴァルター・ベンヤミン(1892年7月15日 - 1940年9月26日)は、ドイツの文芸評論家。思想家、エッセイスト、翻訳家、また、一部では哲学者としても知られる。
ベルリンの裕福なユダヤ人家庭に生まれ、幸福な少年時代を送る。第二次世界大戦中、 ナチスの追っ手から逃亡中、ピレネーからスペインヘの入国をはかって足止めにあい、強制連行の直前に服毒自殺を遂げた。ベンヤミンが自殺するまで肌身離さずに持っていた原稿こそがパサージュ論であると言われている。第二次世界大戦勃発後、原稿の散逸を恐れてパリ市内の国立図書館に原稿を隠した。このときに原稿を受け取って秘匿に協力したのは、当時国立図書館の司書を務めていたジョルジュ・バタイユである。『パサージュ論』は長らく準備していながらも未完に終わった大部の著作のためのノートを中心とした草稿群で、19世紀から20世紀におけるパリの町並みの変遷や歴史についての考察が網羅的に記述されている。
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クルト・ゲーデル

クルト・ゲーデル(1906年4月28日-1978年1月14日)は、現チェコ、ブルノ生まれの数学者・論理学者。完全性定理及び不完全性定理、連続体仮説の相対的無矛盾性などの業績が有名。その他、アインシュタインの一般相対性理論における「ゲーデル解」(1949年)(アインシュタインとは家族ぐるみで親密に交流)1970年台初頭には、ライプニッツによる「神の存在証明」を洗練し「ゲーデルの神の存在証明」などがある。
1940年頃にはナチス・ドイツを逃れて妻アデルとアメリカ合衆国に移住したが、この時点ですでに人間不信に近い症状が出、晩年は精神にも失調をきたし、妻以外が作った食事は口にせず、妻の入院していた間に飢餓状態となり、プリンストン病院で死去。彼の絶筆はガベルスベルガーと呼ばれる古い速記法で書かれていたため、解読は出来なかったと言われる。UP






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