~丸メガネの情報が満載!~

丸メガネの情報が満載!

現代の丸メガネ~日本編(生年順)

~1930年代

丸メガネをかけている有名人といえば、大江健三郎、井上ひさし・・・
どちらかといえば変人的な作家・・・

天才アラーキーも丸メガネでしたっけ。

とにかく自由業の人ですね。

会社人ではまず、思い当たりません。

そして、自由業でも、政治家やスポーツ選手や二枚目系の芸能人にもいない。

となると、現代における丸メガネは、三枚目さんか、自由な人間が掛けるもの、あるいは、普通は自由じゃないけれど、自由になりたい時に掛けるモノ。

ということで、丸メガネから想起される言葉は、

自由
自己主張
我が道をいく
超保守的
・・・・・・

などなどですね。
ただ、大江健三郎や井上ひさしは政治的には保守というよりもリベラルですが、要するに新しいファッションなどにはまったく興味を示さないで、今の流行にはあわせたくないという意味での「保守的」です。

そのほかにも、もちろん、レトロの雰囲気というのはあります。
ただし、その場合は、当然ですが、それなりの雰囲気のある人物でないと似合わないでしょう。

メガネだけレトロで、後の服装はまったくレトロっけがない、となれば、これは大いなるミスマッチですね。

あと、和服には丸眼鏡は似合いそうですね。

昔の丸眼鏡族には、文学者哲学者などの「考える人」のイメージがあるし、今でも、丸メガネを好む人は、たとえば、肉体労働者には少なく、クリエーターとか、知的な労働に携わる人が多いものです。

笹本 恒子(ささもと つねこ)

1914年9月1日 -2022年8月15日
東京品川区出身の写真家。
1940年(昭和15年)4月に)財団法人・写真協会に入り、女性報道写真家第1号となる。肖像写真も得意とする。
終戦後は離婚、写真家として復帰し、国内で起こった話題・事件の女性たちを撮り、数多くのグラフ雑誌に掲載したが、活動の場であった写真グラフ誌の多くが廃刊されてしまい活動を休止した。
約20年間の沈黙を破り、1985年に71歳で国内を代表する著名な女性有名人を集めた写真展「昭和史を彩った人たち」で再び写真家として復帰した。
2001年には、第16回ダイヤモンドレディー賞受賞。2011年には吉川英治文化賞を受賞。107歳没

杉下 茂(すぎした しげる)

1925年9月17日 -
東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
日本初の本格的フォークボーラーとされており、現役時代は驚異的な変化の切れ味と落差を誇るフォークボールを自在に操り一世を風靡した。
杉下のフォークが日本球界に与えた影響の大きさから「フォークボールの神様」と呼ばれている。
出典:ウィキペディア

鈴木 瑞穂(すずき みずほ)

1927年10月23日 -
満州出身の俳優・声優。京都大学経済学部中退。終戦で満州より帰国後、京都大学経済学部に入学。
大学中退後の1952年に劇団民藝に参加し、1962年には舞台『るつぼ』での演技で芸術祭奨励賞を受賞した。
1971年、佐野浅夫、佐々木すみ江、下條正巳らと劇団民藝を共に退団。
その後は劇団銅鑼を経てフリーとなり、舞台、映画、テレビドラマの他、張りのある独特の美声を活かして、洋画吹き替え、ナレーションなど多方面で活躍している。
映画やドラマでは正義派のジャーナリストや弁護士、捜査官といった役を数多く演じている。
日本語吹き替えではダースベイダー、ヴィトー・コルレオーネなどの大物の悪役を数多く担当している。
写真は映画『226』で第36代内閣総理大臣阿部信行を演じた時のもの。

不破 哲三(ふわ てつぞう)

写真は、共産党の不破哲三前議長の夫人、上田七加子さんの回想記「道ひとすじ―不破哲三とともに生きる」(中央公論新社)の表紙の一部

1930年1月26日 -
東京出身の政治家。東京大学理学部物理学科卒業。
“不破”はペンネームで本名は上田 建二郎(うえだ けんじろう)。
両親は高知県の出身で、当時上田家に「跡取り」がいなかったため、父子共々養子として引き取られた。
日本共産党前中央委員会議長。元衆議院議員。
現在、党中央委員会常任幹部会委員で、党付属社会科学研究所所長。日本共産党元副委員長の上田耕一郎は実兄。
40歳で日本共産党の書記局長に就任し、当時マスコミから「共産党のプリンス」と呼ばれた。
また「スマイリング・コミュニスト」(微笑する共産主義者)と呼ばれ1998年流行語大賞特別賞受賞を受賞したこともある。
1998年に、31年間対立・絶縁していた中国共産党との交流を再開した。
130冊以上の著作があり、「赤旗」の評論員論文・無署名論文の多くを執筆したともいわれる。
メガネが最も似合う各界の著名人として、1998年に日本メガネベストドレッサー賞(政界部門)を受賞した。

大村 崑(おおむら こん)

1931年11月1日 -
日本の喜劇俳優。
昭和30年代を中心に、黎明期のテレビの軽演劇で爆発的な人気を得た、日本の喜劇界の大御所である。
愛称は「コンちゃん」。
2000年に日本喜劇人協会8代目会長に就任した。
ズレ落ちたメガネ(三木のり平からヒントを得たと言われている)とトボけた芸風で人気を博し大塚製薬提供の『とんま天狗』では、役名もズバリ「尾呂内南公」(オロナイン ナンコウ)。
その後も大塚製薬の各CMに出演。
「うれしいとメガネが落ちるんですよ」「オロナミンCは小さな巨人です」など各種フレーズは有名。
創業者の大塚家とは親戚同様の付き合いであるという。
昭和40年代を中心に、街中では帽子にズレ落ちたメガネでオロナミンCを宣伝している大村崑のホーロー看板が飾り、現在でも、山間部などでその看板を見ることができる。
現在も俳優として活躍。
また、日本でも有数のメガネのコレクターでもある。

小林 亜星(こばやし あせい)

1932年8月11日 - 2021年5月30日
作詞家、作曲家、俳優。
東京都杉並区出身。
旧制慶應普通部から慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学医学部入学、経済学部に転部して卒業。
大日本肥満者連盟(大ピ連)初代会長。
CMソングやテレビ主題歌にヒット曲、ロングランの曲が非常に多く、そのメロディに日本人の多くが馴染んでいるという点では右に出るもののない存在である。
レナウンの『ワンサカ娘』、ブリヂストン『どこまでも行こう』、サントリー『陽はまた昇る』(サントリーローヤル)、ファミリーマート(あなたとコンビニファミリーマート)等々。

仲代 達矢(なかだい たつや)

1932年12月13日 -
東京都出身の俳優。
劇団俳優座出身で、「無名塾」を主宰し、後進の育成にも努め、舞台演劇、映画で戦後の日本を代表する俳優の1人。
主演作『影武者』がカンヌ国際映画祭グランプリを受賞し、出演映画が米国アカデミー賞と世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)のすべてで受賞し、四冠を達成している。
出演作25本のキネマ旬報ベストテン入賞回数は、主演級スターとしては三国連太郎に次ぐ数字で、3位は三船敏郎だが、仲代は他の2人と異なり、舞台が映画以上の比重を持つ俳優である。
1996年紫綬褒章受章、2003年勲四等旭日小綬章受章、2007年に文化功労者となった。
写真は、無名塾公演「ホブソンズ・チョイス~ホブソンの婿選び~」の時の丸メガネ姿。

岡野 雅行(おかの まさゆき)

1933年2月14日 -
日本の技術者、経営者。
現在、金属加工会社・岡野工業(株)の社長。
東京都墨田区出身。
金属深絞り加工の世界的職人として知られ、東京都墨田区の従業員数6人という小さな町工場でありながら、その高い技術カが日本はもちろん、世界の大企業やNASAなどに注目され、製品が次々に採用される実績を持つ。
「誰にも出来ない仕事をする」がモットー。
講演では、かつての遊郭玉の井界隈で噺家にまみれて身に付いた、落語調の飾らない語り口で、ユーモアを交えて話すことから人気がある。
理論物理学者にも不可能と言われ、針の先端が蚊の口吻とほぼ同じ外径の「痛くない注射針」で一躍有名に。

宝田 明(たからだ あきら)

1934年4月29日 -2022年3月14日
日本の映画俳優、タレント、声優、司会者。
日本映画の黄金期である昭和30年代、東宝を代表する二枚目スターであった。
昭和40年代以降、ミュージカルを中心とした舞台に活動の場を広げ、ドラマやバラエティなどテレビ出演も増えるようになった。
1964年に文部省芸術祭奨励賞、1972年にゴールデンアロー賞を受賞。
これまで出演した映画は200本を越える。
身長183cm。写真はNHK連続テレビ小説「カーネーション」でヒロインの祖父「松坂清三郎」役の時の丸メガネ姿。

ふじた あさや(藤田 朝也)

1934年 -
日本の劇作家。
東京生まれ。
早稲田大学演劇科卒。
在学中に福田善之と合作した「富士山麓」でデビュー。
ラジオ・テレビドラマ作家として活動。
1965年から劇団三十人会で劇作・演出をおこなう。
1973年からフリーで、前進座、文化座、青年劇場などに戯曲を提供、一方では、児童青少年演劇・音楽劇などの脚本・演出も手がける。
児童青少年演劇(劇団えるむ)、音楽劇(歌座)、現代演劇(俳優館)の専任演出家。
1992年、「しのだづま考」で文化庁芸術祭賞受賞。
日本演出家協会元理事長、日本劇団協議会常務理事、日本芸能実演家団体協議会理事、日本劇作家協会理事。
実父は横浜事件で検挙された中央公論元編集長の藤田親昌。

永山 久夫(ながやま ひさお))


セルの丸メガネをかけた永山氏
(撮影:原ヒデトシ)


メタルの丸メガネをかけた永山氏

1934年、福島県生まれ。
食文化史研究家。
食文化研究所、綜合長寿食研究所所長。
西武文理大学講師。
古代から明治時代までの食事復元研究の第一人者。
長寿食や健脳食の研究者でもあり、長寿村の食生活を長年にわたり調査している。
(永山久夫オフィシャルホームページより抜粋)
新聞の連載、テレビ、ラジオにレギュラー出演、また、愉快な語り口で古代食や長寿食、情報化時代の頭脳食などをテーマに講演もこなす。
著書に『永山豆腐店-豆腐をどーぞ』『100歳食入門』『みそ和食』ほか多数

大江 健三郎(おおえ けんざぶろう)

1935年1月31日 - 2023年3月3日
日本の小説家。
愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。
映画監督伊丹十三は義兄にあたる。
1994年にノーベル文学賞を受賞。

中村 錦平(なかむら きんぺい)

1935年金沢生まれ。
東京焼窯元。
多摩美術大学名誉教授。
国際陶芸アカデミー(スイス)会員。
金沢美大・彫塑科中退、銀座割烹〈中嶋〉にて料理と魯山人の器を実学。
ロックフェラー財団フェローで滞欧米1年。
スクリップス大、コロンビア大・客員研究員。
CraftHorizon 誌(米)特別編集委員。
Gマーク選定委員。八木一夫賞・現代陶芸展審査員。朝日現代クラフト展審査員。
仏政府招聘、国立セーブル製陶所で制作。
EUROPEAN CERAMIC WORK CENTER(オランダ) で制作、韓国国際陶芸審査員、妻有アートトリエンナーレ陶芸専門委員などを経て現在にいたる。
東京焼・中村錦平展で第44回芸術選奨・文部大臣賞受賞

吉田 重信(よしだ しげのぶ)

略歴 (1936年4月24日-)
外務省に入省し、台湾大学歴史研究所・コロンビア大学・東アジア研究所に留学。
駐台北日本大使館書記官、総合研究開発機構(NIRA)、駐上海総領事、駐バンクーバー総領事などを歴任し、東京都知事選に立候補する。

司 修(つかさ おさむ)

1936年6月25日 -
群馬県前橋市出身の小説家、画家、装丁家、エッセイスト。
法政大学名誉教授。 油彩・石版・エッチング・コラージュと多彩な技法を用いた挿絵、装丁で有名であり、中上健次・大江健三郎・宮澤賢治作品の装画・装丁を数多く手がけた。
絵本の分野でも活躍。
また近年では、小説・エッセイなどの作家活動も行っている。
「司修の世界」展(1986年、池田20世紀美術館)など個展多数。
1976年『金子光晴全集』の装丁で講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。
1978年『はなのゆびわ』で小学館絵画賞受賞。
小説では、1993年「犬」(『影について』に収録)で川端康成文学賞、2007年『ブロンズの地中海』(集英社)で毎日芸術賞を受賞。

中谷 吉隆(なかたに よしたか)

写真は「信濃紀行 第6回全国フォト×俳句選手権」からお借りしました。

1937年 生まれ。
広島市出身。
1957年. 東京写真短期大学(現東京工芸大学)写真技術科卒業。
東京新聞社出版写真部を経て1960年フリーランスとなり現在に至る。
ルポルタージュ、人物、風景、スポーツ、歴史写真など幅広い分野で各雑誌、カメラ誌、図書出版物、印刷物等に数多く発表。
(Pro Photo Gallery "Ambition"参照)

田村 セツコ(たむら せつこ)

1938年2月4日 -
日本のイラストレーター、エッセイスト。
1950年代後半よりイラストレーターとして仕事を始め、1960年代には「りぼん」「なかよし」などで少女向けのおしゃれページを多数手がける。
1970年代にはキャラクターグッズが人気を博し、また、『若草物語』や『赤毛のアン』などの名作物語のイラストも手がける。
サンリオ発行の「いちご新聞」の連載エッセイは創刊の1975年から現在も続いている。

鋤田 正義(すきた まさよし)

1938年5月5日 -
日本の写真家、スチールカメラマン、撮影技師。
福岡県直方市出身。
日本写真映像専門学校卒業後、大広、デルタモンドで広告分野における実績を築き1970年にフリーとなる。
デビット・ボウイを40年間撮り続ける写真家、としても有名で、国内外で写真展を開催。
撮影したアーティストとは厚い信頼関係を結ぶことも多く、開催された写真展では著名なアーティストがプライベートで足を運んでいることも話題となっている。

菊池 武夫(きくち たけお)

1939年5月25日 -
東京都出身のファッションデザイナー。
ファッションブランドTAKEOKIKUCHI創設者・初代デザイナーとして知られる。
クールビズ推進協議会共同代表。
1970年に、レディースウェアを手がける株式会社ビギを設立。
劇団四季の舞台、「お気に召すまま」などの舞台衣装をプロデュース。
後にメンズウェアも手掛けるようになり萩原健一主演の伝説的ドラマ「傷だらけの天使」の衣装を担当。爆発的なブームとなる。
また、1973年公開のハリウッド映画燃えよドラゴンではブルース・リーがビギメンズの3Pスーツを着用している。
メンズウェアの大成功により、1975年株式会社メンズビギを設立。
DCブームの火付け役となる。
1978年にはメンズウェアとしては日本人で初めてパリに進出。
その後「ビギ」を離れワールドへ移籍、「TAKEO KIKUCHI」などのブランドを立ち上げ、2004年に一旦後任に引き継いだが、2012年の秋冬シーズンから、クリエイティブディレクターに再び就任した。

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