~丸メガネの情報が満載!~

丸メガネの情報が満載!

学者・文化人(生年順)

1890(明治23)年~1894(明治27)年


坪田 譲治(つぼた じょうじ)

1890(明治23)年3月3日 - 1982(昭和57)年7月7日
岡山県出身の児童文学作家。
プロレタリア文学台頭の中で困窮生活を送るも、1935年(昭和10年)山本有三の紹介で『お化けの世界』を雑誌『改造』に発表し、好評を得る。
翌年朝日新聞夕刊の新聞小説として連載した『風の中の子供』が絶賛され、幅広い年代層の支持を得て一躍人気作家となる。
戦後は、日本児童文学者協会の第3代会長などを務めた。
後年は自らも童話雑誌「びわの実学校」を主宰し、松谷みよ子、あまんきみこ、寺村輝夫、大石真等の後進を育てた。
『お化けの世界』や『風の中の子供』、『子供の四季』などの「善太と三平」物が名高い。
全集が三度刊行されている(『坪田譲治全集』8巻本、12巻本。『坪田譲治童話全集』10巻本)。

兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん)

1890(明治23)年3月27日 - 1957(昭和32)年9月3日
山口県出身の日本の俳人、書家、弁護士。本名は理蔵。
豊浦中学校(現在の山口県立豊浦高等学校)時代に俳句を始め、青木月斗や河東碧梧桐に投句、私立興風中学(現在の山口県立小野田高等学校)に転校し卒業、このころ遊行中の碧梧桐本人と出会い傾倒する。
第五高等学校 (旧制)(現在の熊本大学)へ進学するころには荻原井泉水の『層雲』にも投句を始め、若き新傾向俳人として注目される。
碧梧桐が1915年(大正4年)に『海紅』を創刊するとこれに参加、碧門の弟子として同人となる。
このころから層雲の句友、種田山頭火がたびたび地橙孫の元を訪れるようになり、山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
第五高等学校卒業後は京都帝国大学法科(現在の京都大学法学部)に進学、卒業後は弁護士となった。
しばらくして下関市に住み、弁護士業の傍ら創作活動を開始、文芸誌『海峡』、随筆集『觸目皆花』を相次いで刊行、黒田忠次郎が立ち上げた『生活派』の同人にもなる。
しかし下関空襲により被災、徳山市(現在の周南市)に疎開する。
戦後は定形俳句に戻るも病に倒れ、自身の句集『通草』を発表、句誌『清明』を創刊するも、わずか2号で廃刊。
1957年(昭和32年)、67歳で没。
書家としても名高く、中村不折直伝の六朝体の書による山頭火の句碑を始め、山口県内に数多く残している。

山田昌作(やまだ しょうさく)

1890年(明治23年)3月29日‐1963年(昭和38年)2月25日
富山県出身の実業家。東京帝大卒。
昭和10年代、電気事業における発送電一元化の流れの中、全国を8地区に分割し、北陸は東海と合わせ中部地区に含む配電統制令が出されたが、このとき、あくまで「北陸独自の特殊性」である豊富な電源、低廉な労働力など自然的特異条件をを説き、北陸配電の独立を主張し、「北陸独自の特殊性を極度に活かすことが結局は国力の増強に必ず貢献する」という不屈の信念で努力をつづけた。
昭和17年4月1日北陸配電株式会社が設立、社長に選任された。
北陸地方の電源開発と工業発展につとめ、戦後は北陸電力社長となった。

今井 邦子(いまい くにこ)

明治23年(1890年)5月31日 - 昭和23年(1948年)7月15日
旧姓山田、本名くにえ)
徳島市出身の「アララギ」の歌人。
後に短歌誌「明日香」を創刊した。
「万葉集」をはじめとして古典の研究、評論、随筆や研究書も多く出版した。
昭和23年(1948年)、手抜きをすることなく全力で走りきった人生であったが、7月15日朝、疎開先であり幼少女期を過ごした長野県下諏訪町湯田の実家で、心臓麻痺のため59歳の人生を終わった。
妻として、母として、歌人として、そして何よりも一人の女として、理性と熱情の間で激しく揺れ動く、美貌で勝気な歌人であった。
今井家の菩提寺である小石川・寂円寺に埋葬され、後に静岡県、富士霊園に移葬された。
下諏訪町に今井邦子文学館がある。

土方 成美(ひじかた せいび)

明治23年(1890年)7月10日 - 昭和50年(1975年)2月15日
1890年 姫路市に生まれる。
東京帝国大学法科大学経済学科を首席で卒業。
「統制経済」の概念を日本で初めて提唱したという。
この語は、自由主義経済の欠陥を政府の手で統制するという意味のものであり、「計画経済」とは異なるものであるとする。
また、日本経済の実証研究も行なっており、これは当時誰も手をつけていない分野だったという。

河井 寛次郎(かわい かんじろう)

1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日
陶芸家。
華やかな作品で新人にして名人と一躍注目を浴びたが、世評に反し自身の制作に悩むようになる。
後、古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民芸運動」にかかわり、古典から日用の器へと路線を変更した。
寛次郎は各地を訪れ、手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用的で簡素な造形に釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びた。
この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになる。
さまざまな賞を受賞するも生涯、無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い、1966年に76歳で没した。

土屋 文明(つちや ぶんめい)

1890年9月18日 - 1990年12月8日
歌人・国文学者。 群馬県出身。
幼少期に育てられた伯父に俳句を教わり、旧制高崎中学在学中から蛇床子の筆名で俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿。
卒業後に恩師の紹介により伊藤左千夫を頼って上京し、短歌の指導を受け『アララギ』に参加。
東大在学中には芥川龍之介・久米正雄らと第三次『新思潮』の同人に加わり、井出説太郎の筆名で小説・戯曲を書いた。
1917年に『アララギ』選者。
教師生活の傍ら作歌活動を続け、1925年に第一歌集『ふゆくさ』を出版。
1930年には斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぎ、アララギ派の指導的存在となる。
戦後は1953年に日本芸術院会員になり、1984年に文化功労者、1985年に『青南後集』で第8回現代短歌大賞受賞、1986年に文化勲章を受章。
1990年に100歳の天寿を全うし、没後従三位に叙された。
『万葉集』の研究でも知られ、『万葉集年表』・『万葉集私注』などの著作がある。

田中 耕太郎(たなか こうたろう)

1890年(明治23年)10月25日 - 1974年(昭和49年)3月1日
鹿児島県鹿児島市出身の法学者、法哲学者。
東京帝国大学法科大学法律学科を首席で卒業。
東京帝国大学大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、日本学士院会員。
文化勲章、勲一等旭日桐花大綬章を受章。
大勲位菊花大綬章を没後叙勲、正二位を追贈。 妻の峰子の影響を受けて、無教会主義キリスト教からカトリックに改宗。
カトリックへの接近にともなって、それまで必要悪とみなしていた法や国家に積極的な意味を見出して研究に意欲を燃やし、そこから商法学における画期的な「商的色彩論」および大著『世界法の理論』等を著した。
文部大臣、最高裁判所長官などを経て、1961年から1970年にかけて、国際司法裁判所判事として活躍した。
5つの事件と1つの勧告的意見に関わり、2つの個別的意見と2つの反対意見を残した。
特に、1966年の「南西アフリカ事件」(第二段階)判決に付けた長文の反対意見は、有名であり、非常に権威のあるものとして、今日でもしばしば引用される。

岸田 國士(きしだ くにお)

明治23年(1890年)11月2日 - 昭和29年(1954年)3月5日
日本の劇作家・小説家・評論家・翻訳家・演出家。
代表作に、戯曲「牛山ホテル」、小説『暖流』、『双面神』など。
長女は童話作家の岸田衿子、次女は女優の岸田今日子、甥に俳優の岸田森がいる。

山川 菊栄(山川 菊榮、やまかわ きくえ)

明治23年(1890年)11月3日 - 昭和55年(1980年)11月2日
日本の評論家・婦人問題研究家である。
旧姓は青山。東京生れ。山川均の妻。
日本の婦人運動に初めて批評的、科学的視点を持ち込んだ。
多くの評論集は、明晰な分析と鋭い批評眼を示し、日本における女性解放運動の思想的原点と評される。
また、戦前から柳田國男の薫陶を受け、母や故老からの聞き書きや祖父の日誌をもとに、「武家の女性」「幕末の水戸藩」などの社会史を残した。

豊島与志雄(とよしま よしお)

1890年(明治23年)11月27日 - 1955年(昭和30年)6月18日
日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。
法政大学名誉教授。明治大学文学部教授もつとめた。日本芸術院会員。
大正4年に大学を卒業した与志雄は、殆どを東京で過ごす中、彼独特の作風で次々と新作を発表、多くの読者の共感を呼び、文壇でも次第に頭角を現わす存在となっていった。
中でもフランス文学の翻訳家としての力量には素晴らしいものがあり、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」ロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」という二大長編の訳本は当時大いに人気を博した。
与志雄は、元来孤独を愛し、自然に親しむ心情の持ち主であり、家庭的に苦労も多かったようで、そうした生きざまをもとにした作品が多かった。

佐藤 惣之助(さとう そうのすけ)

1890年12月3日 - 1942年5月15日
神奈川県川崎市出身の詩人、作詞家。
佐藤慶次郎・うめ夫妻の二男として出生。
佐藤家は川崎宿(現川崎市)の本陣を預かる家柄であった。
佐藤紅緑に師事し俳句を学び、1916年(大正5年)に最初の詩集である『正義の兜』を出版。
翌年には、第2詩集である『狂へる歌』を出版。
1933年(昭和8年)1月、妻の花枝が死去。
同年、作家萩原朔太郎の妹、萩原愛子(萩原アイ)と再婚。
作曲家、古賀政男と組み多くの楽曲を世に送り出す。
1938年(昭和13年)には、久米正雄、林房雄、川口松太郎らと中国へ従軍記者として赴く。
義兄朔太郎が死亡した四日後、脳溢血で急逝。享年51。
なお、川崎信用金庫本店の所在地が佐藤惣之助の生家跡であり、同店敷地内に「佐藤惣之助生誕の地碑」が建てられている。
『赤城の子守唄』、『大阪タイガースの歌(現:阪神タイガースの歌、通称:六甲おろし)』など有名曲多数。

仁科 芳雄(にしな よしお)

1890年12月6日 - 1951年1月10日
日本の物理学者である。
湯川秀樹、朝永振一郎など後のノーベル賞受賞者たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも評される。
米国の科学技術が進んでいることから日米開戦には反対していたが、陸軍から新型爆弾の研究開発を要請され、仁科研究室が中心になって原子爆弾の開発が行われることになった。
しかし、結局1945年のアメリカ軍の空襲により設備が償却し、日本の原爆開発は潰える事になった。
広島と長崎では現地の被害を調査し、新型爆弾が原子爆弾であると政府に報告、これが日本のポツダム宣言受諾に繋がったといわれている。
また、終戦の日のラジオ放送において原子爆弾の解説をおこなった。

首藤定(しゅとうさだむ)

1890-1959)大分県臼杵市出身の実業家。
中国で関東都督府事務官の書生などを務めた後、実業家として独立。
金融業や鉱工業などを手がけて満州財閥の巨頭とも呼ばれた。
終戦時、 多数の同胞が同じ苦しみにあえぎ、難民であふれる大連。
なんとか 1人でも多くの難民を救済しなければならない、と、全財産をなげうち、在留邦人のために、苦心して集めた美術品を提供して難民救済、食料獲得の資金に充てる為、ソ連に美術品を渡し、雑穀100トンを提供させたという。
その時の目録に掲載された点数は、中国画24、日本画226、書5、洋画35、骨董(こっとう)271の計561点だった。
現在でも優品の多くが行方不明だという。

河合 栄治郎(かわい えいじろう)

1891年2月13日 - 1944年2月15日
日本の社会思想家、経済学者。東京生まれ。
東京帝国大学法科大学卒、銀時計受領。
第二次世界大戦前夜における、著名な自由主義知識人の一人。
東京帝大教授、経済学部長を務める。
理想主義的リベラリズムとフェビアン的社会主義の立場から、マルクス主義とファシズムの両方と対立したため著書の発禁処分などの弾圧を受け、1939年(昭和14)には大学を追われ、起訴された。
大審院で有罪判決を受けた翌年1944年に死去。
戦後忘れられたに等しいとされるも、門下生に政治学者の猪木正道など、また、保守派の論客としても知られる渡部昇一も尊敬するとされる人物。

瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき)

1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日
日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。
京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。
元大阪高裁判事・元大阪大学教授(刑事法)の瀧川春雄は長男。
旧岡山藩士の子として生まれる。
鳥取の瀧川家によれば、戦国期の武将滝川一益の三男辰政は岡山池田家に御預けになっており、これが幸辰の先祖とされている。
「汝の道を進め、人々をして語るにまかせよ」が信条であったが、正にそのとおりの人生を送った。
京大で新派刑法理論に立つ勝本勘三郎の刑法総論の講義を受け、1回生の期末試験で新派刑法理論を批判し、応報刑論で答案を書いた。
勝本は瀧川の答案を2回生の刑法各論の講義に際し、学生達の前で読み上げ、「この答案はなかなかおもしろいが、自分の子供の頭を思い切り殴られたようで思い切った点数があげられなかった」と言って笑ったという。
滝川事件で大学を追われるが、第二次世界大戦後、大学に復帰、京都大学総長を務め、学生運動との対立事件を繰り返した。
特に「第2次滝川事件」と呼ばれる学生による瀧川への「暴行」事件は有名である。
なお総長が理系学部から選ばれる傾向の強い京都大学(および前身の京都帝国大学)では、現在のところ、瀧川が文系学部から選出された最後の総長となっている。

並木凡平(なみき ぼんぺい)

1891(明治24)年5月23日~1941(昭和16)年9月29日
札幌生まれの歌人。
その短歌は定形律の口語歌で生活感に満ち溢れており、人柄の優しさと相まって多くの人々に親しまれ愛された。
長年の新聞記者生活の中で失業の憂き目に会ったときに、コップなどガラスの器に、自作の短歌を刻み付ける「凡平歌コップ」を思いつき製作販売した。
好評でよく売れたが歌人、新聞人として失意の凡平を励ましたのは、弟子や友人によって朝里不動尊境内に建てられた、並木凡平歌碑だった。
【 廃船のマストにけふも浜がらす鳴いて日暮れる張碓の浜】
昭和14年、室蘭の新聞社に招かれ、小樽を去り、2年後急逝、51年の生涯を閉じた。
「オミキノンベイ」とあだ名されるほどの酒好きで、日々の哀歓を酒とともに詠んだ歌をいくつも残している。

岸田 劉生(きしだ りゅうせい)

1891年6月23日 - 1929年12月20日
大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。
北方ルネサンスの感化を受けて草土社を主宰し、大正画壇に異彩を放った。
ダ・ビンチの「モナ・リザ」にヒントを得たという愛娘をモデルにした一連の「麗子像」は有名で、神秘的な微笑が印象的である。
病のため38歳で死去。

長谷川 利行(はせがわ としゆき「はせがわ りこう」とも)

1891年7月9日 - 1940年10月12日
京都府京都市山科区出身の洋画家。
絵は独学だったが非常に速筆で、1~2時間ほどでれっきとした油絵を仕上げてしまう。
自身の "アトリエ" を持たず、「思い立ったら絵を描く」スタンスを生涯続けた。
彼の生活は、一日中貧民街で絵を描いているか、絵を換金して酒を飲んでいるかだったという。
ついには、友人たちに絵を書いて送りつけたり、岸田國士ら著名人のところに押しかけて絵を描き、金をせびったりするなど生活は荒れ果てていった。
このため、知人たちは後世まで彼については堅く口を閉ざし(このため彼の経歴には不明な点が多い)、長谷川の評価が進んだのは死後数十年たってからである。

宇野 浩二(うの こうじ)

1891年7月26日-1961年9月21日
小説家・作家。
福岡生まれ 3歳のときに父が脳溢血で急死、後、親戚から学資の援助を得て早稲田大学英文科に入学。
1913年には小説集『清二郎 夢見る子』を出版。
1919年に『蔵の中』を『文章世界』に発表、さらに同年、『苦の世界』を『解放』に発表し、新進作家として文壇で認められる。
童話作家としても活躍した。
また、妻のほかに芸妓などと交遊をもち、それらを小説化していった。
昭和初年には精神を病み、斎藤茂吉の治療を受ける。
その直後、親友芥川龍之介の自殺にあう。
病気から回復したのちは芥川賞選考委員を務め、後進の育成にも努めた。
弟子に水上勉がいる。

久米 正雄(くめ まさお)

1891年(明治24年)11月23日 - 1952年(昭和27年)3月1日
長野県上田市生まれの小説家、劇作家。
“微苦笑”という語の発明者として有名。
東京帝国大学文学部英文学科卒業。
俳号を三汀(さんてい)といい、俳人としても知られる。
6歳の時に小学校校長だった父親が御真影焼失の責任を取り割腹自殺をしている。
大学在学中、成瀬正一、松岡譲らと第三次「新思潮」を創刊し、作品を発表。
戯曲「牛乳屋の兄弟」(1914年)で認められる。
「新思潮」廃刊後は、「帝国文学」同人。1915年(大正4年)、夏目漱石の門人となる。
師である漱石の長女筆子への失恋(筆子は松岡と結婚)を素材とした『蛍草』『破船』で一躍流行通俗作家となった。
晩年は高血圧に悩み、脳溢血で急逝した。
死の直前に松岡と和解している。
忌日は三汀忌、もしくは微苦笑忌と呼ばれる。

堂本 印象(どうもと いんしょう)

1891年12月25日 - 1975年9月5日
京都市生れの日本画家。
帝室技芸員。日本芸術院会員。1961年(昭和36年)文化勲章受章。
京都市立美術工芸学校卒業後西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。
1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選を皮切りに特選、帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。
京都市立絵画専門学校教授として、また、私塾東丘社の主催者として、画壇の指導者としても活躍。
戦後、抽象表現や障壁画の世界にも活躍の場を広げ、国際展覧会に多くの作品を出展するなど国際的にも活躍。
1963年(昭和38年)には大阪カテドラル聖マリア大聖堂 に壁画『栄光の聖母マリア』を描いた功績により当時のローマ教皇ヨハネス23世より聖シルベストロ文化第一勲章を受章した。
自らのデザインにより設立した自作を展示する堂本美術館は京都府に寄贈され平成4年4月京都府立堂本印象美術館として開館し今日に至っている。

古川 竹二(ふるかわ たけじ)

写真は御茶ノ水女子大学デジタルアーカイブズより
1891年 - 1940年
教育学者、心理学者。
東京女子高等師範学校 (現お茶の水女子大学) 教授。
1927年の「血液型による氣質の研究」(『心理學研究』) 以下一連の論文や著作で、血液型と性格の関係を本格的に論じた人として知られる。

重松髜修(しげまつ まさなお)

明治24(1891)年、愛媛県生まれ。
正岡子規らの母校でもある松山中学に学んだのち上京し、東洋協会専門学校(拓殖大学の前身)を卒業。
大陸雄飛の国策に従って朝鮮半島へ渡り、平壌で朝鮮金融組合理事となる。
万歳橋事件のときに暴徒に拳銃で右足を撃たれて不具の身となるも、貧しく報われない朝鮮農民の中に入っていき、近代農業を根付かせ、その暮らしを豊かにし感謝され頌徳碑を建てられた。
日本の朝鮮統治35年のうち、31年を当地で暮らし、戦後は愛媛で牧場を経営した。
著作に『朝鮮農村物語』正続二巻があり、活躍した時代を回想するテープを残した。

天野 辰夫(あまの たつお)

明治25(1892)年2月22日~昭和49(1974)年1月20日
大正・昭和期の国家主義運動家、弁護士 全日本愛国者団体会議顧問。
東京帝大卒。
帝大在学中、上杉慎吉の天皇主権説を信奉、独得の皇道理論を構成。
大正7年興国同志会を組織、8年興国精神復興運動に参画。
弁護士を開業、12年法政大教授。
15年父の経営する浜松の日本楽器争議で争議団に対抗。
昭和4年愛国勤王党を結成。5.15事件失敗の後、陸軍予備中佐の安田銕之助や民間の景山正治らと、斎藤実内閣打倒と皇族内閣をめざすクーデター(神兵隊事件)を計画、決行直前の8年7月検挙された。
禁錮5年だったが免訴された。
14年まことむすび社などで活動、16年平沼騏一郎国務相暗殺未遂事件に連座。
18年東条英機首相の暗殺を示唆して検挙された。
戦後は全日本愛国者団体会議顧問、弁護士として活動。

原田 永之助(はらだ えいのすけ)

1892年2月25日 - 1946年12月20日
熊本県天草郡(現・天草市)出身の眼科医。
後にVogt-Koyanagi-Harada 病と統一した名前になる疾患を1926年に原著として発表した。
1913年東京帝国大学医学部卒業。
陸軍軍医その後内科を選び駒込病院などに勤務。
結婚相手の父親が長崎の眼科開業医原満里であったので、東京大学眼科に転向(1922年1月)。
恩師は石原忍と河本重次郎である。
原田の恩師で、色盲の研究で有名な石原忍は次の文章を遺している。
「原田永之助氏の原著は大正15年の発表であるが、いつとはなしに原田病と称するようになった。昭和4年まではうちの教室では使っていなかった。同年京都大学の高橋氏がその使用に異議を唱えたが、私は原田氏病という病名が使われておれば、あえて抹殺する必要はないと思う。」

郷倉 千靱(ごうくら せんじん)

写真は<大日本画家名鑑-昭和15年版>より
1892年3月3日 - 1975年10月25日
富山県出身の日本画家、日本芸術院会員。本名・與作。
1915年東京美術学校日本画科卒業。
寺崎広業に指導を受けた。
後期印象派、とくにセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンに傾倒した。
1916年渡米、1922年には院展日本美術院賞を受賞した。
帝国美術学校日本画科教授、多摩美術学校日本画科教授、多摩美術大学教授などを歴任。
日展審査員、日本美術院評議員なども務めた。
また画塾草樹社を率いた。
1960年日本芸術院賞を受賞、翌年インドへ渡り、仏教美術を研究した。
壁画(京都東本願寺大谷夫人会館壁画、大阪四天王寺大講堂壁画)も制作。
堅固な写実を基盤にした緻密な画風で多くの作品を描いた。
代表作は「山霧」。
1971年勲四等旭日小綬章受章、没後勲三等瑞宝章追贈。

林 柳波(はやし りゅうは)

写真は沼田市ホームページからお借りしました。
1892年(明治25年)3月18日 - 1974年(昭和49年)3月27日
群馬県出身の詩人。
1910年(明治43年)明治薬学校(後の明治薬科大学)を卒業。
同年薬剤師の国家試験に合格すると、やがて明治薬学校の講師となる。
他方、1911年(明治44年)から東京本郷で薬局を開業。
1919年(大正8年)1月13日、9つ年上の未亡人、日向(ひなた)きむ子と再婚。
きむ子は大正3美人の1人として名高く、代議士日向輝武の妻で、社交界の花形だった。
きむ子はその美貌を看板に化粧品の製造・販売も行っており、柳波は薬剤師として化粧品の改良に助言を行うことなどで、きむ子との繋がりを強めたと思われる。
きむ子は夫輝武との間に既に6人の子があったが、輝武は疑獄事件に巻き込まれ、1918年(大正7年)5月28日狂死。
夫の死から1年も経たぬうちの再婚は、夫の死で世間の同情を集めていたきむ子の評判を落とした。
折りしも1月5日、愛人島村抱月を追って自殺した松井須磨子と比較されて一大スキャンダルとなったが、柳波は渦中のきむ子をよく支えた。
柳波ときむ子は本郷にあったきむ子の化粧品店「瓢々堂」に新居を構え、2人の子をもうけた。
1950年(昭和25年)明治薬科大学の図書館長に就任。
以後も日本詩人連盟相談役、日本音楽著作権協会会員など、多くの公職を歴任した。
1972年(昭和47年)勲四等瑞宝章受章。

市川 正一(いちかわ しょういち)

写真は「馬込文学マラソン」からお借りしました。
1892年3月20日 - 1945年3月15日
戦前の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)の幹部。
山口県宇部市出身。
1916年、早稲田大学文学部を卒業、読売新聞社社会部記者となる。
1918年、読売新聞社への軍部の干渉に反対し、退社。
翌年、大正日日新聞に入社。
1920年、大正日日新聞の保守性に失望して退社。
国際通信社に入社。
このころから社会主義の研究をはじめる。
1922年4月、雑誌『無産階級』を発刊。
翌年1月、31歳で日本共産党(第一次共産党)入党。
1928年4月、コミンテルン第6回大会に党代表として出席。
1929年4月、治安維持法違反で特別高等警察に逮捕される。
約2ヶ月にわたる拷問にも屈せず、毅然として戦う。
公判では代表陳述として支配階級を徹底的に糾弾し、日本共産党の党史について述べ「党と人民の正義の事業が必ず勝利するだろう」と堂々と主張した。
1945年3月15日、長期の獄中生活にも志を曲げず、終戦を目前に、宮城刑務所で53歳で死去した。

佐藤 春夫(さとう はるお)

1892年(明治25年)4月9日 - 1964年(昭和39年))5月6日
小説家、詩人。
和歌山県新宮市の医家に生まれる。
『スバル』『三田文学』などに詩歌を発表、のち小説に転じた。
1960年(昭和35年)に文化勲章受賞。
芥川賞初代選考委員の一人。
友人の小説家谷崎潤一郎の妻・千代に恋慕し、のちに譲りうけたことがあった。
谷崎の『蓼喰ふ蟲』はその経緯を描いたものと思われていたが、実はその前年の、千代を和田六郎(大坪砂男)に譲る件についてのものであることが分かった。
谷崎と千代子の離婚成立後、三人連名の挨拶状を知人・マスコミに送り、「細君譲渡事件」としてセンセーショナルな反響を呼び起こした。
代表作である「秋刀魚の歌」(詩集『我が一九二二年』所収)も千代への思慕が背景にある。
俗に門弟三千人と称され、門人に太宰治や檀一雄、吉行淳之介、稲垣足穂、柴田錬三郎、中村真一郎、五味康祐、遠藤周作、安岡章太郎、古山高麗雄などがいる。

山口 青邨(やまぐち せいそん)

1892年5月10日 - 1988年12月15日
岩手県盛岡市出身の俳人・鉱山学者。
東京帝国大学工学部卒業。工学博士・東京大学名誉教授。
土に親しんだ句、また、みちのくを題材とした句が多いことでも知られている。
1922年に水原秋桜子、山口誓子、富安風生、高野素十らと東大俳句会を結成。
同人誌 「夏草」創刊。

三谷 隆信(みたに たかのぶ)

1892年6月17日 - 1985年1月13日
日本の官僚、外交官、教育者。
スイス大使、フランス大使などを歴任して後、宮内庁の侍従長となった。
長男の信は、作家三島由紀夫の親友で、代表作「仮面の告白」の登場人物のモデルとなった。

弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう)

1892年(明治25年)6月30日-1952年(昭和27年)11月17日
作曲家。高知県安芸市に生まれる。
代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『雀の学校』『春よこい』『靴が鳴る』など多数。
他に歌曲『千曲川旅情のうた』、オペラ『西浦の神』、仏教音楽『仏陀三部作』など。

山本省三

1892-1971
大分県臼杵市出身。
下北かじや村の片岡家の男三人兄弟の末子として、明治二十六年に生まれる。
最優秀の成績で臼杵中学を卒業し、長崎の医科大学へ進み、医師として第一歩を踏み出す。
大阪西成区で開業し、貧しい人からの治療費は一切取らず、人々に「赤ひげ先生」と呼ばれた。
大阪中に知れわたる程の医者であり、在阪県人会第六代会長として臼杵人はもとより大分県人会の諸氏より先生と呼ばれ尊敬されていた。

安藤 照(あんどう てる)

明治25年(1892年) - 昭和20年(1945年)5月25日
鹿児島市出身の彫刻家(彫塑)。東京美術学校卒。
美術学校時代に帝展入選、卒業後も第3、5、6回帝展にて特選を受賞、大正15年(1926年)の第7回帝展では特選に加えて帝国美術院賞を受賞。
翌昭和2年(1927年)には帝展審査員に就任。
彫刻の本質的な造形性、中でも量感の表現を唱えた。
昭和4年(1929年)、塊人社を結成。
1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲の犠牲となって死亡した。享年54歳。
代表作に西郷隆盛像(鹿児島市)、忠犬ハチ公像(初代、東京都)がある。

児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう)

1893年(明治26年)2月13日 - 1962年(昭和37年)3月22日
日本の洋画家。
福岡市中島(現・博多区中洲中島町)生まれ。
1912年修猷館を卒業し長崎医学専門学校薬学科(現・長崎大学薬学部)に入学するも翌年中退し上京、岡田三郎助が指導する本郷洋画研究所に2ヵ月程学ぶが東京美術学校の受験に失敗し、以後師につかずほとんど独学。
大正10年に二科展入選。
大正13年から昭和3年まで滞欧。
帰国後、二科展に滞欧作を発表、二科会会員となったが、昭和5年退会して独立美術協会の創立に参加。
独自のフォーヴィズムから、日本の伝統的なフォルムと装飾的な表現の導入、写実への再確認などの展開を示しながら「日本人の油絵」の創造を目指した。
代表作に、『箱根』、『アルプスへの道』などがある。

三島 徳七(みしま とくしち)

1893年2月24日 - 1975年11月19日
淡路島(現在の兵庫県洲本市五色町)生まれの冶金学者。
産業技術進歩に大きな役割を果たしたMK鋼の発明者として知られる。
立教中学を首席で卒業。
書生をしながら苦学して東京帝国大学に入学し、後に主任教授の三島家の養子となる。
東京帝国大学工学部鉄冶金学料卒業。
日本学術会議会員、日本学士院会員、文化勲章受章。
鉄にニッケルを加えたニッケル鋼は磁石とならないが、さらにアルミニウムを加えた合金は永久磁石(MK磁石)に適していることを1931年に発見した。
1917年にKS鋼を発明した東北帝国大学の本多光太郎は磁石開発における競争相手であった。
KS鋼に比べ、MK鋼は材料価格も安く、製造費用を抑えることができた。
本多は、1934年にMK鋼を上回る新KS鋼を開発し、MK鋼とほぼ同水準の材料を作りあげている。

今 純三(こん じゅんぞう)

1893年(明治26年)3月1日 - 1944年(昭和19年)9月28日
日本の銅版画家。
銅版画の技法研究にほぼ独力で取り組み、昭和初期における日本の銅版画の普及に関与した。
1909年(明治42年) 独乙学協会学校中学部を退学し、「太平洋画家会研究所」に入る。
1912年(大正元年)8月 早稲田工手学校(現在の早稲田大学芸術学校)建築科(夜間)に入学。
1927年(昭和2年)4月 青森県師範学校図画科教授嘱託として、美術を教える。
1933年(昭和8年)3月 青森県師範学校を退職し、画業に専心。
4月に東奥日報社編集局嘱託となる。
『青森県画譜』を10月から毎月1回刊行。

前田久吉(まえだ ひさきち)

1893年4月22日 - 1986年5月4日
大阪府出身の実業家、政治家。
「大阪の新聞王」と呼ばれた。
1913年(大正2年)、母方の祖父母が経営する新聞販売店の手伝いを始め、1914年(大正3年)その経営を任され、南大阪でも指折りの新聞販売店にする。
その後、産経新聞を全国紙として育成するとともに、電波業界にも進出。
1957年(昭和32年)、ニッポン放送の鹿内信隆専務と共に日本電波塔を設立し、翌1958年(昭和33年)には333メートルの東京タワーを完成・開設した。
このほか、関西テレビ放送、大阪放送(ラジオ大阪)の各放送局を相次いで設立・開局して両社の(初代)社長にも就任。
また、1962年にはマザー牧場も開設し、グループ企業としている。

中田瑞穂(なかだ みずほ)

1893年4月24日 - 1975年8月18日
大正6年に東京大学医学部を卒業、29歳のとき新潟医科大学に迎えられた。
その後欧米に渡り、最先端の医学知識を得て帰国、当時、未開拓の分野だった脳外科の発展に尽くした。
ホトトギス派の優れた俳人でもあった。

木村 荘八(きむら しょうはち)

1893年8月21日 - 1958年11月18日
東京府出身の洋画家、随筆家、版画家。
新派の喜多村緑郎を囲み、里見弴、大佛次郎、久保田万太郎等と集まりを持っていた。
また、1945年頃、加藤潤二の加藤版画研究所から新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表している。

下村千秋(しもむらちあき)

1893年(明治26年)9月4日-1955年(昭和30年)1月31日
茨城県出身の小説家。
早稲田大学英文科を卒業して読売新聞社に入社するも、すぐに退社し文筆活動に入る。
小説・短歌・戯曲などを発表、また、ゴーリキー全集の翻訳、「赤い鳥」などに多くの童話を発表するなどした。
昭和に入ってからは、社会小説に境地を開き、大阪朝日夕刊に連載された『街の浮浪者』で一躍ルンペン作家の異名をはせ、流行作家となる一方、農村の窮状と農民の哀歓を描いた農民小説の傑作を多数発表し、高い評価を得ている。
彼の真価はむしろ、綿密な取材に基づいた農民小説にあるといわれる。
戦後は、昭和28年に「中学生」を出版し、混乱する戦後の教育界一石を投じたが、昭和30年1月31日、肝炎のため入院していた立川共済病院で死去、享年63歳だった。(阿見町ホームページより一部抜粋)

山本倉丘(やまもと そうきゅう)

写真は「現代美術家名鑑-昭和29年版」より
明治26(1893)年10月12日-平成5(1993)年
高知県出身の日本画家。名は伝三郎。京都絵専卒。
山元春挙の早苗会に入塾し、のち堂本印象の東丘社に入る。
戦後は日展・東丘社展・京展・関西展等で活躍、四条派の伝統の上に近代的な様式を加えた花鳥画で知られた。
日展参事・東丘社顧問。京都市文化功労者・京都府美術工芸功労者。
勲四等旭日小授章受章。芸術院賞・京都府文化賞特別功労賞受賞。
京都に住し、平成5(1993)年、99才で亡くなった。
長男の山本知克も日本画家として活躍した。

山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん)

1893年10月15日 - 1971年5月31日
日本画家。
北海道松前郡松城町(現・松前町)生まれ。
1913年に東京・高輪中学校を卒業後、東京美術学校(現・東京芸術大学)に進学。
松岡映丘に師事し、大和絵を習得。
23年卒業、1924年新興大和絵会に参加する。
26年帝国美術院賞受賞。29年帝展審査員。50年日展運営会参事、日本芸術院会員、54年日展運営会理事、58年日展常務理事、1965年文化勲章受章、文化功労者。69年日展顧問。
画風は西欧絵画の日本的表現と見られる。
山口蓬春記念館が神奈川県三浦郡葉山町一色2320にある。

梥本一洋(まつもと いちよう)

<大日本画家名鑑-昭和15年版>より
明治26(1893)年11月29日-昭和27(1952)年3月9日
京都府出身の日本画家。
本名は謹之助。京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校卒。
山元春挙、川村曼舟に師事。
在学中の大正4年文展で「壬生狂言の楽屋」が初入選以来、帝展でも毎回のように入選を重ね、昭和2年「蝉丸」、3年「餞春」で連続特選を受賞した。
帝展審査員、文展審査員、日展審査員、母校京都市立絵画専門学校教授などを務めた。
また、私塾耕人社を主宰して美術教育にも携わり、後進の指導に尽力した。
歴史画を得意とし、王朝の物語絵や歴史風俗をモチーフにした作品を多く残し、 新興大和絵系画家の代表格として活躍した。

松平信弘(まつだいら のぶひろ)

1893年-1949年
愛知県出身の作曲家
主なヒット曲は、サムライ・ニッポン、ルンペン節、天国に結ぶ恋など。

宮 芳平(みや よしひら)

1893(明治26)年-1971(昭和46)年
新潟県生まれの画家。
宮芳平は、1893年(明治26年)新潟県堀之内町に生まれた。
日本海に沈む夕日の美しさに感動して画家になることを決意し、上京後、東京美術学校に入学する。
1914年(大正3年)第8回文部省美術展覧会に作品「椿」を出展するも落選、審査主任であった森鴎外を訪ねたのが縁で、以後、知遇を受けるようになる。
文豪と画学生とのさわやかなこの交流を、鴎外は短編小説『天寵』に著した。
1915年(大正4年)第9回文展に入選後、日本美術学院洋画部にて村山槐多、山崎省三らと共に学ぶ。
その後、新潟県柏崎、神奈川県平塚と移住しつつ、中村彝に師事し、曾宮一念とも生涯にわたる交友を結ぶ。
1923年(大正12年)諏訪高等女学校(現諏訪二葉高校)に、彫刻家清水多嘉示の後任として赴任し、美術教師として多くの教え子たちに愛された。
戦後は国画会出展を中心に自己の画境を進め、晩年にはエルサレムなどの聖地を巡礼し、敬虔な祈りのうちに、1971年(昭和46年)京都で生涯を閉じた。
(安曇野市 豊科近代美術館公式HPより)

島田 孝一(しまだ こういち)

1893年-1987年
東京出身の交通経済学者。
早稲田大学商学部卒業。
第6代早稲田大学総長(1946年 - 1954年)、流通経済大学初代学長(1965年-1974年)、日本交通学会初代会長(1941年-1973年)。
父は衆議院議員でジャーナリストでもあった島田三郎。

豊田 喜一郎(とよだ きいちろう)

1894年6月11日 - 1952年3月27日
日本の実業家。
トヨタ自動車工業株式会社社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。
東京帝国大学工学部機械工学科卒業。
愛知県豊田市(挙母市)の発展に大きく貢献した実績から、豊田市役所の広場には銅像が立てられている。
父は、豊田自動織機創業者の豊田佐吉
現在のトヨタ自動車社長の豊田章男は孫にあたる。

北川千代(きたがわ ちよ)

1894年(明治27年)6月14日-1965年(昭和40年)10月14日
大正から昭和期を代表する児童文学作家。
埼玉県出身。
大正4年に、周囲の反対を押し切って江口渙と結婚するも、離婚。
この間、社会主義婦人団体の「赤瀾会」に参加するなど、女性の自立を求めて活動を始める。
労働運動家の高野松太郎と結ばれ、娼妓解放支援などの社会運動に参加する中で、社会的矛盾を直視した作品を数多く発表した。
晩年は千葉県の蓮沼村に移り住み、71歳の生涯を終える。
葬儀は、市川房枝が葬儀委員長となり告別式が催された。
昭和44年にその業績を記念して日本児童文学者協会により「北川千代賞」創設。
煉瓦工場や小山川の土手などを舞台とした『雪の日』『らっきょう』『汽車の婆の話』には、自叙伝としての深谷の思い出が描かれている。
深谷市ホームページより抜粋UP

竹鶴 政孝(たけつる まさたか)

1894年6月20日 - 1979年8月29日
広島県竹原市出身の日本のウイスキー製造者、技術者。会社経営者。
ニッカウヰスキーの創業者であり、『日本のウイスキーの父』と呼ばれている。

速水 御舟(はやみ ぎょしゅう)

1894年(明治27年)8月2日 - 1935年(昭和10年)3月20日
大正期~昭和初期の日本画家。
東京浅草生まれ。本名は蒔田 栄一(まきた えいいち)。
従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作「炎舞」のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。
長くない生涯に多くの名作を残し、「名樹散椿」(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。
1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスにより急逝。40歳没。

江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ)

明治27年(1894年)10月21日 - 昭和40年(1965年)7月28日
大正~昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家。
筆名はアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったもの。
少年向けに、明智小五郎と小林少年をはじめとする少年探偵団が活躍する作品『怪人二十面相』等を多数発表した。
日本推理作家協会初代理事長。
戦後は評論による啓蒙や日本推理作家協会の設立に携わるなど多大な業績を残した。
また新人発掘にも熱心で、筒井康隆、大薮春彦など乱歩に才能を見出された作家は少なくない。
日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力し、同クラブに寄付した私財100万円の使途として江戸川乱歩賞が制定され、同賞は第3回より長編推理小説の公募賞となった。

濱田 庄司(はまだ しょうじ)

1894年(明治27年)12月9日 - 1978年(昭和53年)1月5日
主に昭和に活躍した日本の陶芸家。
神奈川県生まれ。
現東京工業大学窯業科で学び、卒業後は、学校が2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。
またイギリス、沖縄でも窯業を学び、1930年からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始する。
殆ど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。
民芸運動に熱心で、1977年には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館。
1955年第1回の重要無形文化財「民芸陶器」保持者(人間国宝)に認定、1968年には文化勲章を受章。
1978年益子にて没。享年83。

海外編

↑ PAGE TOP