政治家・軍人(生年順)
1880(明治13)年~1889(明治22)年
塩野 季彦(しおの すえひこ)
明治13年(1880年)1月1日 - 昭和24年(1949年)1月7日
日本の司法官僚、政治家。司法大臣である。
思想検事の主流として活動し、「塩野閥」などと言われた派閥を形作っていたことで知られている。
昭和12年(1937年)2月から昭和14年(1939年)8月にかけて、林内閣・第一次近衛内閣・平沼内閣の司法大臣就任、昭和14年(1939年)1月から4月の間逓信大臣を兼務。
司法大臣の地位に長くあったが、昭和14年(1939年)8月に下野、日本法理研究会を主宰し、忠君愛国への戦時司法体制づくりに積極的に関わっていくこととなる。
戦後、昭和20年(1945年)12月から昭和21年(1946年)8月にかけて、A級戦犯容疑にて巣鴨プリズンに収容された。
松岡 洋右(まつおか ようすけ)
1880年3月4日 - 1946年6月27日
日本の外交官、政治家。
日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。
山崎 達之輔(やまざき たつのすけ)
1880年(明治13年)6月19日 - 1948年(昭和23年)3月15日
日本の官僚、政治家。
1924年(大正13年)以来衆議院議員総選挙に連続7回当選した。
内田 信也(うちだ のぶや)
本名:のぶなり、1880年12月6日 - 1971年1月7日
日本の実業家、政治家。
山下亀三郎、勝田銀次郎と並ぶ三大船成金の一人。
船舶事業で財を成した後、政界にも進出し宮城県知事、鉄道大臣、農商務大臣、農林大臣等を歴任した。
苫米地 義三(とまべち ぎぞう)
明治13年(1880年)12月25日 - 昭和34年(1959年)6月29日
日本の政治家。
関東管領上杉憲政の末裔、山内上杉流苫米地家の一族で古くは中臣鎌足まで遡ることができる日本の名門家系。
日本進歩党、民主党、国民民主党(党首)、改進党、日本民主党、自由民主党に所属。
会社員時代は、大日本人造肥料会社(現日産化学工業)の社長・第一化学工業株式会社の社長を務め、南部鉄道社長も要請により就任。
骨相学・考星学(アストロロジー)・姓名学・霊気療法の研究を趣味とした。
1951年のサンフランシスコ講和会議では野党を代表する形で全権委員の一人となる。
1952年衆議院解散(抜き打ち解散)後の、衆議院選挙に立候補せず、日本国憲法第7条を衆議院解散の実質的根拠として行われた解散が憲法違反であるとして訴訟を起こした(苫米地事件)。
秋田 清(あきた きよし)
1881年8月29日 - 1944年12月3日
日本の政治家。
衆議院議長(第30代)、厚生大臣、拓務大臣を務めた。
日本法律学校在学中は弁論部で活躍した。
晩年は政界の裏表に精通し、「策士」と称された。
馬場 一衛(ばば かずえ)
1881年(明治14年)12月2日 - 1944年(昭和19年)3月30日
日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、門司市長。
前田 米蔵(まえだ よねぞう)
1882年2月17日 - 1954年3月18日
日本の政党政治家。
和歌山県出身だが、選挙区は中選挙区制時代の旧東京府第6区だった。
衆議院議員選挙に通算10回当選し、大政翼賛会総務会長を務めたことで知られている。
親軍派だったため戦後は不遇だった。
森 恪(もり かく)
明治16年(1882年)2月28日 - 昭和7年(1932年)12月11日
昭和戦前期の大阪出身の政治家、衆議院議員。
本名はもり つとむ。
東洋のセシル・ローズを自認した帝国主義者。
軍部と提携し、日本の中国侵出に大きな役割を果たした。
三井物産上海支店時代に中国語、英語に通じたほか、日露戦争では、東シナ海洋上を接近するバルチック艦隊の航跡をいち早く発見、打電して、日本海海戦の勝利に民間から貢献した。
また、辛亥革命では孫文に対し革命資金の斡旋を行った。
三井物産天津支店長を経て東洋製鉄など次々と事業を興して事業家となったのち、政界に進出。
田中義一政権下で政務次官ながら事実上の外相として対中国強硬外交を強力に推進し、山東出兵、東方会議開催などに奔走した。
犬養内閣では内閣書記官長となるも、大陸政策をめぐって犬養と対立。
犬養に対して内閣改造を提言するが容れられず、辞表を提出、預かりとされる。
その後、持病の喘息に肺炎を併発し、滞在先の鎌倉海浜ホテルにて十河信二と鳩山一郎夫妻に看取られ死去。享年50。
鈴木 富士彌(すずき ふじや)
1882年11月26日 - 1946年1月12日
大正・昭和期の日本の弁護士・政治家。
大分県出身。
1906年に東京帝国大学法科大学を卒業後、欧米視察や実業界を経て1915年に弁護士業を開業する。
1917年の第13回衆議院議員総選挙に東京府第5区(当時)から立候補して当選し、以後連続して6期務めた。
衆議院議員引退後の1940年には鎌倉市長に就任している。
東郷 茂徳(とうごう しげのり)
1882年12月10日 - 1950年7月23日
大正、昭和前期の外交官。
太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。
東条英機内閣で外務大臣兼拓務大臣として日米交渉にあたるが、日米開戦を回避する事は出来なかった。
だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。
その後、大東亜省の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。
鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。
それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために連合国側から戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁固20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。
遺著に『時代の一面』がある。
谷 寿夫(たに ひさお)
1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
岡山県の農民出身。
岡山中学校、東京府立四中(現東京都立戸山高等学校)を経て、陸軍士官学校(第15期歩兵科)、陸軍大学校(第24期)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第二次上海事変、南京攻略戦に参加した。
第二次世界大戦後、蒋介石による南京軍事法廷で、南京事件の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
鳩山 一郎(はとやま いちろう)
1883年1月1日 - 1959年3月7日
政治家、弁護士。
第52・53・54代内閣総理大臣。正二位 大勲位。
自由民主党の初代総裁であり、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣でもある。
貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂が不人気で政権を降りた後に首相を務め(1954-1956年)、鳩山ブームを起こした。
吉田のアメリカ中心の外交から転換し、懸案であった日ソ国交回復を成し遂げた。
盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党を結成。
これにより保守勢力と革新(この時点では社会主義)勢力を軸とした55年体制が確立された。
松村 謙三(まつむら けんぞう)
1883年(明治16年)1月24日 - 1971年(昭和46年)8月21日
戦前昭和から戦後昭和にかけて活躍した政党 政治家。
戦前は立憲民政党に所属して衆議院選挙で連続6回当選、戦後いったん公職追放になるものの、追放解除後に改進党から自由民主党に所属して衆議院選挙で連続7回当選を果たした。
東久邇宮内閣で厚生大臣兼文部大臣、幣原内閣で農林大臣、第2次鳩山一郎内閣で文部大臣。
富山県福光町(現在の南砺市)出身。
従二位 勲一等旭日桐花大綬章。
藤沼 庄平(ふじぬま しょうへい)
1883年(明治16年)2月17日 - 1962年(昭和37年)1月2日
日本の官僚、政治家。
明治42年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業、内務省に入省。
1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で栃木2区から衆議院議員に当選、立憲政友会に所属した。
1932年(昭和7年)警視総監に就任。
この頃大日本武徳会の理事長も務めた。
戦後の1946年(昭和21年)に警視総監に再任され、東京都長官(現・知事)を兼任。枢密顧問官も務めたが、翌1947年(昭和22年)にGHQにより公職追放。
1951年(昭和26年)の追放解除後はニッポン放送顧問を務めた。
次田 大三郎(つぎた だいざぶろう)
明治16年(1883年)3月18日 - 昭和35年(1960年)9月15日
政治家。戦前は貴族院議員。
昭和20年(1945年)10月、幣原内閣の国務大臣兼内閣書記官長に就任し戦後処理に尽力する。
大森 吉五郎(おおもり きちごろう)
1883年(明治16年)4月11日 - 1946年(昭和21年)
日本の内務・警察官僚、政治家。
民政党系官選県知事、京都市長。
1931年、南満州鉄道理事となる。
1932年、京都市長に就任。
行政改革、下水道事業の促進、災害復旧などを推進。
1935年、市長赴任旅費支払いの問題などから市会で不信任決議が出されて、市長を辞任した。
松野 鶴平(まつの つるへい)
明治16年(1883年)12月22日 - 昭和37年(1962年)10月18日
日本の政治家。
衆議院議員、鉄道大臣、参議院議長などを歴任。
権謀術数に長けたことから「松のズル平」とあだ名された。
また、実業家として菊池電気軌道(現・熊本電気鉄道)の社長も務めた。
石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ)
1884年(明治17年)1月9日 - 1960年(昭和35年)3月10日
日本の農林官僚、政治家。
「農政の神様」と称せられ、 彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。
永田 鉄山(ながた てつざん)
1884年1月14日 - 1935年8月12日
日本の陸軍軍人。
統制派の中心人物。
陸軍省軍務局長、歩兵第1旅団長、参謀本部第2部長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。
硫黄島の死闘でアメリカ軍を苦しめ抜き、敵ながらあっぱれと、いまなお米軍の賞賛の的になっている栗林忠道大将(戦死する数日前に大将になった)が唯一尊敬していたのが、この永田鉄山であり、永田の人格識見歴史観などは、当時の陸軍の中で卓越していたと言われている。
松阪 広政(まつざか ひろまさ)
1884年(明治17年)3月25日 - 1960年(昭和35年)1月5日
太平洋戦争時の司法大臣。
1941年(昭和16年)、検事総長となる。
1943年(昭和18年)、東條英機の命により反東條で知られる中野正剛の強引な逮捕に協力し自殺に追い込んだ者の一人としても知られる。
1944年(昭和19年)、小磯内閣の司法大臣、1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣でも留任、戦時体制下の思想弾圧を進めた。
1945年12月、A級戦犯として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令により巣鴨プリズンに収監される。 その後、釈放。
晩年は佐藤栄作首相の弁護士を務めていた。
十河 信二(そごう しんじ)
1884年4月14日 - 1981年10月3日
日本の鉄道官僚、政治家。
愛媛県西条市市長、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年 - 1963年)。
「新幹線の父」と呼ばれる。
西条市名誉市民第一号。
愛媛県新居郡中村(のちに中萩町、現在の新居浜市)出身。
愛媛県尋常中学校東予分校(現・愛媛県立西条高等学校)を経て、上京し受験準備のために正則英語学校(現・正則学園高等学校)に入学。
第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学卒業後、鉄道院に入省。
終戦直後の一時期には愛媛県西條市長や鉄道弘済会会長を務める。
当時は大事故が立て続けに起こり、国鉄の信用は地に墜ちていた。国鉄を心配する十河に、「そんなに言うんなら、あんたがやったらどうか」と、白羽の矢が立つが、年齢と健康を理由に固辞する。
しかし、同郷国会議員の三木武吉に「君は赤紙をつきつけられても祖国の難に赴くことを躊躇する不忠物か」と説得され、「俺は不忠者にはならん」と言い引き受け、71歳という高齢で、第4代日本国有鉄道総裁に就任した。
前田 多門(まえだ たもん)
1884年(明治17年)5月11日 - 1962年(昭和37年)6月4日
日本の政治家、実業家、文筆家。
一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。
1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった。
後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田宏、第3助役は前田多門であり、電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。
1928年(昭和3年)「朝日新聞」論説委員。
1938年退社後はニューヨークの日本文化会館館長、1943年新潟県知事など歴任。
1945年(昭和20年)貴族院議員となり、東久邇内閣の文相に就任、教育改革を推進した。
幣原内閣でも留任したが公職追放となった。
1946年(昭和21年)、東京通信工業(後のソニー)の初代社長に就任。
岡村 寧次(おかむら やすじ)
1884年(明治17年)5月15日 - 1966年(昭和41年)9月2日
日本の陸軍軍人。
支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任し、官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。
父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。
陸軍三羽烏(永田鉄山中将・小畑敏四郎中将)の一人。
1941年に北支那方面軍司令官に就任すると「滅共愛民」との理念から「焼くな、犯すな、殺すな」という三戒の遵守を訓示し、風紀粛清により規律を守らせた。
中国大陸では武漢三鎮・広東を手中に収め大いに活躍。
兵力をほぼ温存していたこともあり、ポツダム宣言受諾を不服に思い徹底抗戦を求めたが、昭和天皇が宣言受諾を決定した旨伝えられると、考えを改め「承詔必謹」(天皇の決断を承り実行すること)を隷下将兵に厳命した。
戦後中国に残留したのち、1949年(昭和24年)1月に無事復員。
帰国後、1954年に全国遺族等援護会顧問に就任、1957年からおよそ6年に渡り戦友会の全国組織である日本郷友連盟会長を務めた。
また、岡村に蒋介石が接触したことから日本軍将校からなる軍事顧問団「白団」(ぱいだん:団長富田直亮の中国名、白鴻亮から)が結成され、1949年から約20年にわたり中国国民党政権に協力した。
清瀬 一郎(きよせ いちろう)
1884年(明治17年)7月5日 - 1967年(昭和42年)6月27日
大正、昭和時代の日本の弁護士、政治家。
兵庫県飾磨郡夢前町(現、姫路市)出身。
京都帝国大学法科大学独法科を首席で卒業。
1930年代以降リベラルから親軍派に転向し五・一五事件の裁判において、被告側の弁護人を務めた。
また、極東国際軍事裁判では、日本側弁護団副団長と東條英機元首相の主任弁護人を務めたことでも知られる。
政治家としては文部大臣、衆議院議長を歴任。学位は法学博士。
東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。
東條 英機(とうじょう ひでき)
1884年7月30日 — 1948年12月23日
陸軍軍人、政治家、第40代内閣総理大臣。
極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、享年64。
辞世の句は「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」。
有田 八郎(ありた はちろう)
1953年4月19日に行われた第26回衆議院議員総選挙で当選したときの有田八郎、世界通信より
1884年(明治17年)9月21日 - 1965年(昭和40年)3月4日
新潟県佐渡郡真野町(現・佐渡市真野)出身の外交官、政治家。
貴族院勅選議員、衆議院議員1期(第26回)。
号は澤農。 山本家に生まれ、有田家の養子となった。
実兄の山本悌二郎は立憲政友会所属の政党政治家で、田中義一内閣及び犬養内閣で農林大臣を務めたことで知られている。
戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をした。
日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放。
追放解除後は革新陣営に属し日本の再軍備に反対したことで有名である。
石橋 湛山(いしばし たんざん)
1884年(明治17年)9月25日 - 1973年(昭和48年)4月25日
日本のジャーナリスト、政治家。
第55代内閣総理大臣。自由民主党総裁。従二位勲一等。早稲田大学名誉博士(Doctor of Laws)
戦前から一貫して日本の植民地政策を批判し加工貿易立国論を唱え、戦後は日中米ソ平和同盟を主張し政界で活躍した。
保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となるが、在任2ヵ月弱で脳梗塞を発症して退陣した。
湛山は日蓮宗の僧侶として得度してからの名前で、俗名は省三。
正力 松太郎(しょうりき まつたろう)
写真はブログ「ざまあみやがれい!」からお借りしました。
1885年(明治18年)4月11日 – 1969年(昭和44年)10月9日
日本の警察官僚、実業家、政治家。
元読売新聞社社主。位階は従二位、勲等は勲一等。
富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。
前田 利為(まえだ としなり)
1885年(明治18年)6月5日 - 1942年(昭和17年)9月5日
日本の華族、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
旧加賀藩主前田本家第16代目当主(侯爵)。
1942年4月6日 ボルネオ守備軍司令官となるが、9月5日ボルネオ沖で搭乗機が消息を絶ち(墜落の原因はいまだ不明)、後に残骸と遺体が発見された。
愛用していた軍刀「陀羅尼勝国」はくの字に曲がっていたという。
陸士で同期でありながら四年遅れて陸大を卒業した東條英機とはソリが合わなかったが、弔辞は生前互いに反目し合っていた東條英機が読んだ。
「英機、君ト竹馬ノ友タリ。陸軍士官学校ニ於テハ、寝食ヲ同シ、日露ノ役ニ於テハ、同一旅団ニ死生ヲ共ニセリ。爾来、星霜四十年、相携ヘテ軍務ニ鞅掌シ、交情常ニ渝ハルコトナク、互、許スニ信ヲ以テシ、巨星南溟ニ墜チテ再タ還ラズ。哀痛何ンゾ譬ヘン。英機、君ノ声咳ニ接スルコト長ク、今、霊位ニ咫尺シテ猶生クルガ如キ……」と、ここまで読み上げた後、東條は慟哭し絶句したという。
鈴木 文治(すずき ぶんじ)
1885年9月4日 - 1946年3月12日
宮城県栗原郡金成村(現:栗原市)出身の大正・昭和期の政治家、労働運動家。
友愛会創始者。
日本の労働運動の草分け的存在といわれる。
東京帝国大学を卒業後、新聞記者を経て労働運動家となった。
「友愛会」は「大日本労働総同盟友愛会」、1921年にはさらに「日本労働総同盟」と改称。
総同盟会長時代は内部融和を願うあまり、時に優柔不断と評されることもあったが、育ちの良さからくる大らかな人柄で、松岡駒吉、西尾末広、麻生久、賀川豊彦、野坂参三ら多彩な人材をまとめ上げ、日本に労働運動を定着させた。
生涯クリスチャンで、戦時中は憲兵隊の監視下におかれながら、鎌倉市の自宅近くの鎌倉教会長老として奉仕活動を行った。
1946年3月12日、戦後初の総選挙に日本社会党から立候補の届出を行った翌日に、心臓喘息により急逝した。60歳。
遠藤 柳作(えんどう りゅうさく)
1886年3月18日 - 1963年9月18日
日本の政治家、官僚、実業家、武蔵野銀行創設者。
埼玉県北葛飾郡千塚村(現:幸手市)生まれ。
小日山 直登(こびやま なおと)
1886年(明治19年)4月26日 - 1949年(昭和24年)8月28日
昭和期日本の実業家、政治家。
生家は士族出身であったが、生活は貧しく小さな水車小屋で生まれ育つ。
会津中学、第二高等学校 (旧制)を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学英法科を卒業すると共に文官高等試験に合格して南満洲鉄道株式会社(満鉄)に入社する。
理事を経て、1943年(昭和18年)7月、満鉄生え抜きの人材として初めて満鉄総裁となる。
1945年(昭和20年)4月、鈴木貫太郎内閣の運輸通信大臣(翌月逓信院の分離に伴い運輸大臣)に就任する。
小日山は8月13日に行われた閣議で、ポツダム宣言受諾の意思を示した。
終戦後に成立した東久邇宮内閣でも運輸大臣に留任し、勅選の貴族院議員・石炭庁長官を務めた。
白鳥 敏夫(しらとり としお)
1887年(明治20年)6月8日 - 1949年(昭和24年)6月3日
大正、昭和期の日本の外交官・政治家。
戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた。
東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。
松本 治一郎(まつもと じいちろう)
1887年6月18日 - 1966年11月22日
日本の政治家、実業家。
部落解放運動を草創期から指導し、部落解放同盟からは「部落解放の父」と呼ばれる。
堂々たる顎髭の風貌から「オヤジ」と呼ばれ親しまれた。
1953年、日中友好協会初代会長に就任。
1955年、部落解放全国委員会を部落解放同盟と改称し、初代執行委員長に就任。
1964年、勲一等授与の対象者に選ばれたが拒否。
1966年に死去するまで、部落解放運動の中心人物であり続けた。
重光 葵(しげみつ まもる)
1887年(明治20年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月26日
昭和前期の外交官・政治家。
昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判ではA級戦犯で有罪。
仮釈放と赦免後、政界に再復帰した。
第一次鳩山一郎内閣では外務大臣を務める。
ソ連との国交回復と、国連加盟に尽力した。
1956年(昭和31年)12月18日、国連本部で日本代表として加盟演説を行う。
1932年(昭和7年)、朝鮮の独立運動家尹奉吉の爆弾テロにより右足を失うが、まったく意に介さず、重光を知る者は「欠点がないことがやつの欠点だ」と語ったという。
片山 哲(かたやま てつ)
明治20年(1887年)7月28日 - 昭和53年(1978年)5月30日
日本の政治家で、第46代内閣総理大臣。
下村 定(しもむら さだむ)
1887年(明治20年)9月23日 - 1968年(昭和43年)3月25日
高知県出身の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。
1945年11月28日の帝国議会で、斎藤隆夫議員による陸軍の戦争責任の追及に対し、当事者である陸軍大臣としての率直な答弁は多くの議員を感動させた。
「いわゆる軍国主義の発生につきましては、陸軍と致しましては、陸軍内の者が軍人としての正しきものの考え方を誤ったこと、とくに指導の地位にあります者がやり方が悪かったことと、これが根本であると信じます。
このことが内外のいろいろな情勢と、複雑な因果関係を生じまして、ある者は軍の力を背景とし、ある者は勢いに乗じまして、いわゆる独善的な、横暴な措置をとった者があると信じます。
ことに許すべからざることは、軍の不当なる政治干渉であります。
かようなことが重大な原因となりまして、今回のごとき悲痛な状態を、国家にもたらしましたことは、何とも申し訳がありませぬ。
私は陸軍の最後にあたりまして、議会を通じてこの点につき、全国民諸君に衷心からお詫びを申し上げます。
陸軍は解体を致します。
過去の罪責に対しまして私共は今後、事実をもってお詫び申し上げること、事実をもって罪をつぐなうことは出来ませぬ。
まことに残念でありますが、どうか従来からの国民各位のご同情に訴えまして、この陸軍の過去における罪悪のために、ただいま齋藤君の御質問にもありましたように、純忠なる軍人の功績を抹消し去らないこと、ことに幾多戦没の英霊にたいして、深きご同情を賜らんことをこの際切にお願いいたします。」
大野 緑一郎(おおの ろくいちろう)
明治20年(1887年)10月1日 - 昭和60年(1985年)9月2日
日本の内務官僚、弁護士。
第37代警視総監、朝鮮総督府政務総監など歴任。
木村 兵太郎(きむら へいたろう)
明治21年(1888年)9月28日 - 昭和23年(1948年)12月23日
日本の昭和期の陸軍軍人。
太平洋戦争(大東亜戦争)後、A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受け、絞首刑に処された。
最終階級は陸軍大将
広瀬 久忠(ひろせ ひさただ)
1889年(明治22年)1月22日 - 1974年(昭和49年)5月22日
日本の官僚、政治家。
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)7月の小磯内閣においては再度の厚生大臣を務めたが、1946年(昭和21年)8月にGHQによる公職追放となっている。
追放解除後の1953年(昭和28年)には、第3回参議院議員通常選挙に山梨県選挙区から無所属で立候補して当選、政界に復帰した。
日本国憲法下では改憲を熱心に主張し、自主憲法期成議員同盟の初代会長に就任。
また天皇の「元首」化、軍の創設、参議院の機能強化、基本的人権の限界規定などを主な特徴とする「広瀬試案」を発表した。
山本 宣治(やまもと せんじ)
1889年(明治22年)5月28日 - 1929年(昭和4年)3月5日
京都府出身の政治家、生物学者。
山本宣治を略して山宣(やません)と呼ぶこともある。
病弱のため神戸第一中学校を中退した山宣は、両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後に料理旅館「花やしき浮舟園」に発展)で花づくりをして育った。
その後、1907年からカナダのバンクーバーへ5年間、園芸留学し、この間に『共産党宣言』『種の起源』『進化論』などを学び、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流を深めた。
帰国後、28歳の時に東京帝国大学理学部に入学。
卒業後、京都帝国大学大学院で動物学を専攻、また、同志社大学、京都帝国大学の講師を勤めた。
性教育の啓発と性科学の普及運動に関わり、産児制限運動を行うなか、左翼系の社会運動との関わりを強め、1928年の第1回普通選挙に京都2区から立候補し、2041票で当選した。
1929年3月5日、衆議院で治安維持法改正に反対討論を行う予定だったが、与党政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決された。
その夜、右翼団体である「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。
死後、日本共産党員に加えられた。
なお、母の多年も戦後共産党に入党している。
墓碑の「花屋敷山本家之墓」を揮毫したのは、宮廷歌人・書家の阪正臣。
阪は思想的には山本と対照的な立場であったが、母の多年が和歌で阪に師事したいきさつによる。
「花やしき浮舟園」は歌人・文学者・芸術家たちの定宿となるなど、相応の格式を持った旅館であり、現在も営業している。
木戸 幸一(きど こういち)
1889年7月18日 - 1977年4月6日
日本の官僚、政治家。
侯爵。
昭和天皇の側近の一人として東條英機を首相に推薦するなど太平洋戦争前後の政治に関与した。
敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、東京裁判において終身刑となったが後に仮釈放された。
青木 一男(あおき かずお)
1889年(明治22年)11月28日 - 1982年(昭和57年)6月25日
日本の政治家、官僚。
貴族院議員(勅選)、参議院議員(4期)、大蔵大臣、大東亜大臣などを歴任。
勲一等旭日大綬章。
長野県更級郡牧郷村(現・長野市)で農家・青木善蔵の長男として生まれる。
1916年(大正5年)に東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。
1937年(昭和12年)近衛文麿首相の要請により企画院の創設に携わり、次長に就任、1939年(昭和14年)には総裁となる。
同年8月、企画院総裁を兼ねたまま阿部内閣に大蔵大臣として初入閣。
その後汪兆銘政権への特派大使顧問として南京に赴任し、経済政策を指導する。
1942年(昭和17年)には東条内閣で初代大東亜大臣を拝命し、大東亜会議などの施策に携わる。
戦後はA級戦犯容疑者として収監されるが、1948年(昭和23年)釈放される。
その後は弁護士を務める。
追放解除後の1953年(昭和28年)、第3回参議院選挙の全国区に吉田自由党から立候補して当選、当選は計4回を数えた。