丸メガネの人物史~日本編(政治家・軍人)


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政治家や軍人では、こんな人たちが丸メガネをかけていました。


     

《生年順》
  

 

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《生年順》
生年 名前
1560 大久保彦左衛門
1854 高橋是清
1855 頭山満
1857 後藤新平
1860 加藤高明
1867 平沼騏一郎
1867 鈴木喜三郎 
1869 井上準之助
1870 濱口雄幸
1872 幣原喜重郎
1873 関一
1875 阿部信行
1877 野村吉三郎
1878 吉田茂
1880 松岡洋右
1882 東郷茂徳
1883 鳩山一郎
1884 永田鉄山
1884 東条英機
1887 重光葵
1887 片山哲
1891 甘粕正彦
1901 工藤俊作

大久保彦左衛門

大久保 忠教(おおくぼ ただたか、永禄3年(1560年) - 寛永16年2月29日(1639年4月2日)は戦国時代の武将。徳川家臣・大久保忠員の八男。通称の彦左衛門で有名。『三河物語』の著者としても知られる。
三河国上和田(愛知県岡崎市)に生まれ、17歳のときに兄忠世と供に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後忠世や忠佐らの旗下で各地を転戦。関ヶ原の戦いでも家康本陣で槍奉行を務め活躍した。大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も徳川秀忠の上洛に従い、徳川家光の代になって旗奉行となっても晩年まで武士としての生き方を貫いた。死の間際に家光から5000石の加増をうけたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。






高橋是清

高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日(安政元年閏7月27日)- 1936年(昭和11年)2月26日)
日本の政治家。第20代内閣総理大臣 
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頭山満

頭山 満(とうやま みつる 1855年5月27日(安政2年4月12日) - 1944年(昭和19年)10月5日、福岡県出身)は、アジア主義(あるいは「大アジア主義」とも)の立場で運動をおこなった右翼の巨頭、国家主義運動家、篤志家、実業家(鉱山経営者)、黒幕。幼名は乙次郎。金玉均や孫文、ラス・ビハリ・ボースら日本に亡命した革命活動家らへの援助を積極的に行ない、アジア各国に多くの人材を送り出した。UP



後藤新平

写真提供:
水沢市教育委員会社会教育課文化財係
後藤新平(ごとう しんぺい)安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政局長(のち民政長官)として民政統治の確立に努める。さらに満鉄の初代総裁として広軌鉄道施設・撫順炭砿開発・大連病院建設など満州経営の基礎を作る。1908年(明治41)第2次桂内閣に逓信相として入閣、新設の鉄道院・拓殖局の両総裁も兼ねる。1920年(大正9)東京市長に就任、いわゆる8億円計画という都市改造案を提案。山本権兵衛内閣の内相に返り咲き、関東大震災の復旧処理に当った。日本ボーイスカウト初代総裁。UP




加藤高明

加藤 高明(かとう たかあき)、万延元年1月3日(1860年1月25日) - 大正15年(1926年)1月28日)は日本の外交官、政治家。愛知県出身。第24代内閣総理大臣。娘は岡部長景の妻。新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。
東京大学法学部を首席で卒業し、三菱に入社。岩崎弥太郎の長女と結婚。官界に転じ、大蔵省銀行局長、駐英公使などをつとめる。また、各内閣の外相を歴任。大正13年(1924年)内閣総理大臣就任。翌年普通選挙法、治安維持法、日ソ基本条約を成立させた。また、この内閣には元総理の高橋是清、加藤のあと次々と総理となる若槻禮次郎、濱口雄幸、幣原喜重郎(臨時)、犬養毅が閣僚におり、本格的な政党政治時代のスタートに相応しい内閣であったと言えよう。UP




平沼騏一郎

平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、慶応3年9月28日(1867年)10月25日 - 昭和27年(1952年)8月22日) 岡山県出身。司法官僚。第35代内閣総理大臣。日本大学第2代総長。大東文化学院(現大東文化大学)初代総長。衆議院議員の平沼赳夫は、平沼騏一郎の兄である経済史学者で早稲田大学学長を務めた平沼淑郎の曾孫である。UP





鈴木喜三郎

鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、慶応3年10月11日(1867年11月6日)- 1940年6月24日)は、日本の司法官僚、政治家。鳩山一郎は義弟(夫人の弟)。犬養毅暗殺後の立憲政友会第7代総裁(在任、1932年 - 1937年)を務めた。UP





井上準之助

井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年(1869年3月25日)- 昭和7年(1932年)2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。UP




濱口雄幸

濱口 雄幸(はまぐち おさち、明治3年4月1日(1870年5月1日) - 昭和6年(1931年)8月26日)は、政治家。明治生まれの初の内閣総理大臣。
幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、誤って名前を前後逆に記入してしまい雄幸となった。
その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた。戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示し、積極財政から緊縮財政へという政治家の信念を貫き通す姿勢は高く評価する者もいたが、反面緊縮財政がデフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることも多い。UP




幣原喜重郎

幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年(昭和26年)3月10日)は明治~昭和期の政治家、外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中外交と対立する。終戦後は第44代内閣総理大臣、第40代衆議院議長(内閣総理大臣経験者の衆議院議長は初めて)に就任した。UP




關一

關 一(せき はじめ、1873年9月26日 - 1935年10月26日)は、社会政策学者・都市計画学者及び大阪市長等を務めた政治家。静岡県伊豆生まれ。第6代大阪市長の池上四郎から懇請され大阪へ。1923年市長に就任。「都市の大改造」を打ち出し、メインとして「御堂筋」の拡幅工事を手がけた。大阪に御堂筋を造って発展の基礎を固め、東京の後藤新平と双璧をなす、名市長と言える。大阪市政への功績がたたえられ、中之島にその銅像が建立されている。UP





阿部信行

阿部 信行(あべ のぶゆき、明治8年(1875年)11月24日 - 昭和28年(1953年)9月7日)は日本の陸軍軍人、政治家。第36代内閣総理大臣。石川県金沢市生まれ。旧金沢藩士の子としてうまれる。義弟には井上成美(最後の海軍大将)がいる。UP





野村吉三郎

野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年12月16日 - 1964年5月8日)は日本の軍人、外交官、政治家。和歌山県出身。海軍大将。太平洋戦争勃発まで日米交渉に従事した。国際通であったことから、阿部信行内閣において外務大臣に。1941年(昭和16)1月、日米関係が悪化の一途をたどる中、駐米特命全権大使に起用され、来栖三郎大使と共に、英・米との戦争回避のためにハル国務長官と交渉を行ったが、ハル・ノートを最後通牒と受け取った日本は真珠湾攻撃を決定、アメリカとの間に太平洋戦争に突入することとなった。なお、アメリカ合衆国に対する宣戦布告が遅れ、国際的非難を浴びた事について、野村吉三郎駐米大使らの新庄健吉の葬儀出席が原因と言う。UP




吉田茂

吉田 茂(よしだ しげる、1878年(明治11年)9月22日 ‐ 1967年(昭和42年)10月20日)日本の外交官・政治家。内閣総理大臣(45・48・49・50・51代)。癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。孫は麻生太郎氏。UP



松岡洋右

松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年3月4日 - 1946年6月27日)は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。UP





東郷茂徳

東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年12月10日 - 1950年7月23日)は大正、昭和前期の外交官。
太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。東条英機内閣で外務大臣兼拓務大臣として日米交渉にあたるが、日米開戦を回避する事は出来なかった。だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後、大東亜省の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために連合国側から戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁固20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。UP





鳩山一郎

鳩山一郎(はとやま いちろう、1883年1月1日 - 1959年3月7日)は、政治家、弁護士。
第52・53・54代内閣総理大臣。正二位 大勲位。自由民主党の初代総裁であり、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣でもある。
貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂が不人気で政権を降りた後に首相を務め(1954-1956年)、鳩山ブームを起こした。吉田のアメリカ中心の外交から転換し、懸案であった日ソ国交回復を成し遂げた。盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党を結成。これにより保守勢力と革新(この時点では社会主義)勢力を軸とした55年体制が確立された。UP




永田鉄山

永田 鉄山(ながた てつざん、1884年1月14日 - 1935年8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、歩兵第1旅団長、参謀本部第2部長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。硫黄島の死闘でアメリカ軍を苦しめ抜き、敵ながらあっぱれと、いまなお米軍の賞賛の的になっている栗林忠道大将(戦死する数日前に大将になった)が唯一尊敬していたのが、この永田鉄山であり、永田の人格識見歴史観などは、当時の陸軍の中で卓越していたと言われている。UP



東条英機

東條 英機(1884年7月30日 — 1948年12月23日)は、陸軍軍人、政治家、第40代内閣総理大臣。
極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、享年64。辞世の句は「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」。UP




重光葵

重光 葵(しげみつ まもる、1887年(明治20年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月26日)は昭和前期の外交官・政治家。昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判ではA級戦犯で有罪。仮釈放と赦免後、政界に再復帰した。第一次鳩山一郎内閣では外務大臣を務める。ソ連との国交回復と、国連加盟に尽力した。1956年(昭和31年)12月18日、国連本部で日本代表として加盟演説を行う。
1932年(昭和7年)、朝鮮の独立運動家尹奉吉の爆弾テロにより右足を失うが、まったく意に介さず、重光を知る者は「欠点がないことがやつの欠点だ」と語ったという。UP



片山哲

片山 哲(かたやま てつ、明治20年(1887年)7月28日 - 昭和53年(1978年)5月30日)は日本の政治家で、第46代内閣総理大臣。UP

甘粕正彦

甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年1月26日 - 1945年8月20日)は、日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州映画協会理事長を務め(官僚的な強権主義者としてのイメージとは裏腹に、非常に洗練された趣味を持ち流行にも敏感な文化人でもあり、ドイツ訪問時に当時の最新の映画技術を満州に持ち帰り、戦後、東映の黄金期を築くことにもなった。)、終戦直後、服毒自殺した。
*甘粕事件の主犯は甘粕大尉ではないとする説は根強く存在し、後の満州時代、甘粕はこの事件に触れ、「あの事件は“俺がやった”ということになっている」と言ってニヤッと笑ったという証言もある。最近甘粕の汚名をはらし再評価する評伝本がでた。
UP

工藤俊作

駆逐艦「雷」艦長 工藤俊作

工藤 俊作(くどう しゅんさく、1901年(明治34年)1月7日 – 1979年(昭和54年)1月12日)は、日本の海軍軍人、海軍中佐。

1942年2月27日から3月1日にかけて行われたスラバヤ沖海戦で日本海軍により撃沈された 英国海軍の巡洋艦「エゼクター」と駆逐艦「エンカウンター」の乗員四百数十名は漂流をよぎなくされた。 生存の限界に達したとき、偶然この海域を航行していた日本海軍駆逐艦「雷」に発見された。 英海軍中尉のフォール卿は「日本人は非情」という先入観から全員射殺されるものと覚悟した。 しかし、駆逐艦「雷」艦長海軍中佐 工藤俊作は自艦の危険をかえりみず、国際信号旗を揚げ、 漂流者全員422名を救助した。 しかも、英国海軍士官に英語で健闘を称え、 「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」とスピーチした。 UP                                                                  
草思社発行「敵兵を救助せよ!」より

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