学者・文化人(生年順)
1880(明治13)年~1884(明治17)年
松縄 信太 (まつなわ しんた)
1880年(明治13年12月14日)-1966(昭和41)年7月6日
新潟県出身の機械工学者 東京帝国大学機械工学科を主席で卒業。
アメリカ留学後、早大講師を経て、1926(T15)鉄道大臣官房研究所長となり、鉄道省のメートル法実行委員長を兼ね、メートル法の普及に尽力した。
1949年東京芝浦工業大学初代学長に就任。
日本機械学会会長、溶接学会会長、日本度量衡協会会長、第2代鉄道博物館館長なども歴任。
主な著書に、『静かなる革命』、『ひとつ欠けているもの』、『現代の七不思議』、『私の予言』がある。
山川 均(やまかわ ひとし)
1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日
在野の経済学者で、社会主義者・社会運動家・思想家・評論家。
労農派マルクス主義の指導的理論家であった。
岡山県倉敷に生まれる。
同志社尋常中学部に学び、新島襄や柏木義円らから影響を受ける。
1906年(明治39年)に堺利彦らの日本社会党に入党、日刊『平民新聞』にも参加し、社会主義運動に加わった。
1908年(明治41年)には赤旗事件で入獄し、獄中で「大逆事件(幸徳事件)」の報を聞く。
1922年7月15日に日本共産党(第一次共産党)が創立(治安警察法違反のため非合法)されると、総務幹事となる。
戦後は社会党左派の理論家として活動し、1951年(昭和26年)に社会主義協会が発足した際には大内兵衛と共に代表を務めた。
山川は向坂逸郎らと共に社会主義協会において非武装中立論を説き、この理論は日本社会党に強い影響を与えた。
しかし山川の非武装中立論は、永世非武装国家を志向したものではなかった。
山川は日本が復興する間のみの非武装(復興時非武装中立論)を説いただけで、ソ連の脅威を十分に認識した上での将来的な武装を認めていた。
しかし向坂ら親ソ派はソ連・社会主義陣営に与する立場から、ソ連の脅威に目をつぶり、非武装中立論を日本が社会主義陣営に立つまでの手段であると解釈を変更した。
石原 純(いしわら あつし(じゅん))
1881年1月15日 - 1947年1月19日
日本の理論物理学者・科学啓蒙家・歌人。
1906年7月 東京帝国大学理科大学卒業。長岡半太郎に学ぶ。
東北帝国大学助教授時代にヨーロッパに留学し、アインシュタインらのもとで学ぶ。
1922年には、アインシュタインの来日講演の通訳をした。
日本に相対性理論を紹介するなど、物理学の啓蒙に大きな役割を果たした。
1931年から雑誌『科学』(岩波書店)の初代編集主任を務めた。
歌人としては、一高時代に伊藤左千夫に入門し、『アララギ』の発刊に参加。
初期の主要同人となった。
1921年、妻子を持つ身ながら歌人・原阿佐緒と恋愛事件を起こし、大学を辞職。
以後は著作活動をおこなう。
島木赤彦や斎藤茂吉の説得を受け付けず阿佐緒との同棲を続け、やがてアララギを脱会に至る。
このスキャンダルはアララギを揺るがす問題となり、二人を擁護した古泉千樫や三ヶ島葭子までもがアララギを離れることとなった。
1924年、北原白秋、前田夕暮、釈迢空らが創刊した歌誌『日光』に阿佐緒や千樫らとともに参加した。
唯一の歌集『靉日』では分かち書きや句読点を取り入れ、また海外詠の嚆矢といえる作品を発表。
『日光』以降は自由律短歌の理論的推進者となった。
森田 草平(もりた そうへい)
写真は岐阜放送公式サイト「ぎふチャン」からお借りしました。
1881年(明治14年)3月19日 - 1949年(昭和24年)12月14日
作家・翻訳家。本名森田 米松。夏目漱石の門下生の一人。
1906年(明治39年)に東京帝国大学英文科を卒業。
卒業後、岐阜に帰郷するが夏目漱石の『草枕』に感銘を受け妻子を郷里に置いて上京、漱石の元へ足繁く通う傍ら与謝野鉄幹が主宰する閨秀文学講座で講師を務める。
この講座に聴講生として通っていた平塚らいてうと関係を持ち、1908年(明治41年)に栃木県塩原で心中未遂事件を起こす。
この心中未遂の後始末として、漱石の推薦で翌年小説『煤煙』を朝日新聞に連載し、これが彼の文壇デビューとなる。
その後、野上豊一郎の紹介で1920年(大正9年)に法政大学教授となる。
しかし1934年(昭和9年)に法政大学の学内紛争から野上と対立し、関口存男(後に公職追放)らの右派の革新教授や卒業生と共謀、野上はじめ教授多数(中には漱石門下以来の友人の内田百閒もいた)を大学から追放したものの、結果翌年に自身も大学を去ることになる。
最晩年は日本共産党に入党し、話題をまいた。
松岡 映丘(まつおか えいきゅう)
1881年7月9日 - 1938年3月2日
兵庫県生まれ。大正・昭和初期にかけ活動した日本画家。本名は輝夫。
東京美術学校日本画科を首席で卒業。
1908年東京美術学校助教授に就任、長く教職にあって門下から杉山寧、橋本明治、山本岳人、高山辰雄ら多くの俊秀を育てた。
また、帝展審査員もつとめた。
大和絵の歴史や有職故実(朝廷・公家・武家の儀典礼式や年中行事など)を研究し、生涯を大和絵の復興にささげた。
代表作として、「伊香保の沼」「宇治の宮の姫君たち」「住吉詣]「道成寺」「右大臣実朝」「矢面」等がある。
ちなみに、兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。
これが世にいう「松岡五兄弟」である。
会津 八一(あいづ やいち)
1881年8月1日 - 1956年11月21日
日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人、渾斎。
1951年、新潟市名誉市民。
小杉 放庵(こすぎ ほうあん)
1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日
栃木県生まれの画家。
1905年 『近時画報』誌の従軍記者として日露戦争の戦地に派遣され、迫真の戦闘画やユーモラスな漫画絵などで雑誌の人気に大きく貢献。
美術雑誌『平旦』を石井柏亭、鹿子木孟郎らと創刊する。
1908年 この年から文展に出品し、第4回展で3等賞、第5回・6回展で続けて2等賞受賞。
1914年 日本美術院に洋画部を設立
1925年 東京大学安田講堂の壁画を手掛ける
1927年 都市対抗野球大会の優勝旗である「黒獅子旗」のデザインを手掛ける
後年、油彩から日本画にうつり、独自の水墨画を描いた。
伊藤 友作(いとう ともさく)
明治14年(1881年)~昭和39年(1964年
昭和学院創設者。
「明敏謙譲」を教育理想に掲げ、幼稚園から短期大学まで一貫教育の学園を築き上げるとともに、千葉県私学団体連合会副会長等を歴任し、私学教育の振興に尽力した。
中村 謙一(なかむら けんいち)
1882年2月 - 1943年2月26日
日本の官僚、華族。
鉄道省建設局長、鉄道会議議員、鉄道工事統制協会長、土木学会長、災害予防調査会委員、発電調査会委員等を歴任し、貴族院議員も務める。
勲三等男爵。墓地は多磨霊園。
著者に「近世橋梁学、上中巻」がある。
坂本 繁二郎(さかもと はんじろう)
1882年3月2日 - 1969年7月14日
福岡県久留米市出身の明治後期~昭和期の洋画家。
同じ久留米の出身で、生年も同じ画家の青木繁がいる。
幼少の頃から相当な絵の腕前で「神童」と持てはやされたが、久留米で母校の図画代用教員をしていた頃、東京で絵の勉強をしていた青木繁が徴兵検査のため郷里に戻ってきた折に見せられた青木の絵を見て、その画技の上達に驚いた坂本は、自らも上京して絵を学ぶことを決意。
わずか数か月後には青木とともに上京して、小山正太郎の「不同舎」に入った。
満20歳の時であった。
1921年(大正10年)渡仏。
その自然に魅了され大いに画法も進化を遂げ、本場の画家たちからも高く評価された。
1924年(大正13年)に久留米に戻ってからは、終生九州で制作を続けた。
坂本にとって無二の親友であり終生のライバルであった青木が、1911年(明治44年)、満28歳の若さで死去すると、坂本は青木の遺作展の開催や画集の刊行のために奔走した。
文学青年で浪漫派だった青木に対し、学者肌の坂本は、優れた絵画論をいくつも著している。
戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになる。
1954年(昭和29年)毎日美術賞、1956年(昭和31年)文化勲章を受章。
1969年(昭和44年)87歳で没した。墓所は八女市無量寿院。
代表作「水より上る馬」(1937)(東京国立近代美術館)
「放牧三馬」(1932) (石橋美術館)
橋田 邦彦(はしだ くにひこ)
写真はサイト「文部科学省の歴代大臣」より
明治15年(1882年)3月15日 - 昭和20年(1945年)9月14日
鳥取県出身の医学者、教育者。医学博士。号は無適。旧姓藤田。
生理学者藤田敏彦の実弟。 東京帝国大学医学科卒業。
日本で最初に「実験生理学」を提唱するなどして生理学者・医学者として多くの業績を上げた。
その名声ゆえに近衛文麿・東條英機両首相より文部大臣として招聘された。
このため、敗戦後にGHQよりA級戦犯容疑者として指名されて、東京荻窪の自邸において自決(服毒自殺)した。
生理学の多くの著作の他に、哲学をよくし、禅に通じた。
小川 未明 (おがわ みめい)
男性、1882年4月7日 - 1961年5月11日
小説家・児童文学作家。本名・小川健作。
雅号の「未明」は、正しくは「びめい」とよむ。
「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれる。
娘の岡上鈴江も児童文学者。
長篇よりもむしろ短編作品に才能を発揮した。
童話の代表作としては、「金の輪」、「赤い蝋燭と人魚」、「月夜と眼鏡」、「野薔薇」など。
寓話性、教訓性よりも、むしろ、ロマン、詩情、ヒューマニズムなどを表現した作品が多く、子供だけでなく、大人の鑑賞にも十分に堪えうる内容をもっている。
五島 慶太(ごとう けいた)
1882年(明治15年)4月18日 - 1959年(昭和34年)8月14日
日本の実業家。
東京急行電鉄(東急)の事実上の創業者。正三位勲一等。旧姓は小林。
東京帝国大学卒業後、官僚を9年勤めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任。
実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道や玉川電気鉄道をはじめとする数々の競合企業を乗っ取る形で次々と買収。
その強引な手口から「強盗慶太」の異名をとった。
ただし、鉄道事業では優れた経営を行い、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と賞された。
五島は阪急の小林の手法にならい、沿線に娯楽施設やデパートを作り東横沿線の付加価値を高めたが、それだけでなく、次々に大学等の学校を誘致することにも成功し、東横沿線は学園都市として付加価値が高まっていくことになる。
それと同時に、多くの通学客という安定的な乗客を獲得した。
ライバルとして知られる西武鉄道の堤康次郎同様、美術品のコレクターとして知られ、コレクションの公開のため、死の翌年に五島美術館が創立された。
金田一 京助(きんだいち きょうすけ)
1882年5月5日 - 1971年11月14日
言語学者、民俗学者。
アイヌ語研究においては、第一人者で、現代アイヌ語研究の基礎を作り上げ、アイヌ民族の叙事詩「ユーカラ」を世に広めた。
1954年文化勲章受賞。
岩手県盛岡市四ツ家町(現本町通二丁目)出身。
歌人、石川啄木の盛岡中学時代の先輩で親友。
啄木に金をよく貸したことでも有名。
郷土盛岡の風土と自然をこよなく愛した人として知られ、数多くの随筆や短歌で盛岡の自然と人情について語り、1959年には盛岡の名誉市民第一号となった。
斎藤 茂吉(さいとう もきち)
1882年5月14日(戸籍では7月27日) - 1953年2月25日
山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)出身の歌人、精神科医。
伊藤左千夫門下。アララギ派の中心人物。
長男は故・斎藤茂太。次男は北杜夫。斎藤由香は孫。
小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無かったため、親戚の、浅草の医師・斎藤紀一の家に養子に入る。
中学時代から和歌の創作を開始する。
高校時代に、正岡子規の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りする。
生涯に全17冊の歌集を発表し、全17907首の歌を詠んだ。
羽田 亨(はねだ とおる)
1882年(明治15年)5月15日 - 1955年(昭和30年)4月13日
東洋史学者。
京都大学名誉教授。文化勲章受章者。 文学博士(京都帝国大学、1922年)。
京都府峰山町(現・京丹後市)生まれ。
内藤湖南・桑原隲藏らと共に京大東洋史学の黄金期を築き、「塞外史」の「西域史」の研究においてユーラシア大陸各地の遺文を解明するなど、日本の西域史学の確立に貢献した。
内藤・桑原の亡き後は、宮崎市定や田村實造らを率い、世界的な東洋史研究の拠点としての京大の立場を確固たるものとした。
1938年には、同じ文学部教授であった濱田耕作京都帝国大学総長の急逝に伴い後任総長に任ぜられ、厳しい時局の中で人文科学研究所・結核研究所・木材研究所などの設立に尽力した。
また、広い学識と知見を持った羽田の弁舌は、しばしば他大学の総長を圧倒した。
その弁舌をもって、1943年には大学院学生の特別研究制度を実現させた。
京大農学部グラウンドで行われた学徒出陣式の際には「諸君、行き給え。そして帰り給え。大学は門を開いて諸君を待っている」という訓示を行い、多くの学生が涙したと言われる。
なお京都帝国大学・京都大学では、羽田を最後に文学部から総長に選ばれた者はいない。
息子の羽田明も東洋史学者(中央アジア史)、孫の羽田亨一は西アジア史(イラン史)研究者(東京外国語大学名誉教授)、同じく孫の羽田正はイスラーム史学者(東大教授)である。
主著の一つである『西域文明史概論・西域文化史』は、1992年平凡社東洋文庫から復刊された。
大倉 喜七郎(おおくら きしちろう)
1882年6月16日 - 1963年2月2日
男爵で大倉財閥2代目総帥。
父喜八郎の事業を引き継いで財閥の発展につとめ、戦後の公職追放、財閥解体などの難局に直面しながらも、特にホテルオークラ、川奈ホテルをはじめとする、日本のホテル業に大きな足跡を残した。
文化事業にも功績があり、とくに日本近代絵画を擁護し、横山大観をはじめとする画家たちの活動を支援するとともに、海外に紹介。最初のイギリスでのカーレースで2位になるなど日本屈指の趣味人でもあり、幅広い分野で多彩な才芸を発揮した。
尺八にも夢中になり、フルートと尺八を合体させた新楽器オークラウロを開発。
1924年の日本棋院設立時に経済面で多大な援助をおこない、1961年には大倉喜七郎賞が創設され、2006年には日本棋院囲碁殿堂入りした。
1931年に私財を投じて建設した大倉山ジャンプ競技場は、1972年札幌オリンピック90m級ジャンプの会場として使用された。
気さくで気前がよく、派手好みなハイカラ男爵だったため、周囲からは「バロン・オークラ」と呼ばれて親しまれていた。
青木 繁(あおき しげる)
1882年7月13日 - 1911年3月25日
福岡県久留米市出身の洋画家。
『海の幸』の作者として知られる繁は、近代日本美術史の上でもっとも著名な洋画家の一人である。
若くして日本美術史上に残る有名作を次々と描き上げた後、放浪生活に入り、満28歳の若さで没した繁の生涯は半ば伝説化している。
短命だったこともあって残された作品の数は決して多くはなく、代表作『海の幸』を含め多かれ少なかれ未完成の作品が多い。
しかし、日本の古代神話などをモチーフにした浪漫的色彩の濃い画風は西洋美術の物まねではない独自のものとして高く評価されている。
同じ久留米生まれの洋画家・坂本繁二郎とは同年で小学校の同級生でもあり、終生の親友でありライバルであった。
繁の死後、坂本は遺作展の開催や画集の発行に奔走。
また、1948年(昭和23年)には繁の遺言にしたがい、筑紫平野を見渡す久留米市兜山(通称「けしけし山」)に繁の歌碑が建立された。
除幕式には坂本のほか、元恋人のたね(当時・野尻姓)、繁の遺児・蘭堂(尺八奏者)も出席した。
ハナ肇とクレイジーキャッツの元メンバーで料理研究家の石橋エータローは蘭堂の息子、つまり繁の孫である。
内藤 伸(ないとう しん)
1882年10月1日 - 1967年8月21日
彫刻家・日本芸術院会員。 1882年、島根県吉田村に生まれる。
上京して高村光雲に師事、1904年、東京美術学校選科卒。
1921年、帝展審査委員、1927年、帝国美術院会員、1929年、日本木彫会を設立し主宰する。
1965年、勲三等瑞宝章受章。
1967年8月21日、贈従四位。
野村 胡堂(のむら こどう)
1882年10月15日 - 1963年4月14日)は、日本の小説家・作家・音楽評論家。
岩手県出身。
盛岡中学校の同窓生には、生涯付き合いが続く金田一京助、また、下級生に石川啄木が在籍しており、胡堂は啄木に俳句・短歌の手ほどきをしたと言われている。
『銭形平次捕物控』の作者として知られるが、投げ銭をする銭形平次は、小学校時代に熱心に読んだ「水滸伝」の登場人物で投石を得意とした没羽箭張清からヒントを得たという。
「あらえびす」の筆名でレコード評論等も執筆。
死の直前、私財のソニー株約1億円を基金に財団法人野村学芸財団を設立。
同財団は、経済面で学業継続が困難に学生等への奨学金の交付を目的のひとつとしており、これは学資の問題で学業を断念した胡堂の経験が背景になっている。
藤井 浩佑(藤井 浩祐、ふじい こうゆう)
写真は「現代美術家名鑑-昭和29年版」より
1882年11月29日 - 1958年7月15日
彫刻家、日本芸術院会員。東京生まれ。初名は浩祐。
不同舎を経て1907年東京美術学校彫刻科卒、第一回文展に出品、以後出品を続ける。
1911年文展出品「鏡の前」から三等賞を四度受賞。
1916年日本美術院同人、以後院展に出品、1936年文展審査員となり、院展を退き帝国美術院会員、1937年帝国芸術院会員、1950年日展運営会理事、1953年より浩佑と称する。
種田 山頭火(たねだ さんとうか)
1882年12月3日(明治15年) - 1940年10月11日(昭和15年)
明治・大正・昭和初期にかけての俳人。
自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。
曹洞宗の僧侶。本名・種田正一。
江崎 利一(えざき りいち)
1882年12月23日 - 1980年2月2日
佐賀県出身の実業家。江崎グリコの創業者。現社長・江崎勝久の祖父。
佐賀県神埼郡蓮池村(現佐賀県佐賀市蓮池町)に薬種業・清七、タツの長男として生まれる。
1897年小学校高等科卒業。
家業である薬種業を引き継いだ。
カキに含まれるグリコーゲンで企業化を思いつき、江崎グリコの前身・江崎を創立した。
鳥居 信平(とりい のぶへい)
1883年1月4日生まれ
静岡県袋井市出身。
日本統治時代の台湾の最南端に位置する屏東県に独創的な地下ダムを作った日本人技師。
画期的な灌漑設備(風景や生態系を壊さず環境に配慮した工法)で、現在も地域住民に恩恵を与えている事などから、台湾の専門家たちも注目している。
また、屏東県の中学校では、副教材中でも取り上げられ、今でも屏東の人々から慕われ尊敬されている、八田與一の先輩に当たる日本人技師。
中野 治房(なかの はるふさ)
「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より
1883-1973
大正-昭和時代の植物学者。 明治16年1月10日生まれ。
第七高等学校,鹿児島高農の教授をへて、昭和9年東京帝大の教授。
湖沼植物の生理・生態の研究で知られる。
昭和48年5月25日死去。90歳。千葉県出身。東京帝大卒。
著作に「植物生理及生態学実験法」「草原の研究」など。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 出典:講談社
朝倉 文夫(あさくら ふみお)
写真は「広報たいとう平成22年(2010)12月5日(No1026)号」より
1883年(明治16年)3月1日 - 1964年(昭和39年)4月18日
大分県出身の明治から昭和の彫刻家(彫塑家)。
号は紅塐(こうそ)と称し、「東洋のロダン」とも称された。
娘は舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)と、彫刻家の朝倉響子。
東京で彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄を頼って上京し、彫塑に魅せられ東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻選科に入学。
当時海軍省が募集していた三海将の銅像に「仁礼景範中将像」で応募し1等を射止め注目されることとなる。
その後、アトリエ、朝倉塾をつくり師弟の養成、第2回文展に『闇』を出展し、最高賞である2等、翌年も「山から来た男」で3等、第8回文展まで連続上位入賞を果たし、第10回文展においては34歳の若さで最年少審査員に抜擢されるほどであった。
1921年(大正10年)に東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮であった。
1934年(昭和9年)にアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」を作る(後の朝倉彫塑館)が、戦時中の金属供出のために400点余の文夫の作品はほとんど消滅してしまった。(原型は300点余が残された)。
戦後も精力的に自然主義的写実描写に徹した精緻な表現姿勢を一貫して保ち続け、1948年(昭和23年)には第6回文化勲章を受章。
1949年(昭和24年)、日展運営会常務理事。
1952年(昭和27年)に文化功労者に、1954年(昭和29年)、日展理事、1956年(昭和31年)から1959年(昭和34年)まで日本芸術院第一部長。
1958年(昭和33年)には日展の顧問に就任した。
非常に多作であり、全国各地に数多くの像を残した。
和田 三造(わだ さんぞう)
1883年3月3日 - 1967年8月22日
大正~昭和期に活躍した洋画家。
16歳の時、画家を志して上京。
黒田清輝に師事し、東京美術学校(現東京芸大)に進んだ。
明治40年の第一回文展では『南風』が二等賞(最高賞)に選ばれた。
小船の上に立つたくましい男のモデルは、和田が通っていた柔道場「明道館」2代目館長の河野半次郎といわれる。
色彩研究にも尽力し、1945年日本色彩研究所を設立。
1955年には映画『地獄門』の色彩デザインをし、アカデミー衣装デザイン賞を受賞。
晩年は油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍。
1958年文化功労者となった。
高村 光太郎(たかむら こうたろう)
1883年3月13日 - 1956年4月2日
芸術家詩人。東京都出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。
彫刻、絵画、詩等多方面で活躍。
『智恵子抄』等の詩集が有名になり教科書にも掲載されるようになったため詩人として認識されることも多い。
北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん/きたおおじ ろざんじん)
1883年3月23日 - 1959年12月21日
芸術家。本名は房次郎。
篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など様々な顔を持っていた。
川瀬 巴水(かわせ はすい)
1883年5月18日 - 1957年11月7日
大正・昭和期の版画家。
幼少の頃より絵に関心を寄せて油彩画や日本画を学び、27歳で鏑木清方に師事。
その後、同門の伊東深水の影響を受けて版画への関心を深めると、大正7(1918)年に処女作となる塩原3部作を発表。
巴水は、"新版画運動"の一員として、処女作以来、約40年にわたり、風景版画を生み出し、日本各地の取材にもとづき、四季折々の風景を描き続けた。
衰退した日本の浮世絵版画を復興すべく吉田博らとともに新しい浮世絵版画である新版画を確立した人物として知られる。
アメリカの鑑定家ロバート・ミューラーの紹介によって欧米で広く知られるところとなった。
鳴海 要吉(なるみ ようきち)
1883年(明治16年)7月9日-1959年(昭和34年)12月17日
青森県黒石市出身の口語短歌の先駆者として知られる。
島崎藤村の詩文に心酔して詩作を始めた。
上京と帰郷を繰り返し、教員生活の傍ら、たくさんの口語短歌を作り、1909(明治42)年には口語での詠歌を「東奥日報」に発表。
また、ローマ字やエスペラント語の普及にも努めた。
昭和32年11月には黒岩市御幸公園の蝦館には要吉歌碑が建立され、
「諦めの旅ではあった/磯の先の/白い燈台に/日が映して居た」
の歌が刻まれた。
中山 悦治(なかやま えつじ)
明治16(1883)年7月15日-昭和26(1951)年12月25日福岡県出身の実業家。
大正8年亜鉛鍍金(めっき)工場を設立し、12年中山悦治商店を創立、社長となる。
薄板鉄板製造もはじめ、昭和9年中山製鋼所と改称。
14年独力で溶鉱炉を建設し、銑鋼一貫体制をきずいた。
前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ)
1883年7月27日 - 1951年4月20日
明治から昭和期にかけての歌人。
神奈川県大住郡南矢名村(現・秦野市)生まれ。
1902年、東北地方を徒歩で旅行。
この頃より「夕暮」の号を名乗り、文学に目覚め投稿を開始。
1904年、上京し尾上柴舟に師事、同時期に若山牧水も入門し、以後、交友が続いた。
1906年、白日社を創立。
この年、洗礼を受けクリスチャンとなる。
1911年、雑誌『詩歌』を白日社より創刊。
1916年、第4歌集『深林』を刊行した際に、島木赤彦が『アララギ』にて夕暮を批判、赤彦と激しく対立した。
1918年、『詩歌』休刊。
1923年、東海道線小田原付近で北原白秋と再会し、そのまま2人で三浦半島へ吟行の旅に出、以後、白秋との交友が続いた。
1928年、『詩歌』復刊、口語自由律短歌を提唱。
1942年、定型歌に復帰。
1948年、亡き友人・白秋を偲び『白秋追憶』を刊行。
この頃より斎藤茂吉との交友が始まる。
享年69。多磨霊園に葬られる。
中井 金三(なかい きんぞう)
1883(明治16年8月21日)-1969(昭和44年2月9日)
鳥取県出身。大正-昭和時代の教育者、画家。
東京美術学校(現東京芸大)卒で、黒田清輝の指導を受け、同級生には藤田嗣治、岡本一平(岡本太郎の父)などが居た。
大正2年帰郷して鳥取県倉吉中学の図画教師となり、前田寛治ら多くの美術家をそだてる。
9年砂丘社を結成して12年「砂丘」を発行、地域の文化、芸術の振興につとめた。
金三の画題にはバラの花が多く取り上げられている。
阿部 次郎(あべ じろう)
1883年8月27日 - 1959年10月20日
哲学者、美学者、作家
1914年に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名で、学生必読の書であった。
1917年に一高の同級生であった岩波茂雄が雑誌「思潮」(現在の「思想」)を創刊。その主幹となる。
慶應義塾大学、日本女子大学の講師を経て、1922年文部省在外研究員としてのヨーロッパ留学。
同年に『人格主義』を発表。
真・善・美を豊かに自由に追及する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く。
橋本 関雪(はしもと かんせつ)
1883年11月10日 - 1945年2月26日
日本画家。神戸市生まれ。 播磨明石藩の漢学者・橋本海関の子。本名は関一。
父から漢学を学び、1903年、竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り、1913年、文展で二等賞、翌年も同じ。
1916年と翌年、特選を受賞。帝展審査員を務め、1934年、帝室技芸員、1935年、帝国美術院会員、1937年、帝国芸術院会員、1940年、建仁寺襖絵を製作。
支那古典に精通したことでも知られ、たびたび支那へ渡った。
京都の白沙村荘に住み、白沙村人と別号した。谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』の颯子のモデルとされる渡邊千萬子は、関雪の孫に当たる(娘高折妙子の娘)。
高田 保馬(たかた やすま)
1883年(明治16年)12月27日 - 1972年(昭和47年)2月2日
日本の経済学者、社会学者。文学博士。歌人。文化功労者。
京都大学名誉教授。大阪大学名誉教授。
「総合社会学」を否定し、独自の視点からジンメルの掲げた「形式社会学」の彫琢に努める。
経済学者としては京都帝国大学経済学部で経済原論の講義を担当し、経済哲学担当教授の石川興二が憂国のあまり陸軍批判をしたことが原因で休職するとその後を引き継いで経済哲学の講義を担当した。
この時高田から経済原論と経済哲学の講義を聴いたのが後に大阪大学やロンドン大学の教授を歴任した森嶋通夫である。
アメリカの経済学者であるM・ブロンフェンブレンナアーは高田を「日本のアルフレッド・マーシャル」と称し、功績を讃えている。
青木 健作(あおき けんさく)
本名、井本健作(1883~1964))
山口県出身。東京大学卒業。
「真実なる人生と文芸の対境」で、“都会者”的文学に対し、“田舎者”的文学を提唱する文章を発表。
のち、鈴木三重吉・夏目漱石らに出会い、「虻」「お絹」等の山口県を舞台にした作品を発表し独自な作風を確立した。
主な著作に『お絹 虻』、『青木健作短編集』、『明治文学全集』がある。
平田 華蔵(ひらた けぞう)
明治16年(1883年)~昭和43年(1968年)
平田学園創設者。
仏教による女子教育を志し、大正15年に国府台高等女学院を創設。
37年間の長きにわたり校長の職を務め、「敬虔、勤労、高雅」を校訓とした教育を実践した。
千葉県私学団体連合会初代会長等を歴任し、私学教育の振興に尽力した。
(けぞうは常用漢字を使用しています。)
芝川 又四郎(しばかわ またしろう)
明治16年(1883年)生まれ
大阪市の中心部に、当時(昭和2年)では珍しい鉄筋コンクリートの芝川ビル(国登録の有形文化財として現存)を建てた芝川又四郎は、明治16(1883)年に大阪・伏見町で、資産家の芝川又右衛門の次男として誕生した。
芝川家は又四郎の曽祖父にあたる芝川新助が唐物商(欧米品の輸入業)を興し、商売は大いに盛んだった。
又四郎は、家産を増やすために全国各地の土地を購入したほか、建築にも興味を持ち、家督を継いだ大正12(1923)年の前後には、満州、青島、上海、アメリカを旅行し、建築と土地の視察を行った。
なお、ニッカウイスキーを興したマッサンこと竹鶴政孝が大阪の帝塚山にリタ夫人とともに住んでいた洋館の大家が、又四郎であった。
山村 暮鳥(やまむら ぼちょう)
1884年1月10日 - 1924年12月8日
明治・大正期の詩人、児童文学者。群馬県出身。
東京都築地の聖三一神学校を卒業後はキリスト教日本聖公会の伝道師として秋田、仙台、水戸などで布教活動に携わる。
神学校在学中より詩や短歌の創作をはじめ、1909年、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらう。
1913年7月、萩原朔太郎、室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立。
1914年3月、同社の機関誌「卓上噴水」創刊。1913年12月、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成。
機関誌「風景」には萩原朔太郎、室生犀星の他、三木露風らが参加。
1919年、結核のため伝道師を休職。
茨城県大洗町で死去、40歳。
自然のあらゆるものに神を見いだす彼独特の神学は、しばしば熱狂的な信徒を怒らせ、異端として追放された事も数多くあったという。
萩原朔太郎は「彼自身の見たる如き、ちがつた意味での基督教を信じてゐたにちがひない」と、追悼文『山村暮鳥のこと』で述べている。
安田 靫彦(やすだ ゆきひこ)
本名:安田 新三郎、1884年2月16日 - 1978年4月29日
大正~昭和期の日本画家。東京都出身。
前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに、焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。
「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ1981年、1986年、1996年に切手に用いられた。
良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。
また自らも皇居新宮殿千草の間に書、『万葉の秀歌』を揮毫した。
1965年東京芸術大学名誉教授。
東京国立博物館評議員会評議員、文化財審議会専門委員、国立近代美術館設立準備員も歴任。
門下に小倉遊亀、森田曠平、益井三重子、岩橋英遠らがいる。
初代中村吉右衛門とは同年で親しく、実兄は吉右衛門門下の中村七三郎。
辻 永(つじ ひさし)
写真は「現代美術家名鑑-昭和29年版」より
1884年2月20日 - 1974年7月23日
広島県出身の洋画家。茨城県水戸市育ち。
東京美術学校西洋画科入学、岡田三郎助に師事。在学中より頭角を現し白馬会出品の風景画は美術学校買い上げとなった。
1908年、第2回文展に「秋」で初入選以降、第4回、第6回、第8回でそれぞれ入賞。
1919年、第1回で無鑑査に推薦され、帝展の中にあって不動の地位を確立した。
1920年から二年間ヨーロッパに留学。
帰国後は毎年、格調高い風景画を発表し官展の重鎮となった。
1922年帝室審査員、1935年二部会を結成。
1947年帝国芸術院(同年日本芸術院と改称)会員、1949年日展運営会常務理事、1955年日本芸術院第一部長、翌年辞任。
1958年日展理事長に就任しその運営に力を尽くした。
1959年文化功労者、再度芸術院第一部長となり1965年まで務める。
芸術院のボスと言われ、日展と結びついた芸術院の賞および会員人選に長く権勢を揮った(草柳大蔵『現代王国論』)。
また茨城県美術展覧会理事長として同県美術の発展に寄与、1968年茨城県特別功績者として表彰を受けている。
若い頃から植物を愛し、花の写生画集『萬花図鑑』全8巻、『萬花譜』全12巻などの著作がある。
1964年勲二等瑞宝章受章、69年日展顧問。
豊田 利三郎(とよだ りざぶろう)
1884年(明治17年)3月5日 - 1952年(昭和27年)6月3日
日本の実業家。
豊田佐吉の婿養子(長女愛子の夫)で、豊田自動織機製作所及びトヨタ自動車工業の初代社長である。
ただし、トヨタ自動車工業の実質的な創業者は、佐吉の実子で利三郎の義弟にあたる豊田喜一郎であるとされる。
利三郎は元々は車作りに反対していたが、喜一郎の細かい計画や上海自動縫の西川からの資金援助で豊田自動車(後のトヨタ自動車)を設立した。
水野 利八(みずの りはち)
1884年(明治17年)5月15日 - 1970年(昭和45年)3月9日
岐阜県大垣市出身の実業家。ミズノ創業者。
1903年(明治36年)に京都・三高野球クラブの試合を見て、野球の魅力に惹かれ運動用品の商売を志し、1906年(明治39年)に弟の水野利三と大阪市北区で水野兄弟商会を創業。
当初は運動服を扱っていたが、1913年(大正2年)からは野球用のグラブ、ボールの製造を始めた。
1916年(大正5年)に全国統一の標準球を完成。
西洋的なスポーツの普及とともに事業を成長させ、1927年(昭和2年)紺綬褒章受章。
昭和初期は中国大陸にも進出。
1942年(昭和17年)に社名を美津濃に改称し社長に就任。
戦後はスポーツを通じた復興、青少年の育成にも尽力し、1955年(昭和30年)全国高等学校野球連盟から功労賞を受賞。
1956年(昭和31年)に藍綬褒章受章。
1964年(昭和39年)に美津濃全従業員に株を25株ずつ贈与。
1969年(昭和44年)に会長に就任。
翌1970年(昭和45年)死去、勲四等瑞宝章受章。
1971年(昭和46年)に野球殿堂入り。
バチェラー 八重子(バチェラーやえこ)
1884年6月13日 - 1962年4月29日
アイヌの歌人・キリスト教伝道者。
1884年(明治17年)6月13日、北海道伊達町有珠に、戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる。
父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロであった。
母は、フッチセであった。
父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。
13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌガールズスクール」に通う。
1906年(明治39年)、八重子は、ジョン・バチェラーの養女となる。
22歳のことであった。
なお、ジョン・バチェラーには、妻のルイザがいて、彼女ルイザがバチェラー八重子の養母となる。
1908年(明治41年)、ジョン・バチェラーについてイギリスに行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命される。
平取や幌別の聖公会で伝道活動を展開する。
1912年(明治45年)には、ジョン・バチェラーと共に、樺太に行き、伝道活動を行う。
1936年(昭和11年)に、バチェラー八重子による短歌の歌集『若きウタリに』が出版される。
荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい)
1884年6月16日(明治17年) - 1976年5月20日(昭和51年)
日本の俳人。本名・幾太郎のち藤吉。
東京芝区神明町(現・東京都港区浜松町)生まれ。
東京帝国大学文学部言語学科卒業。
明治44年(1911年)新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰。
河東碧梧桐もこれに加わった。
しかし、季題について意見を異にする碧梧桐が大正初頭同誌を去り、井泉水は季題と定型を揚棄した自由律俳句を唱え、門下から野村朱鱗洞(しゅりんどう)、芹田鳳車(せりたほうしゃ)、尾崎放哉(ほうさい)、種田山頭火(さんとうか)らの作家を出した。
句集に『原泉』(1960)、『長流』(1964)、『大江』(1971)、主著に『俳句提唱』(1917)、『新俳句研究』(1926)、『旅人芭蕉(ばしょう)』正続(1923~25)、『奥の細道評論』(1928)など。
65年(昭和40)芸術院会員。
川村 吾蔵(かわむら ごぞう)
写真は佐久市ホームページからお借りしました。
川村吾蔵作の「マッカーサー元帥」
写真は「ツムダフの色々ブログ」からお借りしました。
明治17年(1884年)8月17日 - 昭和25年(1950年)3月11日
日本の美術家。長野県臼田町(現:長野県佐久市)出身。
海外で活躍した国際的彫塑家であり、ニューヨーク市に多くのモニュメント彫刻を完成させたほか、乳牛像、著名人の胸像製作で高い評価を得た。
昭和22年(1947年)9月、横須賀基地第4代司令官のブラザー・デッカーの招聘により横須賀基地美術最高顧問として横須賀に転居し、EMクラブ(現:横須賀芸術劇場)の三階の三部屋をアトリエとして貸し与えられ、デッカーやアイケルバーガー中将など進駐軍首脳の胸像を多数製作する。
その出来栄えは多くの人に賞賛され、それを耳にしたダグラス・マッカーサー元帥から自らの胸像を依頼される。
昭和25年(1950年)3月11日、横須賀市のセント・ジョゼフ病院にて胃がんにより66歳で死去。
未完成だった《マッカーサー元帥》胸像を、妻栞(しおり)と娘の幸子がブロンズに鋳造し完成させた。
吉田 久(よしだ ひさし)
1884年8月21日生まれ
福井県出身。裁判官
昭和17年の衆議院選挙をめぐり、当時の鹿児島2区の選挙は無効だと判断し、司法の独立を守った判決を下した。
判決の原本は空襲の際に焼失したとされ、判例集にも掲載されなかったことで「幻の判決文」となっていたが、61年ぶりに最高裁判所の倉庫で発見された。
当時の選挙は、国を挙げて戦争を遂行するためという理由で、事実上国が候補者を推薦する形で行われ「翼賛選挙」と呼ばれた。
推薦されなかった候補には投票しないよう呼びかけるなど、さまざまな妨害が加えられた。
この選挙について、大審院(現在の最高裁)の裁判長であった吉田久は昭和20年3月「自由で公正な選挙ではなく、無効だ」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法上大いに疑問がある」と指摘して国を厳しく批判し、画期的な判決といわれた。
2008年9月、これまでほとんど知られる事のなかったこの判決と孤高の裁判官の生涯を追った『気骨の判決』清水聡著が出版された。
「わたしは、死んでもいい。 裁判官が事件の調べに行って殺されるのは、 あたかも軍人が戦争に臨んで 弾に当たって死ぬと同じことだ。 悔ゆることはない」
竹久 夢二(たけひさ ゆめじ)
明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日
日本の画家・詩人。本名は、茂次郎(もじろう)。
数多くの美人画を残しており、その作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する画家である。
また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。
文筆の分野でも詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも詩「宵待草」には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。
また、多くの書籍の装丁、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりとも言える。
藤原 咲平(ふじわら さくへい)
写真は、国立国会図書館 本の万華鏡
第13回 千里眼事件とその時代
岡田武松「藤原咲平博士」『科学』20(12) 1950.12, 【Z14-72】
からお借りしました。
1884年10月29日 - 1950年9月22日
日本の気象学者。
1909年7月に東京帝国大学理論物理学科を卒業し、中央気象台(現・気象庁)に入って技術見習員講師となる。
1915年に「音の異常伝播の研究」により理学博士となり、1920年、同研究により帝国学士院賞を受賞。
同年よりヨーロッパに留学し、ノルウェーのヴィルヘルム・ビヤークネスに師事、極前線、低気圧波動、海洋学を学ぶ。
この頃、港の水門付近に発生した渦を見て、渦巻への関心を持つようになり、ロンドンで実験を行い、王立気象学会誌に渦動論を発表した。
戦時中は軍の嘱託で風船爆弾の研究にも携わり、そのことが原因で戦後公職追放となった。
渦・雲・気象光学など、気象の幅広い分野において独創的な研究を行い、後進の育成にも力を尽くした。
著述などによる啓蒙的な活動にも精力的で、「お天気博士」の愛称で親しまれた。
現在の気象用語の基礎を作った。
また、1932年に自ら会長となり霧ヶ峰グライダー研究会を旗揚げし、1934年には日本初のグライダー大会を開催するなど、日本のグライダー研究の草分け的存在としても知られた。
作家の新田次郎は甥、数学者の藤原正彦は大甥に当たる。
西原 清顕(さいばら きよあき)
1884年12月12日 - 1972年10月18日
アメリカで農場経営者となった人物。
1884年(明治17年)12月12日、高知県高知市新田淵(現在の桜井町)で元同志社社長で衆議院議員の西原清東の長男として生まれた。
1902年(明治35年)東京築地立教中学卒業、第七高等学校に合格したが父親に呼ばれ渡米。父と一緒に米作りをする。
戦前は東南テキサス日本人会長をしていたため開戦時拘束されたが、「米は武器、その専門家を捕まえて米を腐らせるのか」との名言を残し釈放される。
1957年(昭和32年)母方のはとこの婚姻に合わせ一時帰国、吉田茂の計らいで昭和天皇に単独拝謁。
1972年(昭和47年)10月18日老衰で没。87歳だった。
テキサス州で米国市民権を得た最初の日本の人だった。
米作遺産はテキサス州サンアントニオのテキサス文化会館に展示されている。
北村 西望(きたむら せいぼう)
写真は「現代美術家名鑑-昭和29年版」より
1884年(明治17年)12月16日 - 1987年(昭和62年)3月4日
長崎県出身の彫刻家。本名は、北村西望(きたむら にしも)。
京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)卒業、東京美術学校(現・東京芸術大学)卒業。
日本を代表する美術家の1人であり、特に代表作である大作「長崎平和祈念像」は有名。
文化勲章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章。日本彫刻会では彼の功績を称え、同会展覧会における最優秀作品に「北村西望賞(単に『西望賞』とも)」の名を冠している。
島原市名誉市民、東京都名誉都民、長崎県名誉県民。
東京美術学校塑造部教授、 京都市立美術工芸学校教諭、日展会長などを勤めた。
享年104(満102歳没)。