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政治家・軍人(生年順)

1870(明治3)年~1879(明治12)年


濱口 雄幸(はまぐち おさち)

明治3年4月1日(1870年5月1日) - 昭和6年(1931年)8月26日
政治家。明治生まれの初の内閣総理大臣。
幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、誤って名前を前後逆に記入してしまい雄幸となった。
その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた。
戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示し、積極財政から緊縮財政へという政治家の信念を貫き通す姿勢は高く評価する者もいたが、反面緊縮財政がデフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることも多い。

下岡 忠治(しもおか ちゅうじ)

1870年9月29日(明治3年8月27日) - 1925年(大正14年)11月22日
日本の内務・農商務官僚、政治家。衆議院議員、朝鮮総督府政務総監。
号・三峰。

小橋 一太(こばし いちた)

明治3年7月1日(1870年10月25日) - 昭和14年(1939年)10月2日
熊本県出身の政治家。
東京帝国大学卒業。 内務省に入り、各局長を歴任。
1918年原内閣の内務次官となる。
1920年立憲政友会より衆議院議員に当選(以後、3連続当選)。
政友会から政友本党に転じ、民政党の結成に参加。
1929年浜口内閣の文相となるが、越後鉄道疑獄事件で辞任。
1937年東京市長。
著作に「農村自治」など。

川崎 卓吉(かわさき たくきち)

写真はサイト「文部科学省の歴代大臣」より

明治4年1月18日(1871年3月8日) - 昭和11年(1936年)3月27日
広島県賀茂郡広村(現・呉市広町)出身の官僚、政治家。
東京帝国大学法科卒業。
内務省にはいり、福島県知事、名古屋市長、内務次官などを歴任した。
大正15年貴族院議員。昭和10年民政党幹事長に就任後、岡田内閣の文相、広田内閣の商工相をつとめた。

原 脩次郎(はら しゅうじろう)

1871年7月1日(明治4年5月14日) - 1934年(昭和9年)3月6日
明治から昭和期の実業家、政治家。
衆議院議員、拓務大臣、鉄道大臣。

川村 竹治(かわむら たけじ)

明治4年7月17日(1871年9月1日) - 昭和30年(1955年)9月8日
大正から昭和にかけて活躍した官僚・政治家。
満鉄社長、司法大臣等を歴任。
秋田県出身。
日本中学などから一高を経て、1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学英法科卒業。同年、内務省入省。
1911年(明治44年)、和歌山県知事。1914年(大正3年)、香川県知事。
1917年(大正6年)、青森県知事。1918年(大正7年)、内務省警保局長。
1921年(大正10年)、内閣拓殖局長官。
1922年(大正11年)6月から1947年(昭和22年)5月まで貴族院議員(勅選)、交友倶楽部に所属。
1922年(大正11年)6月、内務次官。
1922年(大正11年)10月、南満洲鉄道株式会社(満鉄)社長。
1928年(昭和3年)6月、台湾総督。1932年(昭和7年)、犬養内閣の司法大臣。
五・一五事件で依願免官。
その後は、夫人文子経営の川村女学院(現在の川村学園)顧問になった。
1955年(昭和30年)9月8日死去。享年84。

松浦 鎮次郎(まつうら しずじろう)

写真はサイト「文部科学省の歴代大臣」より

明治5年1月10日(1872年2月18日) - 1945年9月28日
愛媛県出身の文部官僚、教育者、政治家。
東京帝国大学法科大学政治学科卒業。
明治35年、内務省から文部省に移籍して参事官に就任。
以後、兼文部大臣秘書官・総務局人事課長、大臣官房秘書課長、文部大臣秘書官兼文部省参事官などを歴任。
一時休職して米独留学、復職後、文部次官、京城帝国大学総長、九州帝国大学総長を務めた。
のち、貴族院勅選議員、九州帝国大学名誉教授、枢密顧問官、1940年(昭和15年)1月、米内内閣の文部大臣に就任。同年7月、同内閣が総辞職をすると、再び枢密顧問官に選任され在職中に死去した。

林 毅陸(はやし きろく)

1872年6月6日(明治5年5月1日) - 1950年(昭和25年)12月17日
明治後期から戦前昭和期の歴史家、法学者(法学博士)、政治家。
枢密顧問官、衆議院議員、貴族院勅選議員、帝国学士院会員、第6代慶應義塾塾長、初代愛知大学学長等を歴任。
号は弘堂。
位階勲等は正四位勲二等旭日中綬章。
日本の外交史研究の先駆者として知られている。

幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう)

1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年(昭和26年)3月10日
明治~昭和期の政治家、外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中外交と対立する。
終戦後は第44代内閣総理大臣、第40代衆議院議長(内閣総理大臣経験者の衆議院議長は初めて)に就任した。

富田 幸次郎(とみた こうじろう)

明治5年10月1日(1872年11月1日) - 昭和13年(1938年)3月23日
高知県安芸郡(現・安芸市)出身の新聞人、政治家、第32代衆議院議長、双川と号した。
明治37年高知新聞を創刊。第2代社長。
かねてより政治家を志し、衆議院議員を経て昭和11年衆議院議長に就任。
日本においてバスケットボールの普及と発展に尽力した富田毅郎は幸次郎の息子である。

塚本 清治(つかもと せいじ)

1872年12月5日(明治5年11月5日)-1945年(昭和20年)7月11日
明治から昭和にかけての内務官僚・政治家。
1927年に若槻内閣が総辞職をすると、貴族院議員に勅撰されて同成会に属した。
1931年に関東長官に任じられる。
貴族院議員在職中に死去した。

光行 次郎(みつゆき じろう)

明治6年(1873年)1月20日 - 昭和20年(1945年)8月6日
日本の検察官、政治家。検事総長、貴族院議員。

江木 翼(えぎ たすく)

1873年(明治6年)4月24日 - 1932年(昭和7年)9月18日
明治、大正、昭和時代の官僚政治家。
1897年(明治30年)東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、内務省に入省する。
1912年(大正元年)第3次桂内閣で内閣書記官長に就任。
その後、1914年(大正3年)の第2次大隈内閣、1924年(大正13年)の第1次加藤高明内閣でも書記官長を務め憲政会、立憲民政党系の官僚政治家として台頭した。
この間に、1916年(大正5年)10月5日には貴族院議員に勅選され、1920年(大正9年)には法学博士号を受けている。
民政党の歴代総裁からの信任が厚く「民政党の知恵袋」と評され、同党の有力な総裁候補であったが、病のため辞職した。

中島 久万吉(なかじま くまきち)

1873年7月24日 - 1960年4月25日
政治家、実業家、男爵。
父は衆議院議長や駐イタリア大使等を歴任した、男爵中島信行。妻八千子は子爵岩倉具経の娘。
古河財閥、城西大学、古河電気工業や横浜ゴムを設立した。

關 一(せき はじめ)

1873年9月26日 - 1935年10月26日
社会政策学者・都市計画学者及び大阪市長等を務めた政治家。
静岡県伊豆生まれ。
第6代大阪市長の池上四郎から懇請され大阪へ。
1923年市長に就任。
「都市の大改造」を打ち出し、メインとして「御堂筋」の拡幅工事を手がけた。
大阪に御堂筋を造って発展の基礎を固め、東京の後藤新平と双璧をなす、名市長と言える。
大阪市政への功績がたたえられ、中之島にその銅像が建立されている。

湯浅 倉平(ゆあさ くらへい)

1874年(明治7年)2月1日 - 1940年(昭和15年)12月24日
日本の内務官僚・政治家。爵位は男爵。
山口県豊浦郡宇賀村(現在の山口県下関市)に医師の子として生まれる。
1898年に東京帝国大学法科大学政治学科卒業。同年、内務省に入省。
岡山県知事・静岡県知事を経て、1915年に帝大時代の恩師でもある一木喜徳郎内相の推挙によって内務省警保局長に就任した。
1916年10月5日、貴族院議員(勅撰・同成会所属)に任じられて、原敬内閣の郡制廃止に反対論を唱えた。
1923年関東大震災が発生すると、後藤新平内相の招請により警視総監に任じられた。
1936年に発生した二・二六事件では、岡田啓介総理安否不明、斎藤実内大臣死亡、鈴木貫太郎侍従長重体という未曾有の危機的状況の中、反乱将校たちの掲げる「昭和維新」に反対する立場から、昭和天皇を補佐。
反乱将校に同情的な本庄繁侍従武官長とは異なる対応を見せた。

千石 興太郎(せんごく こうたろう)

1874年(明治7年)2月7日 ‐ 1950年(昭和25年)8月22日
日本の政治家、労働運動家。長きにわたり農業協同組合(農協)運動の第一線で活動し、第二次世界大戦後の「農協王国」の基礎を作り上げた。

緒方 惟一郎(おがた ゆいいちろう)

1874年(明治7年)5月18日- 1951年(昭和26年)10月21日
日本の内務・警察官僚。
官選青森県知事、警視庁消防部長。
熊本県出身。
1904年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。
1905年、内務省に入省し警視庁属兼警部となる。
1924年6月6日、青森県知事に発令されたが、在任18日後の6月24日に休職となる。その理由は不明である。

松尾 国松(まつお くにまつ)

1874年(明治7年)7月29日 - 1958年(昭和33年)1月17日
大正期、昭和期の日本の政治家。
元岐阜市長(1925年3月7日~1946年6月7日)。
貴族院議員(1946年3月22日~1947年5月3日)。
岐阜市名誉市民 市長在任中に、上下水道の整備、1932年(昭和7年)には市立岐阜薬学専門学校(現岐阜薬科大学)を創立、1941年(昭和16年)には岐阜市診療所を新築移転し、岐阜市民病院を開設などしている。
1958年(昭和33年)に岐阜市立図書館の開館のさい、生前の愛読書約4,000冊が寄贈され、松尾文庫として配架されている。
長男は松尾吾策。国松と同じく岐阜市長を勤めている。

下村 宏(しもむら ひろし)

明治8年(1875年)5月11日 - 昭和32年(1957年)12月9日
和歌山県出身の官僚、新聞経営者、政治家、歌人。
号は海南(かいなん)。
昭和20年(1945)4月、鈴木貫太郎内閣の国務大臣となり、情報局総裁に就任。
終戦時のポツダム宣言受諾の玉音放送の実現に尽力した。
同年8月15日正午に開始された放送は、日本放送協会の和田信賢放送員によるアナウンスから始まり、続いて下村が昭和天皇自らの勅語朗読である事を説明してから、天皇の声を録音したレコードが放送された。
前日には、徹底抗戦を主張する一部軍人により、放送を妨害しようとして下村たちが監禁される事件が起きるなど、緊張した情勢が続く中、天皇から直接終戦を伝える玉音放送が無事に行われたことの意義は大きかった。

松田 源治(まつだ げんじ)

1875年10月4日 - 1936年2月1日
大分県出身の政治家。
衆議院議員(当選9回)。
拓務大臣、文部大臣、衆議院副議長を務めた。
中央大学、日本大学卒業。

阿部 信行(あべ のぶゆき)

明治8年(1875年)11月24日 - 昭和28年(1953年)9月7日
日本の陸軍軍人、政治家。
第36代内閣総理大臣。
石川県金沢市生まれ。旧金沢藩士の子としてうまれる。
義弟には井上成美(最後の海軍大将)がいる。

林 銑十郎(はやし せんじゅうろう)

1876年(明治9年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月4日
石川県金沢市出身の陸軍軍人、政治家。
階級は陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。功級は功四級。
陸軍大臣、内閣総理大臣(第33代)、外務大臣(第53代)、文部大臣(第46代)などを歴任した。
林内閣は財界と軍部の調整を図って大蔵大臣に財界出身の結城豊太郎・日本商工会議所会頭を充て、その財政は「軍財抱合」と呼ばれた。
また、急造の内閣であったため兼任の国務大臣が多く「二人三脚内閣」とも呼ばれ、また、短命の内閣で特に大きな実績も残せなかったことから、林首相の名をもじって「何もせんじゅうろう内閣」と揶揄された。

渡邊 千冬(わたなべ ちふゆ)

1876年(明治9年)5月1日 - 1940年(昭和15年)4月18日
明治期の政治家、実業家。
筑摩県筑摩郡松本(現・長野県松本市)生まれ。
子爵渡辺国武の養子で、実父は帝室林野局長官や宮内大臣などを歴任した伯爵渡辺千秋(國武の兄)。
幼少時は慶應義塾などで学び、帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法学部)卒業。
1908年(明治41年)長野から衆議院議員に当選。
1920年(大正9年)、襲爵後、貴族院議員となり研究会に所属、浜口内閣、第2次若槻内閣にて司法大臣を務める。
大阪毎日新聞社取締役、1939年(昭和14年)枢密顧問官となり、他に関東國粹会総裁となる。

兒玉 秀雄(児玉 秀雄、こだま ひでお)

写真はサイト「文部科学省の歴代大臣」より

1876年7月19日 - 1947年4月7日)は、山口県出身の政治家、貴族院議員、官僚、伯爵。
東京帝国大学法科大学政治学科卒業。
陸軍大将児玉源太郎の長男。
大蔵書記官、韓国統監府書記官から1910年朝鮮総督府設置と共にその総務局長、のち寺内内閣書記官長、賞勲局総務、関東長官をへて朝鮮総督府政務総監を務める。
その後は貴族院議員として貴族院研究会にて活躍。
岡田内閣の拓務大臣、林銑内閣の逓信大臣、米内内閣の内務大臣から第二次大戦開戦後42陸軍軍政最高顧問としてジャワに赴任。
のち小磯内閣で国務大臣・文部大臣に就任した。
戦後、戦争指導政府の閣僚として公職追放中に病没。

永田 秀次郎(ながた ひでじろう)

1876年7月23日 - 1943年9月17日
明治から昭和にかけて活躍した日本の官僚・政治家。
兵庫県三原郡倭文(しとおり)村(現在の南あわじ市)出身。
第三高等学校(現在の京都大学の母体校の1つ)卒業。
内務省官僚を務めた後、第8・14代東京市長、拓殖大学第4代学長、貴族院議員を歴任。関東大震災では市長として復興に尽力。俳人でもあり号は永田青嵐。
高浜虚子と親しかった。
1932年のロサンゼルスオリンピックで女子平泳ぎ200mで銀メダルを獲得した前畑秀子に「なぜ金メダルを取れなかった」と言った。
前畑は水泳を引退するつもりだったが、永田の言葉により現役続行を決意。
4年後のベルリンオリンピックで金メダルを取ることになる。
当時、永田は東京市長としてベルリンの次の1940年のオリンピックを東京に誘致しようと熱心だった。
そのためには女子の金メダリストがいれば有利だと考えていたという。
辞世句に『震災忌我に古りゆく月日かな』。

安藤 正純(あんどう まさずみ)

1876年9月25日 – 1955年10月14日
大正・昭和期のジャーナリスト・政治家。
元国務大臣・文部大臣。
現在の東京都台東区松が谷にある、真宗大谷派・真龍寺の住職の子として生まれ、僧籍を有する。
1899年に東京専門学校(現・早稲田大学)哲学科を卒業。
陸羯南主宰の新聞「日本」記者を経て、東京朝日新聞に入社し、1920年には取締役編集局長となる。
同年の衆議院議員総選挙に旧東京7区から無所属で立候補し当選を果たす。
以後当選11回。

宮田 光雄(みやた みつお)

1876年11月25日 - 1956年3月8日
日本の官僚、政治家。
勅撰貴族院議員として活躍中に原敬首相の目にとまり福島県知事として赴任。
1922年(大正11年)6月12日に加藤友三郎内閣で内閣書記官長として抜擢され、大腸癌を患う加藤友三郎首相にかわり国政を取り仕切る。
戦中の大政翼賛会興亜総本部長を経て、終戦時の陸軍参謀総長梅津美治郎の東京裁判での弁護人も勤める。
戦後公職追放となる。
1936年にプロ野球の大東京軍が発足した際には、球団の出資元の國民新聞からの依頼を受けて、取締役会長に就任した。

小原 直(おはら なおし)

1877年(明治10年)1月24日 - 1967年(昭和42年)9月8日
日本の検察官、政治家、弁護士。
岡田内閣、阿部内閣、第5次吉田内閣で司法大臣・法務大臣などの閣僚を務める。
岡田内閣の司法大臣在任中、帝人事件、天皇機関説事件、二・二六事件が起き、特に、二・二六事件では、総理秘書官・迫水久常から、反乱軍に殺害されたとされていた岡田啓介総理の生存がいち早く伝えられ、その事実が確認されると、岡田の参内を強く主張し、不敬を理由に反対する他の一部閣僚の反対を押し切った。
閣僚退任後は弁護士業を開業し戦後に至る。
戦後、昭和電工事件では迫水久常の弁護を担当し、迫水唯一人のみ一審段階で無罪となった。

伍堂 卓雄(ごどう たくお)

1877年(明治10年)9月23日 - 1956年(昭和31年)4月7日
日本の政治家、実業家、海軍造兵中将。
正三位。工学博士。 東京府士族伍堂卓爾の長男。
1901年(明治34年)に東京帝国大学工科大学造兵学科卒業。
1928年(昭和3年)、南満州鉄道(満鉄)によって朝鮮に設立が予定されていた昭和製鋼所の準備のため満鉄顧問となり、ドイツに派遣され、研究や設備の調達に当たった。
翌年、京城府に設立された昭和製鋼所の社長、ならびに満鉄理事となる。
1937年(昭和12年)には林内閣で商工大臣兼鉄道大臣となり、同年貴族院勅選議員に勅任される。
戦後A級戦犯容疑で一時巣鴨プリズンに拘留されるが、間もなく釈放され後に日本能率協会会長に復帰した。

野村 吉三郎(のむら きちさぶろう)

1877年12月16日 - 1964年5月8日
日本の軍人、外交官、政治家。
和歌山県出身。海軍大将。
太平洋戦争勃発まで日米交渉に従事した。
国際通であったことから、阿部信行内閣において外務大臣に。
1941年(昭和16)1月、日米関係が悪化の一途をたどる中、駐米特命全権大使に起用され、来栖三郎大使と共に、英・米との戦争回避のためにハル国務長官と交渉を行ったが、ハル・ノートを最後通牒と受け取った日本は真珠湾攻撃を決定、アメリカとの間に太平洋戦争に突入することとなった。
戦後の1953年(昭和28年)より、同郷の知人松下幸之助の要請を受けて、日本ビクター社長を務めた。
写真は日本ビクター社長時代の野村
吉村正治 - 毎日新聞社「毎日グラフ(1953年4月29日号)」より

松井 石根(まつい いわね)

明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日
日本の陸軍軍人。陸軍大将。
荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。

吉田 茂(よしだ しげる)

1878年(明治11年)9月22日 ‐ 1967年(昭和42年)10月20日
日本の外交官・政治家。
内閣総理大臣(45・48・49・50・51代)。
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。
公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。
孫は麻生太郎氏。

田辺 治通(たなべ はるみち)

明治11年(1878年)10月17日 - 昭和25年(1950年)1月30日
日本の逓信官僚・政治家。
大阪府知事・内閣書記官長・逓信大臣・内務大臣を歴任した。
山梨県出身。

二宮 治重(にのみや はるしげ)

写真はサイト「文部科学省の歴代大臣」より

1879年2月17日 - 1945年2月17日
岡山県出身の陸軍軍人、政治家。
最終階級は陸軍中将。文部大臣。
陸軍大学校(22期)を優等で卒業。
参謀本部課長、イギリス大使館付武官などを歴任。
昭和5年陸軍中将、参謀次長。
昭和6年宇垣内閣樹立をめざす三月事件の計画に参加。
のち満州拓殖公社総裁などをつとめ、昭和19年7月、小磯内閣の文部大臣に就任するが、翌年2月に病のため辞職、その一週間後に没した。

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