丸メガネの人物史(日本編)
メガネの原点は実は「丸」です。

現代のように枠にあわせてレンズを削るのではなく、昔は丸いレンズを削らずにそのまま枠に入れるという方式だったので、自然と枠は丸になったわけです。昔の有名人で丸眼鏡の顔写真を思い浮かべる人は多いのですが、それは、昔は丸か楕円しかなかったからです。

明治・大正・昭和初期と多くの学者や作家、政治家が丸メガネをかけていました。

学者や作家の丸メガネは、今でもなるほどと納得させられる部分がありますが、現代では、政治家が丸メガネをかけている「図」というのはまったく見当たりません。いわゆる「現代のメガネ」をかけている政治家よりも、明治・大正・昭和初期に丸メガネをかけていた政治家のほうが、より人情があり、また、政治に対する理想や志の高さを感じるのは、気のせいでしょうか?
新渡戸稲造
菊池寛
島崎藤村
種田山頭火
高橋是清
井上準之助
美濃部達吉
西田幾多郎
滝廉太郎
新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、文久2年8月8日(1862年9月1日- 1933年10月15日)は、農学者、教育者。国際連盟事務次長も務め、著書 『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著と言われている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。
かなり熱しやすい硬骨漢であったが、学生時代にキリスト教に深い感銘を受け、敬虔なクエーカー教徒となり、後に妻となるメリー・エルキントンと出会うことになる。教授として札幌農学校に赴任した際に、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニアで転地療養中に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。

種田 山頭火(たねだ さんとうか、男性、
1882年12月3日(明治15年) - 1940年10月11日(昭和15年)は明治・大正・昭和初期にかけての俳人。
自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。
曹洞宗の僧侶。本名・種田正一。

高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日
(安政元年閏7月27日)- 1936年(昭和11年)2月26日)
は、日本の政治家。第20代内閣総理大臣

井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年(1869年3月25日)- 昭和7年(1932年)2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。

美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年5月7日- 1948年5月23日)は、日本の男性憲法学者。
勲一等旭日大綬章(1948年)。
西田 幾多郎(にしだ きたろう、明治3年4月19日(1870年5月19日)- 1945年(昭和20年)6月7日)は、日本を代表する哲学者。京都大学教授。京都学派の創始者。

滝 廉太郎(たき れんたろう、1879年8月24日 - 1903年6月29日)は、日本の音楽家・作曲家。
明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。

《明治~大正~昭和初期》

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坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年2月17日) は、日本の小説家、エッセイスト。本名は炳五(へいご)。東洋大学文学部印度哲学科卒業。純文学のみならず、歴史小説、推理小説、文芸エッセイまで、幅広く活動した。終戦直後に発表した『堕落論』などにより時代の寵児となり、無頼派と呼ばれる作家の一人、その後の多くの作家にも影響を与えた。
北大路魯山人

北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん/きたおおじ ろざんじん、
男性、1883年3月23日 - 1959年12月21日)は、芸術家。本名は房次郎。
篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など様々な顔を持っていた。







阿部次郎

内田 百間(うちだ ひゃっけん、1889年5月29日 - 1971年4月20日)は、夏目漱石門下の日本の小説家、随筆家である。男性。戦後は筆名を内田百閒と改めた.。本名は内田栄造。

内田百間

仁科 芳雄(にしな よしお、1890年12月6日 - 1951年1月10日)は、日本の物理学者である。湯川秀樹、朝永振一郎など後のノーベル賞受賞たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも評される。
米国の科学技術が進んでいることから日米開戦には反対していたが、陸軍から新型爆弾の研究開発を要請され、仁科研究室が中心になって原子爆弾の開発が行われることになった。しかし、結局1945年のアメリカ軍の空襲により設備が償却し、日本の原爆開発は潰える事になった。広島と長崎では現地の被害を調査し、新型爆弾が原子爆弾であると政府に報告、これが日本のポツダム宣言受諾に繋がったといわれている。また、終戦の日のラジオ放送において原子爆弾の解説をおこなった。

仁科芳雄
大山康晴

<没年順>

阿部 次郎(あべ じろう、1883年8月27日 - 1959年10月20日)は、哲学者、美学者、作家

1914年に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名で、学生必読の書であった。1917年に一高の同級生であった岩波茂雄が雑誌「思潮」(現在の「思想」)を創刊。その主幹となる。
慶應義塾大学、日本女子大学の講師を経て、1922年文部省在外研究員としてのヨーロッパ留学。同年に『人格主義』を発表。真・善・美を豊かに自由に追及する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く。
永田鉄山

三木 清 (みき きよし, 1897年1月5日-1945年9月26日) は、(西田左派を含めた上での)京都学派を代表する、兵庫県揖保郡揖西村(後の龍野市、現在のたつの市)出身の哲学者である。
第一高等学校から京都大学に進み、西田幾多郎に師事する。大学在学中は西田のみならず東北大学から転任してきた田辺元や左右田喜一郎らからも多くの学問的影響を受けた。

三木清

《明治期》

三田光一
松岡洋右

松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年3月4日 - 1946年6月27日)は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。

菊池 寛(きくち かん、1888年(明治21年)12月26日- 1948年(昭和23年)3月6日)は、小説家、劇作家、ジャーナリスト。文芸春秋社を創設した実業家でもある。

三田光一(1885~1943年)
大正から昭和初期にかけて活躍した霊能力者。
浅草観音堂の裏にかけてある山岡鉄舟の文字の額面「南無観世音」を神戸(?)で透視、念写。
1917年(大正6年)名古屋県会議事堂で、桂公の肖像を念写したら、「至誠」の文字が写った。また、2日前に念じたものが写った。月の裏側の念写にも成功している。

《明治~大正期》

《昭和期》

坂口安吾
後藤新平

二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、男性、元治元年2月28日(1864年4月4日) - 1909年(明治42年)5月10日)は、日本の小説家、翻訳家。二葉亭四迷の由来は、文学に理解のなかった父に、「くたばってしめえ!」といわれたことから。江戸市ヶ谷生れ。東京外国語学校露語科中退。
坪内逍遥と交流を結び、その勧めで評論『小説総論』を発表。1887年から91年の間に出された写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の先駆となった。また、ロシア文学の翻訳もよくし、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」は特に有名。自然主義作家へ大きな影響を与えた。
後に『其面影』『平凡』を書いたが、1909年、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で客死した。

後藤新平(ごとう しんぺい)安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。
台湾総督府民政局長(のち民政長官)として民政統治の確立に努める。さらに満鉄の初代総裁として広軌鉄道施設・撫順炭砿開発・大連病院建設など満州経営の基礎を作る。1908年(明治41)第2次桂内閣に逓信相として入閣、新設の鉄道院・拓殖局の両総裁も兼ねる。1920年(大正9)東京市長に就任、いわゆる8億円計画という都市改造案を提案。山本権兵衛内閣の内相に返り咲き、関東大震災の復旧処理に当った。日本ボーイスカウト初代総裁。

永田 鉄山(ながた てつざん、1884年1月14日 - 1935年8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、歩兵第1旅団長、参謀本部第2部長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。
硫黄島の死闘でアメリカ軍を苦しめ抜き、敵ながらあっぱれと、いまなお米軍の賞賛の的になっている栗林忠道大将(戦死する数日前に大将になった)が唯一尊敬していたのが、この永田鉄山であり、永田の人格識見歴史観などは、当時の陸軍の中で卓越していたと言われている。


















しばしば「史上最強の棋士」と称される。タイトル獲得80期は棋戦の数が少なかった時代的背景を考えれば驚異的な数字である。五冠王を5年近く保持した記録も持つ。棋風は、「受け」の達人として知られ、相手に攻めさせてから、指し切りにさせてしまう「受け潰し」を得意とした。優勢となっても勝ちを急がず、安全に勝つことを目指した。

大山 康晴(おおやま やすはる、大正12年(1923年)3月13日 - 平成4年(1992年)7月26日)は、日本の将棋棋士で、十五世名人。棋士番号26。岡山県倉敷市出身。
写真提供:
水沢市教育委員会社会教育課文化財係
二葉亭四迷
村上華岳
堀辰雄

堀 辰雄(ほり たつお、1904年12月28日-1953年5月28日)は、昭和初期に活躍した日本の作家。東京都出身。代表作「風立ちぬ」

会津八一
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8)7月31日 - 1962年(昭和37)8月8日)は、日本の民俗学を学問として構築した。農政学を学び、のち民俗学者となった。なお柳田の読みは「やなぎだ」ではなく「やなぎた」である。
柳田國男

会津八一(あいづやいち、1881年8月1日 - 1956年11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人、渾斎。1951年、新潟市名誉市民。

古川ロッパ

横山 エンタツ(よこやま えんたつ、1896年(明治29年)4月22日 - 1971年(昭和46年)3月21日)は大正・昭和期の漫才師。花菱アチャコとのコンビ(エンタツ・アチャコ)で、それまでの古典的な舞台芸能である「色物漫才」に代わり、スタンダップ・コメディである「しゃべくり漫才」へのムーブメントを作った。現在の漫才スタイルの元祖と言える。

横山エンタツ
佐藤春夫
吉田茂
金田一京助
三木鶏郎
三木のり平
大村崑
頭山満
弘田龍太郎
高野辰之 岡野貞一
高野辰之(たかのたつゆき)
1876年4月13日(明治9年)-
1947年1月25日(昭和22年)
岡野貞一(おかのていいち)
1878年2月16日(明治11年)-
1941年12月29日(昭和16年)
高野と岡野は年齢も近く、コンビで多くの唱歌を作った。
その中の代表作として、今も知らぬ人がない「故郷」があるが、
他に、「春の小川」「春が来た」「おぼろ月夜」「紅葉」などの
名曲も、「高野辰之作詞、岡野貞一作曲」である。

代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『雀の学校』『春よこい』『靴が鳴る』など多数。他に歌曲『千曲川旅情のうた』、オペラ『西浦の神』、仏教音楽『仏陀三部作』など。

弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)6月30日-1952年(昭和27年)11月17日)は、作曲家。高知県安芸市に生まれる。

吉田 茂(よしだ しげる、1878年(明治11年)9月22日 ‐ 1967年(昭和42年)10月20日)日本の外交官・政治家。内閣総理大臣(45・48・49・50・51代)。癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。孫は現外務大臣の麻生太郎氏。

金玉均や孫文、ラス・ビハリ・ボースら日本に亡命した革命活動家らへの援助を積極的に行ない、アジア各国に多くの人材を送り出した。

頭山 満(とうやま みつる 1855年5月27日(安政2年4月12日) - 1944年(昭和19年)10月5日、福岡県出身)は、アジア主義(あるいは「大アジア主義」とも)の立場で運動をおこなった右翼の巨頭、国家主義運動家、篤志家、実業家(鉱山経営者)、黒幕。幼名は乙次郎。

古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ 、1903年8月13日-1961年1月16日)は、編集者、エッセイスト、日本の戦前を代表するコメディアン。古川緑波とも表記される。
幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は小学3年の頃に自らつけた筆名である。早稲田大学英文科在学中に菊池寛に招かれ、文藝春秋社に雑誌『映画時代』の編集者として入社。その後、菊池寛らの勧めで喜劇役者に転向。
恰幅の良い体格にロイド眼鏡の鷹揚な丸顔がトレードマーク。同時期の喜劇役者榎本健一と共に「エノケン・ロッパ」と並び称せられ人気を争った。


























佐藤 春夫(さとう はるお、1892年(明治25年)4月9日 - 1964年(昭和39年))5月6日)は小説家、詩人。和歌山県新宮市の医家に生まれる。『スバル』『三田文学』などに詩歌を発表、のち小説に転じた。1960年(昭和35年)に文化勲章受賞。芥川賞初代選考委員の一人。
友人の小説家谷崎潤一郎の妻・千代に恋慕し、のちに譲りうけたことがあった。谷崎の『蓼喰ふ蟲』はその経緯を描いたものと思われていたが、実はその前年の、千代を和田六郎(大坪砂男)に譲る件についてのものであることが分かった。谷崎と千代子の離婚成立後、三人連名の挨拶状を知人・マスコミに送り、「細君譲渡事件」としてセンセーショナルな反響を呼び起こした。代表作である「秋刀魚の歌」(詩集『我が一九二二年』所収)も千代への思慕が背景にある。
俗に門弟三千人と称され、門人に太宰治や檀一雄、吉行淳之介、稲垣足穂、柴田錬三郎、中村真一郎、五味康祐、遠藤周作、安岡章太郎、古山高麗雄などがいる。




















金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年5月5日 - 1971年11月14日)は、言語学者、民俗学者。
アイヌ語研究においては、第一人者で、現代アイヌ語研究の基礎を作り上げ、アイヌ民族の叙事詩「ユーカラ」を世に広めた。1954年文化勲章受賞。

岩手県盛岡市四ツ家町(現本町通二丁目)出身。歌人、石川啄木の盛岡中学時代の先輩で親友。啄木に金をよく貸したことでも有名。郷土盛岡の風土と自然をこよなく愛した人として知られ、数多くの随筆や短歌で盛岡の自然と人情について語り、1959年には盛岡の名誉市民第一号となった。

三木 鶏郎(1914.1.28~1994.10.7)作詞・作曲家
「日本のCMソングの父」ともいわれる。
最近ではキリン・アミノサプリナインのCMでおなじみの強烈にキミョーな曲「タララ・プンカポンカ・ピ」が50年の歳月を経てリリースされた。「トムとジェリー」「ジャングル大帝」「鉄人28号」や♪キリンレモン、♪3時のおやつは文明堂♪あっかるーいナショナールなどのCMソングは有名。

 

三木のり平(みき のりへい、1924年4月11日-1999年1月25日)は、昭和期のお笑い芸人、俳優
俳優座を経て、三木鶏朗グループに入り、コメディアンを目指す。「スターは三船(敏郎)。役者は(三木)のり平。」と言わしめるほど、その演技力は、大衆的に認知され、評されるほどであった。演出家としての才能も高く、森光子主演の舞台『放浪記』では、1981年より演出も務めている
また、「桃屋」のアニメーションCMは、1958年の『助六篇』から1998年の『カライ盗ルパン篇』まで40年間放送され、お茶の間に親しまれた。現在桃屋のCMは、実子で長男の小林のり一が声を担当している。

大村 崑(おおむら こん、1931年11月1日 - )は、日本の喜劇俳優。昭和30年代を中心に、黎明期のテレビの軽演劇で爆発的な人気を得た、日本の喜劇界の大御所である。愛称は「コンちゃん」。2000年に日本喜劇人協会8代目会長に就任した。
ズレ落ちたメガネ(三木のり平からヒントを得たと言われている)とトボけた芸風で人気を博し大塚製薬提供の『とんま天狗』では、役名もズバリ「尾呂内南公」(オロナイン ナンコウ)。その後も大塚製薬の各CMに出演。「うれしいとメガネが落ちるんですよ」「オロナミンCは小さな巨人です」など各種フレーズは有名。創業者の大塚家とは親戚同様の付き合いであるという。
昭和40年代を中心に、街中では帽子にズレ落ちたメガネでオロナミンCを宣伝している大村崑のホーロー看板が飾り、現在でも、山間部などでその看板を見ることができる。現在も俳優として活躍。また、日本でも有数のメガネのコレクターでもある。

『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。ほかの作品に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親相姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説『夜明け前』など。

島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日-1943年8月22日)は、日本の詩人、小説家。木曾の馬籠 (現在の岐阜県中津川市)生れ。明治学院卒。
華岳の描く仏や菩薩は、世俗性と精神性、妖艶さと聖性、官能美と悟りの境地という相反する要素が不思議に調和している。華岳の仏画は20世紀の宗教絵画の最高峰と言って過言ではないであろう。
村上華岳(むらかみ かがく、1888年7月3日 - 1939年11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。
泉鏡花
重光葵
室生犀星
藤田嗣治
棟方志功
中野重治

泉 鏡花(いずみ きょうか、1873年11月4日 - 1939年9月7日)は明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家である。金沢市下新町生れ。
尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深くうけた怪奇趣味と特有のロマンチズムで知られる。作『婦系図』『歌行燈』『夜叉ヶ池』など。
尾崎紅葉の『色懺悔』を読んで大いに衝撃を受け、文学に志すようになる。鏡花にとっての紅葉はもっとも敬愛する小説家、文学上の師であると同時に、無名時代の自分を書生として養ってくれた恩人であり、鏡花は終生このことを徳として旧師を慕いつづけた。

重光 葵(しげみつ まもる、1887年(明治20年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月26日)は昭和前期の外交官・政治家。昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判ではA級戦犯で有罪。仮釈放と赦免後、政界に再復帰した。第一次鳩山一郎内閣では外務大臣を務める。ソ連との国交回復と、国連加盟に尽力した。1956年(昭和31年)12月18日、国連本部で日本代表として加盟演説を行う。
1932年(昭和7年)、朝鮮の独立運動家尹奉吉の爆弾テロにより右足を失うが、まったく意に介さず、重光を知る者は「欠点がないことがやつの欠点だ」と語ったという。

室生 犀星(むろう さいせい、本名: 室生 照道(てるみち)、1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日)は、石川県金沢市生まれの詩人・小説家。
私生児として生まれ、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。犀星という筆名は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。戦後は小説家としての地位を確立し、多くの秀作を生んだ。
抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名である。
藤田 嗣治(ふじた つぐはる 1886年11月27日 – 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在も、フランスにおいて最も有名な日本人画家であり、明治以降の日本人芸術家で藤田嗣治ほどの成功を海外で収めたものは他にいない。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリの代表的な画家である。私生活でも3度の結婚と離婚をしているが、彼の自由で奔放な人生は生前日本社会からは認められなかった。死後、日本政府から勲一等瑞宝章を追贈

棟方 志功(むなかた しこう、1903年9月5日 - 1975年9月13日)は日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠。1942年以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。
少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「わだば、ゴッホになる」と芸術家を目指す。生命力、躍動感に溢れた力強い傑作を数多く生み出し、1956年ヴェネチア・ビエンナ-レ国際美術展に「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを鼻ずさみながら板画を彫った。仏を題材にした作品が特に有名。

湯川秀樹(明治40年(1907年)1月23日 - 昭和56年(1981年)9月8日)は、日本の理論物理学者。ノーベル物理学賞受賞。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。従二位勲一等。理学博士
.中間子論の提唱などで原子核・素粒子物理学の発展に大きな功績をあげ、1949年日本人として初めてのノーベル賞を受賞した。このニュースは、敗戦・占領下の自信を失っていた国民に大きな力を与えたとされ、フィーバーを巻き起こした。核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。またその一方で、非局所場理論・素領域理論といった革新的かつ野心的な理論を提唱しつづけ、最後まで第一線級の物理学者であり続けた。

中野重治(なかの しげはる、1902年1月25日 - 1979年8月24日)は、日本の小説家、評論家、詩人。福井県出身。
東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。この間に多くの作品を発表した。1931年に日本共産党に入ったが、検挙される。戦後、再び日本共産党に入り、また、『新日本文学』の創刊に加わる。平野謙、荒正人らと「政治と文学論争」を引き起こし、戦後文学を確立させた。1947年から50年まで参議院議員。
代表作に、小説『むらぎも』『梨の花』『歌のわかれ』、評論『斎藤茂吉ノオト』『甲乙丙丁』、詩集『中野重治詩集』など。






















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湯川秀樹
賀川 豊彦(1888年7月10日 - 1960年4月23日)は、キリスト教社会運動家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。「東洋のカンジー」とも言われ、ノーベル平和賞候補にもなった。自伝的小説「死線を越えて」は当時の大ベストセラーに。現・コープこうべ(日本最大の生協)の生みの親でもある。
賀川豊彦
濱口雄幸

濱口 雄幸(はまぐち おさち、明治3年4月1日(1870年5月1日) - 昭和6年(1931年)8月26日)は、政治家。明治生まれの初の内閣総理大臣。
幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、誤って名前を前後逆に記入してしまい雄幸となった。
その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた。戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示し、積極財政から緊縮財政へという政治家の信念を貫き通す姿勢は高く評価する者もいたが、反面緊縮財政がデフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることも多い。

東条英機

東條 英機(1884年7月30日 — 1948年12月23日)は、陸軍軍人、政治家、第40代内閣総理大臣。極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、享年64。辞世の句は「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」。

幣原喜重郎

幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年(昭和26年)3月10日)は明治~昭和期の政治家、外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中外交と対立する。終戦後は第44代内閣総理大臣、第40代衆議院議長(内閣総理大臣経験者の衆議院議長は初めて)に就任した。

平沼騏一郎

平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、慶応3年9月28日(1867年)10月25日 - 昭和27年(1952年)8月22日) 岡山県出身。司法官僚。第35代内閣総理大臣。日本大学第2代総長。大東文化学院(現大東文化大学)初代総長。衆議院議員の平沼赳夫は、平沼騏一郎の兄である経済史学者で早稲田大学学長を務めた平沼淑郎の曾孫である。

阿部信行

阿部 信行(あべ のぶゆき、明治8年(1875年)11月24日 - 昭和28年(1953年)9月7日)は日本の陸軍軍人、政治家。第36代内閣総理大臣。石川県金沢市生まれ。旧金沢藩士の子としてうまれる。義弟には井上成美(最後の海軍大将)がいる。

東海林太郎

東海林太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は歌手。直立不動の姿勢で歌う戦前を代表する歌手。秋田県生まれ。NHK紅白歌合戦には、第1回・第6回・第7回・第16回の計4回出場している。1934年に発売された「赤城の子守歌」は空前のヒットとなった。

片山哲

片山 哲(かたやま てつ、明治20年(1887年)7月28日 - 昭和53年(1978年)5月30日)は日本の政治家で、第46代内閣総理大臣。

武者小路 実篤 1885年5月12日 - 1976年4月9日 白樺派を代表する小説家。東京都千代田区に、子爵武者小路実世の第8子として生まれる。理想的な調和社会・階級闘争の無いユートピアの実現を目指して、宮崎県に「新しき村」を建設したが、ダム建設により村の大半が水没したため、1939年に埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。両村は現存するが、実篤自身はわずか6年で離村。村の建設など、理想主義・空想社会主義的な行動で揶揄されることもあった。