~丸メガネの情報が満載!~

丸メガネの情報が満載!

学者・文化人(生年順)

1859年(安政6年)以前

メガネの原点は実は「丸」です。

現代のように枠にあわせてレンズを削るのではなく、昔は丸いレンズを削らずにそのまま枠に入れるという方式だったので、自然と枠は丸になったわけです。

昔の有名人で丸眼鏡の顔写真を思い浮かべる人は多いのですが、それは、昔は丸か楕円しかなかったからです。

明治・大正・昭和初期と多くの学者や作家、政治家が丸メガネをかけていました。

学者や作家の丸メガネは、今でもなるほどと納得させられる部分がありますが、現代では、政治家が丸メガネをかけている「図」というのはほとんど見当たりません。

いわゆる「現代のメガネ」をかけている政治家よりも、明治・大正・昭和初期に丸メガネをかけていた政治家のほうが、より人情があり、また、政治に対する理想や志の高さを感じるのは、気のせいでしょうか?

中村秋香(なかむら あきか)

天保12年9月29日(1841年11月12日)~明治43年(1910年)1月29日)
静岡生まれ。国文学者、詩人、歌人。父は静岡藩士。
嘉永6年(1853)駿府城代与力見習として出仕。
松木琴園の門弟となり、また、戸塚精斎から漢学を学ぶ。
明治4年(1871)廃藩置県により愛知県に仕官。
6年(1873)に教部省、12年(1879)に文部省、23年(1890)には東京女子師範学校、翌年第一高等中学校に奉職。
30年(1897)に高崎正風の推薦で御歌所寄人となる。また、35年(1902)には唱歌選定委員嘱託も受ける。
和歌や古典の注釈書を多く執筆している。
出典:近代日本人の肖像

弘世助三郎(ひろせ すけさぶろう)

天保14年1月3日(1843年2月1日) - 大正2年(1913年)11月17日)は滋賀県出身の実業家、政治家。
旧姓川添(川添家の次男として生まれるが、おじに当たる商人、弘世助市の養嗣子となる)。第百三十三国立銀行頭取で、日本生命保険の創業者。

山田久米子(やまだくめこ)

弘化4年3月16日~明治44年12月19日 (1847~1911)
東京神田生まれ。かつては産婆といわれた、職業としての助産婦の草創期の人物。
助産婦の組織化や教育に貢献し、各宮家にも仕えた。
明治41年頃に電話を引いている助産婦は少なかったが、新橋72番の2桁の電話番号を持って活躍していた。出典:近代日本人の肖像

大槻文彦(おおつき ふみひこ)

1847年12月22日(弘化4年11月15日) - 1928年2月17日)
日本の国語学者。本名は清復、通称は復三郎、号は復軒。江戸出身。
日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として著名。
宮城師範学校(現・宮城教育大学)校長、宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)校長、国語調査委員会主査委員などを歴任し、教育勅語が発布された際にいち早く文法の誤りを指摘したことでも有名。明六社会員。帝国学士院会員。

外山正一(とやま まさかず)

1848年10月23日(嘉永元年9月27日) - 1900年(明治33年)3月8日)
明治時代の教育家・文学者・社会学者。号は丶山(ちゅざん)。
若くしてその英才を謳われ、勝海舟の推挙により1866年幕府派遣留学生として渡英。
幕府瓦解後、抜群の語学力を新政府に認められ、渡米。
外務権大録になるも直ちに辞職しミシガン大学で哲学と科学を専攻する。
帰国後、開成学校教授、東京大学、帝国大学、東京帝国大学教授を歴任し、1893年から日本初の社会学講座を担当。
東京大学文科大学長、東京帝国大学総長を務め、1898年第三次伊藤博文内閣文部大臣となる。
進化論・スペンサー学説の紹介、ローマ字学会の創設、その他、その活動は多岐にわたり、矢田部良吉らと『新体詩抄』を刊行して、日本近代詩史上の先駆をなすなど、明治の文化・教育に少なからぬ影響を与えた。
高等教育会議議員、貴族院議員、初の東京帝国大学名誉教授。
著書に『ゝ山存稿』がある。
東大文科大学学長時の1883年、ある新入生の面接を行った。
外山が「君は何の為に勉強するのかね。」と問うと、件の新入生は「我、太平洋の架け橋とならん。」と答えた。
この新入生が新渡戸稲造であった。

矢田部良吉(やたべ りょうきち)

嘉永4年9月19日(1851年10月13日) - 1899年8月8日)
日本の植物学者、詩人。伊豆韮山生まれ。
明治2年(1869年)開成学校教官、明治4年(1871年)米国に渡り、翌年コーネル大学で植物学を学ぶ。
明治10年(1877年)東京大学初代植物学教授となる。
1891年非職。外山正一、井上哲次郎とともに『新体詩抄』を上梓した。
東京植物学会を設立、ローマ字論者でもあった。鎌倉で遊泳中に溺死。

高村 光雲(たかむら こううん)

嘉永5年2月18日(1852年3月8日) - 1934年(昭和9年)10月10日)
仏師、彫刻家。東京生まれ。
詩人・彫刻家の高村光太郎、鋳金家の高村豊周は息子。写真家の高村規は孫。
仏師高村東雲の門に入って木彫を学び、高村姓を継ぐ。
明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は無く、木彫も輸出用の象牙彫刻が流行し衰え、光雲自身の生活も苦しかった中で木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。
1877年内国勧業博覧会で最高賞を受賞。
1886年東京彫工会を設立。1890年から東京美術学校に彫刻科教授として勤務、山崎朝雲、など後進の育成にも尽力した。
代表作は「老猿」「楠公像」「西郷隆盛像」など。

小野 梓(おの あずさ)

1852年3月10日(嘉永5年2月20日) - 1886年(明治19年)1月11日)
日本の法学者。明治の政治運動家。専門は英米法。土佐国宿毛(高知県宿毛市)出身。男性。
親友であった大隈重信を助け、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立の事実上の中心者となり早稲田大学建学の母(父は大隈重信)とも言われている。
明治16年私擬憲法「国憲私案」を起草、イギリス流の立憲君主制実現をめざした。
同年東洋館書店(のちの冨山房)を開業し、出版業にも手を染めた。
主な著書に自己の国会論や主権論を論じた『国憲汎論』や『東洋論策』などがある。
立憲政治の実現をみることなく肺結核のため早世した。

鈴木よね

(1852年8月~1938年5月)
姫路市米田町の塗師(仏壇の漆塗り)丹波屋西田仲右衛門の三女として生まれたよねは、「塗師惣」こと福田惣平の次男に嫁いだが、まもなく離婚。
兄仲右衛門の縁でよね26歳の時、神戸の砂糖商鈴木岩治郎と再婚した。
金子直吉が鈴木商店に入店したのは、よねが嫁いでから9年後の明治19(1886)年、直吉21歳、よね35歳(満33歳)の時であった。
主人岩治郎は、気性激しく度々、直吉を叱責したばかりか仕事も貸し金の取立てばかりで単調であったため、金子は病気を口実に郷里土佐に舞い戻ってしまった。
よねは、直吉の商才を見抜いており、再三呼び戻しの手紙を送って直吉の再出発を促したことから、直吉の主家に対する永い信頼関係が始まる。
岩治郎は、独立後20年ほどの明治27(1894)年急逝してしまう。
よねは、親戚筋からは廃業を勧められるも自らが主人となって事業を継続する道を選び、金子直吉と柳田富士松の二人の番頭を全面的に信頼し、新たな船出に乗り出すことになった。
鈴木商店の経営には、一切口出しせず、金子に経営すべてを委ねた店主よねは、一方で臨済宗祥龍寺の再興に力を尽くすほか、神戸女子商業の設立を支援するなど地元神戸に少なからず貢献したことが知られている。
作家玉岡かおるの「お家さん」には、よねの波乱に満ちた人生が描かれている。

北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう)

嘉永5年12月20日(1853年1月29日) - 昭和6年(1931年)6月13日)
日本の医学者・細菌学者。男爵。
「日本の細菌学の父」として知られ、門下生からはドンネル先生(ドイツ語で雷おやじの意)との愛称で親しまれた。
現・東京大学医学部卒業後、ドイツベルリン大学へ留学し、コッホに師事。
血清療法という画期的な手法を開発、1890年にはその手法をジフテリアに応用し、同僚ベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。
ベーリングはこの業績によりノーベル賞を受賞するが、北里は候補に挙がったのみであった。
1892年に帰国後、福沢諭吉により慶應義塾大学に私立伝染病研究所が設立され、初代所長となる。
1894年にはペスト菌を発見するという業績をあげた。
1914年に伝染病研究所が東大に帰属させられると北里は新たに私立北里研究所(北里大学の母体)を設立し、狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

下田 歌子(しもだ うたこ)

本名:平尾 鉐(ひらお・せき)、安政元年8月9日(1854年9月30日) - 昭和11年(1936年)10月8日)
明治から大正にかけて活躍した教育家・歌人。岐阜県出身。女子教育の先覚者。
1872年(明治5年)、女官に抜擢され宮中出仕する。
岩村藩の藩士の家に生まれた歌子は武家の子として身に付けた礼儀作法や、儒学者の祖父仕込みの学識、和歌の才能で昭憲皇太后から寵愛され「歌子」の名を賜り、宮廷で和歌を教えるようになる。
結婚を期に宮中出仕を辞したが、その後も生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園や順心女子学園設立の基礎を築いた。

辰野 金吾 (たつの きんご)

1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日)
佐賀県出身の建築家。工部大学校(のちの帝国大学工科大学、現在の東京大学工学部)卒業。工学博士、帝国大学工科大学学長、建築学会会長。
設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた。
帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太、長野宇平治、武田五一、中條精一郎、塚本靖、野口孫市、大沢三之助、関野貞らの人材を輩出した。
帝国大学総長渡邉洪基(渡辺洪基) の意向を受け、工手学校 (工学院大学) の創立(明治20年)を推進し、運営にも尽力した。
主な作品に、日本銀行本店(重要文化財)、中央停車場(重要文化財、現、東京駅、東京ステーションホテル)、大阪市中央公会堂(重要文化財)などがある。
東大仏文科で小林秀雄、三好達治らを育てたフランス文学者・辰野隆は息子である。

高峰 譲吉(たかみね じょうきち)

嘉永7年11月3日 (1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)
日本の科学者。工学博士・薬学博士。富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校応用化学科を首席で卒業。
理化学研究所の設立者の一人。
1912年帝国学士院賞受賞。
農商務省時代に1884年アメリカニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出会ったキャロライン・ヒッチと結婚、渡米し、アメリカに永住。
1894年には消化薬として有名な「タカジアスターゼ」発明、1900年にはアドレナリンの結晶抽出に成功。
世界ではじめてホルモンを抽出した例となった。
アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。

菊池 大麓(きくち だいろく)

安政2年1月29日(1855年3月17日) - 大正6年(1917年)8月19日)
明治・大正期の数学者、政治家。
幕末・明治初期に、2度イギリスに留学し、ケンブリッジ大学で数学・物理学を学ぶ。
帰国後1877年(明治10年)、東京帝国大学理学部教授となり、近代数学を初めて日本にもたらした。
同大学総長、学習院院長、京都帝国大学総長、理化学研究所初代所長等を歴任、1902年(明治35年)には男爵を授けられた。
政治的手腕もあり、帝国学士院会員及び同第8代院長、貴族院勅選議員、文部省専門学務局長、文部次官、文部大臣、枢密顧問官等を歴任した。
長女・多美子は憲法学者の美濃部達吉と結婚。孫の美濃部亮吉も政治家である。

田口 卯吉(たぐち うきち)

1855年6月12日(安政2年4月29日) - 1905年4月13日)
日本の経済学者・歴史家。
東京府会議員(明治13年(1880年)12月-明治23年(1890年)7月)、衆議院議員(明治27年(1894年)10月-明治38年(1905年)2月)なども歴任した。
名は生年が乙卯であることにちなむ。名は鉉(みつ)。卯吉は通称。字は子玉。号は鼎軒で、『易経』に由来。
晩年『国史大系』、『群書類従』の編纂に道筋をつけた。
ほとんど独力で行われたこれらの編纂・出版事業を評して鳥谷部春汀は「利益のみを目的としては決して企てることができない、文壇への慈善事業である」と賞賛している。

久原 躬弦(くはら みつる)

安政2年11月28日(1856年1月5日) - 大正8年(1919年)11月21日)
日本の化学者。 代々津山藩の藩医を勤める久原家の9代・宗甫の息子として現在の津山市に生まれた。
躬弦は化学者になったが、弟が医師となって父の後を継いでいる。
東京大学(旧制)の理学部化学科を1877年に卒業。学士(理学士)の第一号となった。
京都帝國大学(現・京都大学)の総長(京都帝國大学の教授としては初めて総長)や第一高等中学校の校長を務め、研究者としては有機化学を専門とし、特にベックマン転位の研究などで業績を挙げている。

藤岡 市助(ふじおか いちすけ)

安政4年3月14日(1857年4月8日) - 大正7年(1918年)3月5日)
日本の工学者、実業家。
日本に電気、電球灯の普及させたところに功績が大きく、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。
東京電気株式会社(後の東芝の弱電部門)創業者。
工部寮電信科に内在学中にウィリアム・エドワード・エアトン教授に学び、学生として1878年3月25日の銀座木挽町での日本初のアーク灯点灯実験に参加している。
この日は電気記念日となっている。
1880年 電信技術の教科書「電信初歩」を書く。
1881年 名称が変わった工部大学校を首席で卒業。工部大学校の助手に就任する。
1882年 銀座大倉前で2000個のアーク灯を点灯する。
1883年 アーク灯用の発電機を設計製作。
1884年 工部大学校教授に就任。物理学、電信学を教える。
フィラデルフィア万国電気博覧会を視察し、ニューヨークに立ち寄りトーマス・エジソンに会う。
1886年 帝国大学工科助教授に就任。同年に辞職し、山尾庸三の尽力で東京電燈を設立する。
1890年 三吉正一と電球製造の白熱舎(後に東京電気から東芝へと発展)創設。
電車を発表、浅草凌雲閣にエレベーターを作る。

佐藤 三吉(さとう さんきち)

1857年(安政4年) - 1943年(昭和18年)6月17日)
明治〜昭和期の外科医、医学博士、貴族院議員。美濃国大垣藩(現岐阜県大垣市)出身。
東京帝国大学教授、東京帝国大学医科大付属医院長、東京帝国大学医科大学長として、同じ岐阜県出身の青山胤通とともに、日本近代医学の創生期に活躍した。日本最初の医学博士。

成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう)

1858年8月2日(安政5年6月23日) - 1919年(大正8年)3月4日)
明治から大正のキリスト教牧師(プロテスタント)であり、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、日本女子大学(日本女子大学校)の創設者として知られる。

中島 鋭治(なかじま えいじ)

1858年11月17日(安政5年10月12日) - 1925年(大正14年)2月17日)
宮城県仙台市生まれの建築家。東京帝国大学名誉教授。
工学博士、日本の近代上水道の父・近代衛生工学の父などと呼ばれる人物。
駒沢給水塔(東京都世田谷区弦巻2丁目41番16号)の設計者として知られる。
東京大学理学部土木工学科首席卒。東京市下水道創設に尽力。
東大教授、内務技師、東京市技師長等を併任し、1921年に退官(名誉教授)。
1925年土木学会会長に推されるが1ヶ月後に逝去。
わが国近代上下水道の開祖として技術者育成、数十に及ぶ都市の水道に関与した。
韓国勲二等、米国水道協会名誉会員。

中原 貞三郎 (なかはら ていさぶろう)

写真は公益社団法人土木学会のサイトからお借りしました。
1859年(安政6年1月14日)~1927年(昭和2年12月4日)
山口県出身の土木技術者。
陸軍省参謀本部測量課につとめ、のち農商務技師、内務技師、大阪市技師などをへて東京第一土木出張所長となり、利根川、渡良瀬川、荒川改修工事に尽力し1924年退官。東京大学卒。

坪内逍遥(つぼうち しょうよう)

安政6年5月22日(1859年6月22日) - 1935年2月28日
明治時代に活躍した小説家、評論家、翻訳家、劇作家。現岐阜県美濃加茂市出身。
本名は坪内雄蔵。
26歳のときの評論『小説神髄』によって、小説はまず人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐと論じ、この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。
しかし逍遙自身これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示された。
早稲田大学の演劇博物館は、逍遙のシェイクスピア全訳の偉業を記念して建設されたものである。

片山 潜(かたやま せん)

安政6年12月3日(1859年12月26日) - 昭和8年(1933年)11月5日)
美作国(現在の岡山県)出身の労働運動家・社会主義者・マルクス主義者・思想家・社会事業家。号は深甫。
岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)を中退して上京後、アメリカ合衆国へ渡り、皿洗いなどをしながら苦学してメリーヴィル・グリンネル・エール大学や大学院に通う。
帰国後、自宅を改良し、キリスト教社会事業の拠点として日本人最初の隣保館である「キングスレー館」を設立。
その運営の傍らで労働運動に力を尽くし、日本で最初の労働組合である職工義友会(労働組合期成会)の設立や日本で最初の社会主義政党である社会民主党の結成(1901年)、日本社会党結党(1906年)にかかわった。
1911年、東京市電ストライキの指導を行ったとして逮捕され投獄されるも、大正天皇即位の大赦によって出獄。
その後、1914年にアメリカへ亡命。
1917年のロシア革命により、マルクス・レーニン主義に傾倒。
アメリカ共産党、メキシコ共産党の結党に尽力するなど北米での共産主義活動を行った。
1921年、ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となる。
国外にあって日本共産党結党の指導を行い、また国際反帝同盟を指導し反戦運動に従事した。
昭和8年(1933年)11月5日にモスクワで死去。
9日に行われた葬儀には15万人のソビエト市民やコミンテルン指導者らが集まった。
棺に付き添った14人には、ミハイル・カリーニン、ヨシフ・スターリン、ヴィルヘルム・ピーク、クン・ベーラ、野坂参三たちがいた。
遺骨はクレムリン宮殿の壁に他の倒れた同志たちと共に埋葬されている。

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