~丸メガネの情報が満載!~

丸メガネの情報が満載!

海外編(生年順)

政治家


ジョージ・ワシントン


Article from American Optical 1918 Publication,
courtesy of the Optical Heritage Museum


George Washington
1732年2月22日-1799年12月14日
アメリカ合衆国の初代大統領。

アメリカ独立戦争(1776-1783)の終結直前、ひどい待遇に不満を募らせた士官たちが暴挙に出ようとした。
それを知った総司令官のジョージ・ワシントンは士官たちの前で愛情溢れる真摯な説得に努めた。
説得の途中、ふと声を止めたワシントンは、ポケットから銀製フレームの丸眼鏡を取り出しつつ士官たちに穏やかな声で問うた。

「諸君、眼鏡をかけてもよいだろうか。わが国に奉仕しようにも、白髪になってしまっただけではなく、目もほとんど見えなくなってしまったのだから」

この言葉に心打たれた士官たちは蹶起を諦めて総司令官に服従することを誓った。
かくして銀製フレームの丸眼鏡は、軍部によるクーデターという不名誉な歴史からアメリカを救った。

参考文献:西川秀和『アメリカ人の物語3 革命の剣ジョージ・ワシントン(下)』(悠書館)
著者の西川秀和氏は、本会オリジナルフレームのNAGONブラッシュシルバーのご愛好者でもあります。

カミッロ・ベンソ・コンテ・ディ・カヴール

1810年8月10日 - 1861年6月6日
イタリアの政治家。
イタリア王国首相(閣僚評議会議長・初代)、外務大臣(初代)、サルデーニャ王国首相を歴任。
ジュゼッペ・ガリバルディ、ジュゼッペ・マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」と称される。
1861年、マラリアにより死亡。
その生涯はイタリア統一のために捧げられ、内に共和派の突き上げ、外に大国(オーストリア・フランス)の干渉という難題を抱えながら、卓越した政治力を駆使して統一を成し遂げた功績から後世「神がイタリア統一のため地上に使わした男」と呼ばれるようになった。

エドゥアルト・ベルンシュタイン

Eduard Bernstein, 1850年1月6日 - 1932年12月18日
ドイツの社会民主主義理論家・政治家。
ベルリンでユダヤ系の家庭に生まれる。
ドイツ社会民主党(SPD)党員。
社会民主主義、修正主義の理論的創始者。

トマス・ウッドロウ・ウィルソン

1856年12月28日 - 1924年2月3日
第28代アメリカ合衆国大統領。
政治学者であり、アンドルー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を勤めた2人目の民主党員。
第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、ウィルソンは有名な“十四か条の平和原則”を発表し、その中で彼は国際平和機構の設立を提唱。
国際連盟として実現したが、アメリカ自身は議会の反対で加盟できなかった。
第一次世界大戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日ヴェルサイユへ出発。6か月に渡るパリ講和会議の結果として締結されたヴェルサイユ条約に合衆国代表として調印した。
この会議で締結された国際連盟規約委員会では議長を務めた。
このとき日本全権である牧野伸顕は、連盟規約に人種的差別撤廃を入れるように提案した。(人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。)
それまで、全ての議題は多数決で採決されていたため、賛成多数により可決かと思われたが、議長であったウィルソンが、突如「重要な議題については全会一致が必要である」として、日本の提案を退けた事で知られている。

セオドア・ルーズベルト

1858年10月27日 - 1919年1月6日
アメリカ合衆国の第26代大統領。
第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。愛称はテディ。
1905年に日露戦争で日本・ロシア間の調停をつとめ、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。
この和平交渉の斡旋によって1906年ノーベル平和賞を受賞した。
ポーツマス条約の斡旋に乗り出したのはハーヴァード大学時代の友人金子堅太郎の働きもあったと言われる。
また自身は日本贔屓でもあったようで、アメリカ人初の柔道茶帯取得者であり、山下義韶から週3回の練習を受けるとともに、山下が海軍兵学校で柔道を教えるよう尽力した。
また、忠臣蔵の英語訳本を愛読していたとの逸話がある。
ただ、日露戦争後は、次第に極東で台頭する日本に対しては警戒心を感じるようになり、やがて贔屓も薄れ、事務的かつ冷淡な場面も散見された。
いわゆる排日移民法の端緒も彼の時代である。
1904年にボクシングで左目を打たれ、1908年には失明していた。
それを知っていたのはごく親しい友人のみである。

【眼鏡に関する逸話】
1912年の大統領選挙で演説している最中にルーズベルトは銃撃されているが、胸元に入れていた演説原稿と鋼鉄製の眼鏡ケース(丸メガネを入れていたわけです)のお蔭で一命をとりとめた。
1912年の大統領選挙は元大統領のルーズベルト(もともと共和党だったが新政党を立ち上げて立候補)と現職大統領のタフト(共和党)、そして、ウィルソン(民主党)が出馬した混迷を極めた選挙だった。結果はウィルソンが共和党の分裂で漁夫の利を得て勝利した。
もしルーズベルトが眼鏡をかけておらずケースを胸元に入れていなければ命を落としてしまって1912年の大統領選挙でウィルソンは勝利できず、その後の世界大戦の趨勢も変わったかもしれない。

ガンジー

1869年-1948年
インドのグジャラート出身、マハトマ・ガンジーとして知られるインド独立の父、宗教家、政治指導者。

チャーチル

1874年11月30日 - 1965年1月24日
イギリスの政治家。
1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導いた。
文才とユーモアとウィットのセンスにとみ、ノーベル文学賞も受賞している。
第二次世界大戦を描いた一連の大作は有名。

金 九

日本語読み:きん きゅう、朝鮮語読み:キム・グ
1876年8月29日 - 1949年6月26日
朝鮮の民族主義者、韓国の政治家、韓国独立党党首、右翼運動家である。
本貫は、安東金氏。洗礼名ペトロを持つカトリック教徒でもある。
大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、首相代理、国務領(首相)などを務めた。
1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席であったが、李承晩と対立して、1949年6月26日に暗殺された。

ホレイス・グリーリ・ヒャルマー(ヤルマル)・シャハト

1877年1月22日 - 1970年6月3日
ドイツ・ヴァイマル共和政、ナチス・ドイツ期に活躍した財政家、政治家。
ドイツ国立銀行総裁。
ドイツ経済大臣(在任:1935年 - 1937年)。
ナチス初期の経済政策は、ほとんどシャハトの発案といわれる。
1935年5月には戦争経済準備のための全権委員に指名されるが、インフレを招く懸念があり、侮られぬ程度の軍は持つべきだが、攻めるための軍は不要という本人の思想に基づいて軍備拡張に反対してヘルマン・ゲーリングと対立、1937年11月に経済相と全権委員を解任され、さらに1939年1月にドイツ国立銀行総裁からも解任された。
終戦後、1948年9月までの服役を経て、後デュッセルドルフ銀行でインドネシアやエジプトなど発展途上国の経済・財政に関するアドバイザーとして活動した。
1970年に、自宅での転倒事故が原因の塞栓症で死去した。

トロツキー

1879年-1940年
ロシアの革命家
学生時代から革命運動に参加。
1898年逮捕。1900年シベリア流刑。海外逃亡。
1917年 帰国し共産党に入党。
軍事革命委員会を指導。
政権樹立後は、外相などで活躍。
しかし、スターリンの”一国社会主義”を批判して”永久革命論”を唱え党を除名さる。
1929年国外追放。1940亡命先のメキシコで暗殺される。

孔 祥熙(こう しょうき

1880年9月11日 - 1967年8月16日
中華民国の財政家。
南京国民政府時期に財政部長、行政院長を務めた。
字は庸之、号は子淵。妻は宋靄齢。
宋靄齢を通じて宋子文や蒋介石とは姻戚関係にあり、陳果夫を含めた4人は四大家族と呼ばれた。
長期にわたって国民政府の財政部門を担当したが、宋家と結託していわゆる孔宋集団を形成し、腐敗政権や民衆の財産を集め私腹を肥やす者たちの象徴と言われた。
国共内戦の末期には、中国国民党や孔宋家の一族に対して「刮民党」(刮は、略奪する、巻き上げるの意味)と呼ぶことが流行した。

ハリー・S・トルーマン

1884年5月8日 - 1972年12月26日
アメリカ合衆国の第34代副大統領および第33代大統領。
ルーズベルト大統領の死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格。
彼が日本への原子爆弾投下を指示した。
この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。
アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(一九六三年の回想録)と何度も激しく抗議していた。
トルーマンが原爆投下を決定した背景として、アメリカ軍の損失を最小限に止めること、実戦での評価、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとする一方、「潰れた洋品店の親父」の様な風貌などという酷評にさらされた自らを男らしい決断力のある存在として誇示する考えと、人種的偏見があったとする説もある。

アントン・ドレクスラー

Anton Drexler, 1884年6月13日‐1942年2月24日
ドイツの労働者、政治家。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の前身となるドイツ労働者党の共同設立者として知られる。

許 憲(ホ・ホン、きょ けん)

1885年 – 1951年8月
朝鮮の政治家、弁護士、独立運動家。
朝鮮王朝時代の咸鏡北道明川郡に生まれる。
普成専門学校を経て、日本の明治大学法学部を卒業し、1907年には大韓帝国の弁護士試験に合格した。
1919年の三・一独立運動では、抗日派の代表的な弁護士として活躍した。
その後は、朝鮮共産党の創党に参加した。
1945年9月4日に、朝鮮建国準備委員会全体会議で副委員長に選任され、9月7日には朝鮮人民共和国の国務総理に就任した。
1947年8月11日に、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は南朝鮮労働党の党首である許憲に対する逮捕令を取り下げながらも、韓国における共産主義活動を不法であると宣言した。
1948年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国されると最高人民会議の議長となった。

ラス・ビハリー・ボース

Rash Behari Bose 、1886年3月15日 - 1945年1月21日
インド独立運動家。
当時イギリスの植民地であったインドでは過激派として指名手配され、日本に逃れてインド独立運動を続けた。
スバス・チャンドラ・ボースと区別するため、「中村屋のボース」とも呼ばれる(新宿中村屋の相馬家の婿であり、取締役もつとめた)。
日本に本格的なインドカレーを伝えた人物としても有名である。
詳しくは下記のサイトをご参照されたい。 https://nakamuraya.jp/cms/preview.php?pre_no=4

ジョセフ・パトリック・ケネディ

“ジョー”ケネディ,1888年9月6日 - 1969年11月18日
アメリカ合衆国の実業家・政治家。
「プロテスタントでなければ政治家になってはいけない」という当時のアメリカ国内の暗黙の掟を初めて破ったカトリックの政治家として、そして第35代大統領のジョン・F・ケネディと同政権下の司法長官ロバート・ケネディの父として知られる。
一方で、マフィアとの深い関係が度々取り沙汰された人物である。
1929年の世界恐慌による株価暴落を事前に察知し、持ち株の殆どの売り逃げに成功し、他の投資家たちが破産するのを尻目に莫大な利益を得、以後はそれを元手に堅実な事業に専念した。
相場から撤収する時期を知ったのは、靴磨きの少年が株の話をするのを聞いた時だと言う。

アレン・ウェルシュ・ダレス

Allen Welsh Dulles, 1893年4月23日 - 1969年1月29日
アメリカ合衆国の政府高官の1人で元CIA長官。
1953年から1961年までCIA長官を務めた。
国務長官ジョン・フォスター・ダレスの弟で、ウォーレン委員会のメンバー。
さらにユナイテッド・フルーツ社の株主。
日本とスイスの合作により映画化もされた西村京太郎原作の小説『D機関情報』(映画版のタイトルは『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』)に登場、日本海軍中佐と共に最後まで日米和平工作(終戦工作)に奔走した“ミスターD”のモデルと言われる。

ハロルド・ジョセフ・ラスキ

Harold Joseph Laski, 1893年6月30日-1950年3月24日
多元的国家論を唱えた英国の政治学者。
労働党の幹部でもあった。
マンチェスターでポーランド系ユダヤ人の家庭に生まれる。
オックスフォード大学で学ぶ。
カナダ・マギル大学、ハーヴァード大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)などで教鞭をとる。
1912年、フェビアン協会を通じて、労働党に入党。
1934年のソ連訪問後、マルクス主義に傾倒。英国では戦時中極めて評価が高く、戦後にはロンドン・スクール・オブ・エコノミクス政治科学部長を務めた。
日本では、戦後受容された。

宋 子文(そう しぶん)

1894年12月4日 - 1971年4月25日
中華民国の政治家、実業家。
宋家三姉妹として知られる宋慶齢・宋靄齢・宋美齢は、実の姉妹である(三姉妹はそれぞれ孫文、孔祥煕、蒋介石と結婚した)。

スバス・チャンドラ・ボース

1897年1月23日 - 1945年8月18日
インドの急進的独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。
ベンガル人。ネタージ(指導者)の敬称で呼ばれる。
穏健派のガンジーと対立し、国民会議派に入り急進派(左派)として活躍。
日本の支援により日本統治下のシンガポールで「自由インド仮政府首班」に就任。
「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、1944年日本軍とともにインパール作戦に参加した。
しかし、日本の敗戦により、日本と協力してインド独立を勝ち取ることが不可能となった。
ボースは東西冷戦を予想し、イギリスに対抗するためソ連と協力しようとしたが、ソ連へ向かおうとした時、台湾で飛行機事故にあい死去した。
ボースの遺骨は東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺で眠っている。

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー

Heinrich Luitpold Himmler、1900年10月7日 - 1945年5月23日
ドイツの政治家。
1929年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の準軍事組織である親衛隊(SS)の第3代親衛隊全国指導者(RFSS)に就任し、党内警察業務を司った。
ナチ党の政権掌握後には全ドイツ警察長官、ヒトラー内閣内務大臣などを歴任し、ドイツの警察権を掌握した。
ゲシュタポや強制収容所(KZ)も彼の指揮下に置かれていた。

愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)

1906年2月7日 - 1967年10月17日
中国における清朝の第12代皇帝宣統帝(せんとうてい、1908年 - 1912年)であり、「最後の皇帝」として広く知られる。

愛新覚羅 溥傑(あいしんかくら ふけつ)

1907年4月16日-1994年2月28日
清朝最後の皇帝である宣統帝(溥儀)の弟。
清朝における地位は醇親王継嗣、満州国軍人としての階級は陸軍中校(中佐に相当)。
中華人民共和国では全人代常務委員会委員。
書家でもあり、流水の如き独特の書体は流麗で人気が高かった。
1937年に嵯峨侯爵家の令嬢で天皇家の親戚に当たる嵯峨浩と政略結婚をしたが、2人の仲は円満で、2女(慧生、嫮生)に恵まれた。
日中友好の懸け橋として両国間で活躍し、1991年には立命館大学より名誉法学博士の名誉学位を贈呈される。
1994年に北京で逝去し、遺骨は溥傑の生前からの希望によって浩・慧生(学習院大学に進学していた長女の慧生は、交際していた同級生と伊豆天城山でピストル心中した)の遺骨と共に日中双方によって分骨され、日本側の遺骨は山口県下関市の中山神社境内にある摂社愛新覚羅社に、浩・慧生の遺骨とともに納められ、中国側の遺骨は三人共に中国妙峰山上空より散骨された。

丁 一権(チョン・イルグォン)

1917年11月21日 - 1994年1月17日
大韓民国陸軍の軍人、政治家。
1917年、両親が入植していたロシア沿海州ウスリースクで生まれる。
中学校で成績優秀であったことから推薦を受け、奉天の満州国軍官学校に入学。
成績抜群につき日本の陸軍士官学校に留学し、騎兵55期卒相当。
大東亜戦争終戦時は満州国軍憲兵大尉。
終戦後、ソ連軍に逮捕されるも脱走し帰国した。
朝鮮戦争勃発時はアメリカ各地を視察中であったが、ただちに帰国し、首都陥落の責任を問われて解任された蔡秉徳の後を継ぎ1950年6月30日に大韓民国陸軍参謀総長に就任。任少将。1950年7月より3軍総司令官。大韓民国陸海空軍を総指揮した。
1957年6月、駐トルコ大使。
1959年、駐フランス大使。
1960年、駐アメリカ大使。

ラーマ9世

写真はブログ『タイ人』のソムチャイさんの『聞きタイ、知りタイ、わかりタイ』から拝借しました。

タイ語: รัชกาลที่ ๙、1927年12月5日 -2016年10月13日
チャクリー王朝第9代のタイ国王(在位:1946年6月9日 -2016年10月13日 )。
通称はプーミポンアドゥンラヤデート。
英語や日本語ではプミポン国王とも通称される。
プーミポンアドゥンラヤデートとは「大地の力・並ぶ事なき権威」という意味である。
アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジに生まれる。
学業はスイスのローザンヌ大学で修めた。
1946年6月9日に兄・ラーマ8世が怪死したため、タイ国王に即位。
一般的にタイ国民からも敬愛を受け、諸外国の政府や国民からの評価も高い。
世界で最も在位期間の長い国王であり、タイ史上においても稀にみる長い期間王位に就いた。

海外編

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