~丸メガネの情報が満載!~

丸メガネの情報が満載!

海外編(生年順)

学者


ベンジャミン・フランクリン

1706年1月6日(グレゴリオ暦1月17日) - 1790年4月17日
アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。
凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたり、メガネのレンズの上半分を遠くにピントを合わせたレンズとし、下半分を近くにピントを合わせたレンズとする、フランクリン型の遠近両用(二重焦点)メガネを作った事でも有名。
『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つ。

ジョン・ドルトン(John Dalton)

1766年9月6日 - 1844年7月27日
イギリスの化学者、物理学者ならびに気象学者。
原子説を提唱したことで知られる。
また、1794年には自らの色盲を題材にした論文を発表し、赤緑色覚異常(ドルトニズム)の語源となった。

ハインリッヒ・シュリーマン

1822年1月6日 - 1890年12月26日
ドイツの考古学者。
幼少のころにホメロス(当時は「トロイア戦争はホメロスの作り話」と言われ、トロイアの実在も疑問視されていた。)のイーリアスに感動し、ギリシャ神話の伝説の都市トロイアが実在することを発掘によって証明した。
また、音読により文章を丸暗記することで多国語を理解していたことでも有名。
幕末の日本を訪れ、著作"La Chine et le Japon au temps présent"の中で鋭い観察眼を披露して日本の文化・風俗を絶賛している。

フレデリック・パシー

Frédéric Passy, 1822年5月20日 - 1912年6月12日
フランスの経済学者で、国際仲裁委員会の提唱者。
1901年第1回のノーベル平和賞の共同受賞者になった。
同時受賞者は、アンリ・デュナンである。

グレゴール・ヨハン・メンデル

1822年 - 1884年
オーストリアブリュン(現在のチェコ ブルノ)の司祭。
植物学研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見したことで有名。
遺伝学の祖。
当時、遺伝現象は知られていたが、遺伝形質は交雑とともに液体のように混じりあっていく(混合遺伝)と考えられていた。
メンデルの業績はこれを否定し、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという粒子遺伝を提唱したことである。

エドワード・シルヴェスター・モース

Edward Sylvester Morse、1838年6月18日 - 1925年12月20日
アメリカの動物学者。
標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2学年勤め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。
大森貝塚を発掘した。
日本に初めて、ダーウィンの進化論を体系的に紹介した。
『モールス』とも書かれる。

ジョージ・トランブル・ラッド

George Trumbull Ladd、1842年1月19日 - 1921年8月8日
アメリカ合衆国の心理学者、教育者、神学者。
1842年アメリカ合衆国オハイオ州に生れる。
ウェスタン・リザーブ大学、アンドーヴァー神学校に進学。
エール大学哲学部の教授に就任。
1893年、アメリカ心理学会の第2代会長。
1892年に日本の帝国大学(現・東京大学)の招待を受け心理学の講演を行う。
その後、伊藤博文から依頼を受け、朝鮮(現・韓国)へ渡る。伊藤博文への助言者、教育者として朝鮮で講演など活動。
他にインドのカルカッタ、ボンベイ、ベナレスでも講義を行っている。
アメリカに帰国後も活動しながらニューヨーク・タイムズに記事を投稿。
博士は1907年、日本への貢献から外国人初の旭日中綬章(勲三等)を受賞。
ラッドはアメリカや日本での心理学発展に貢献した。

ロベルト・コッホ

Heinrich Hermann Robert Koch、1843年12月11日 - 1910年5月27日
ドイツ クラウシュタール生まれの医師、細菌学者。
ゲッティンゲン大学を卒業。
ルイ・パスツールとともに、「近代細菌学の開祖」とされる。
炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者である。純粋培養や染色の方法を改善し、細菌培養法の基礎を確立した。
寒天培地やペトリ皿(シャーレ)は彼の研究室で発明され、その後今日に至るまで使い続けられている。
また感染症の病原体を証明するための基本指針となるコッホの原則を提唱し、感染症研究の開祖として医学の発展に貢献した。
1905年、結核に関する研究の業績よりノーベル生理学・医学賞を受賞。
コッホの弟子に破傷風菌を純粋培養し、ペスト菌を発見した北里柴三郎がおり、1908年、北里に招かれ来日した。
北里研究所には北里柴三郎によってコッホ祠が建立された。
北里の死後はその弟子により北里祠も建てられ、後に合祀されてコッホ・北里神社となっている。

カール・フェルディナント・ブラウン

Karl Ferdinand Braun、1850年6月6日‐1918年4月20日
ドイツの物理学者。
電位計やオシログラフ、そしてブラウン管の発明など電磁気学の分野に業績を残した。
ブラウンの最初の研究は弦や弾性体の振動に関するものであった。
そのほか、熱力学に関する研究もしたことがあった。
しかし彼の最大の業績は電気工学に関するものである。
オームの法則によって得られる「抵抗」が非線形である場合についての論文をはじめ、電位計や陰極線オシログラフの発明をした。
その後1898年ころからは無線電信の研究に専念するようになり、高周波電流によって水中でモールス信号を送る実験や、電波に指向性を持たせての発信・受信実験を行った。
1909年には、「無線電信の開発に寄与した功績を認めて」ノーベル物理学賞をグリエルモ・マルコーニと共に受賞している。

ヘンドリック・アントーン・ローレンツ

Hendrik Antoon Lorentz、1853年7月18日 - 1928年2月4日
オランダの物理学者。
1853年7月18日、オランダ・アムステルダム付近に生まれる。
1870年、ライデン大学に入学し、数学と物理学を学ぶ。
1875年に博士号を取得。
25歳より、ライデン大学教授(理論物理学)となる。
ピーター・ゼーマンとともに1902年のノーベル物理学賞(ゼーマン効果の発見)を受賞した。
ローレンツ力、ローレンツ変換などに名を残す。
1928年2月4日にハールレムで没したが、葬儀当日は哀悼の意を表するためオランダ全土で3分間電話が止められた。
アルベルト・アインシュタインは彼について「我々の時代において最も偉大で、最も高尚な人物だった」と述べた。
オランダ政府は1945年より毎年7月18日(ローレンツの誕生日)を「ローレンツの日」と定めている。

パウル・エールリヒ

Paul Ehrlich, 1854年3月14日 - 1915年8月20日
ドイツの細菌学者・化学者。
「化学療法 (chemotherapy)」という用語と「特効薬 (magic bullet)」という概念をはじめて用いた。
彼は血液学・免疫学・化学療法の基礎を築いた独創的な研究者であり、細菌学や医化学方面に数多くの新技法を考案した。
150余篇の論文は多方面にわたる。
1908年にイリヤ・メチニコフと共にノーベル生理・医学賞を受けた。
1910年には彼の研究所で日本の医学者・秦佐八郎が実験を担当していた梅毒治療剤サルバルサン(606号)の発見を導いた。
この発見は後のサルファ剤・ペニシリンなどの抗生物質の発見をうながしたという点で功績が大きい。
なお赤痢菌の発見者・志賀潔はエールリヒと同門である。

ジークムント・フロイト

1856年5月6日 - 1939年9月23日
オーストリアの精神分析学者。
オーストリアの東欧系ユダヤ人(アシュケナジム)の家庭に生まれた。
フロイトは、マルクス、ニ-チェとならんで20世紀の文化と思想に大きな影響を与えた人物の一人であるが、彼の理論に対しては生前から批判が絶えず、現代の精神医学においては、フロイトの理論自体が高く評価されているとはいえない。
しかし、当時の医学では精神病理の治療はほとんど進んでおらず、フロイトが精神の病理という分野に大きなスポットライトを当て、治療のアプローチとして心理的な側面を発見したのは一種の革命に近いものがある。

ゲオルク・ジンメル

Georg Simmel, 1858年3月1日- 1918年9月28日
ドイツの社会学者、哲学者(生の哲学)。
ユダヤ人(キリスト教徒)。
形式社会学の祖と言われる。 ベルリン生まれ。
裕福なユダヤ人商人の一家に生まれる。
ベルリン大学で歴史、民族心理学、哲学を修め、23歳で哲学博士となる。
その後、マックス・ヴェーバーの後援を受け、1885年ベルリン大学で哲学私講師になるも昇任の機会に恵まれず、1911年フライブルク大学から名誉博士号を受け、1914年シュトラスブルク大学(現ストラスブール大学)教授になる。
ベルリン大学では、彼と並んでディルタイが教授で在任。
昇任には、その存在が支障になったとも言われる。
彼の哲学は、ニーチェ、ショーペンハウエルと共通点をもつ生の哲学だが、大学の世界で薫陶を受けているため、それをカント以来のドイツ観念論の系譜で一般的な用語法を持って語るという、なかなかユニークなもの。
「断章」などにも本人が書いているように、知的遺産の後継者には恵まれなかったが、彼の思想は、アメリカにわたり、社会学のシカゴ学派、そしてシンボリック相互作用論に大きな影響を与え、定性的研究の源流のひとつとも言われるようになった。
また、近年では、ドゥルーズ、ガタリ以降の生気論再評価の文脈で、社会化以前の生(「社交」)を捉えようとする後期ジンメルの論が新たに注目されている。

マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク

1858年4月23日 - 1947年10月4日
ドイツの物理学者で量子論の創始者の一人。
1918年にノーベル物理学賞を受賞。
放射に関するプランクの法則(1900年)は、後にアインシュタイン、ニールス・ボーアなどによって確立された量子力学の基礎となるものであり、この業績からプランクは「量子論の父」とも呼ばれている。
ナチス政権下に於いて、1944年のヒトラー暗殺計画に加担した次男のエルヴィンが処刑され、自身も「国賊の父」とされたが、第二次世界大戦後、彼を記念してカイザー・ヴィルヘルム研究所は「マックス・プランク研究所」と改名され、21世紀に入っても物理学研究の一大中心地として、様々な画期的研究成果を挙げている。

エトムント・フッサール

Edmund Gustav Albrecht Husserl
生誕 1859年4月8日 オーストリア帝国・モラヴィア 死没 1938年4月27日(満79歳没)
ドイツ国・フライブルク・イム・ブライスガウ オーストリアの哲学者、数学者である。
ウィーン大学で約2年間フランツ・ブレンターノに師事し、ドイツのハレ大学、ゲッティンゲン大学、フライブルク大学で教鞭をとる。
初めは数学基礎論の研究者であったが、ブレンターノの影響を受け、哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。
現象学は20世紀哲学の新たな流れとなり、マルティン・ハイデッガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロー=ポンティらの後継者を生み出して現象学運動となり、学問のみならず政治や芸術にまで影響を与えた。

ジョン・デューイ

John Dewey, 1859年10月20日-1952年6月1日
アメリカの20世紀前半を代表する哲学者。
パース、ジェームズとならんでプラグマティズムを代表する思想家である。
日本、中国、ソ連にも招聘講義に出かけ、1919年の2ヶ月に及ぶ東京帝国大学での講義は、『哲学の改造』(日本語版がオリジナルで、英語版は翻訳)に結実した。
彼の教育論は、人間の自発性を重視するもので、人間の自発的な成長を促すための環境を整えるのが教育の役割だとした。

ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフ

1859年 - 1917年
ユダヤ系ポーランド人の眼科医・言語学者で、現在のところ最も広く使われている人工言語、エスペラントの創案者。
ザメンホフが生まれたポーランドは、当時、帝政ロシア領で、町の人々は4つの主な民族(ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、イディッシュ語を話す大勢のユダヤ人)のグループに分断されていた。
彼は憎しみや偏見の主な原因が、民族的・言語的な基盤の異なる人々の間で中立的なコミュニケーションの道具として働くべき共通の言語がないことから起こる相互の不理解にあると考えた。

シートン

1860年-1946年
アメリカの作家・博物学者。
ナチュラリスト。イギリス、サウスシールズ生まれ。
幼少の頃に両親と共にカナダの開拓農場へ移住。
のちにロンドンやパリで絵画を勉強。
パリのサロンに出品し入賞した経験もあり、挿絵画家としても多くの自著に作品を描き添えている。
日本では「シートン動物記」の題で編纂されたものが有名

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド

1861年2月15日 - 1947年12月30日
イギリス人の数学者、哲学者である。
論理学、科学哲学、数学、高等教育論、宗教哲学などに功績を残す。
ケンブリッジ大学、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン、インペリアル・カレッジ・ロンドン、ハーバード大学の各大学において、教鞭をとる。
イギリスにいた時は、数学者・論理学者であり、本人も数学者であると考えていたが1924年に、米国のハーバード大学に招かれ、哲学の教授となった。
哲学者としての彼の業績は、ハーバード大学に招聘されてからが主体であり、その時既に63歳であった。
ホワイトヘッドは、世界をモノではなく、一連の出来事(event)つまり、過程として捉える特徴があり、プロセス哲学あるいはプロセス神学として知られている。
その独特の有神論的な哲学思想は、現在もなお様々な研究者によって、挑戦されている哲学でもある。

ルドルフ・シュタイナー

Rudolf Steiner, 1861年2月27日 - 1925年3月30日(満64歳没)
オーストリア帝国(1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国に、現在のクロアチア)出身の神秘思想家 。
アントロポゾフィー(人智学)の創始者。哲学博士。
20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びたが、1900年代からは神秘的な結社神智学協会に所属し、ドイツ支部を任され、一転して物質世界を超えた“超感覚的”(霊的)世界に関する深遠な事柄を語るようになった。
「神智学協会」幹部との方向性の違いにより1912年に同協会を脱退し、同年、自ら「アントロポゾフィー協会(人智学協会)」を設立した。
「アントロポゾフィー(人智学)」という独自の世界観に基づいてヨーロッパ各地で行った講義は生涯6千回にも及び、多くの人々に影響を与えた。
また教育、芸術、医学、農業、建築など、多方面に渡って語った内容は、弟子や賛同者たちにより様々に展開され、実践された。
中でも教育の分野において、ヴァルドルフ教育学およびヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)が特に世界で展開され、日本でも、世界のヴァルドルフ学校の教員養成で学んだ者を中心にして、彼の教育思想を広める活動を行っている。

ダフィット・ヒルベルト

1862年1月23日 - 1943年2月14日
ドイツの数学者。
生まれたのは当時ドイツ領だったケーニヒスベルク(現在はロシアのカリーニングラード)。
ゲッティンゲン大学の教授職を勤め、19世紀末から20世紀初頭にかけての指導的な数学者となった。
不変式論、抽象代数学、代数的整数論、積分方程式、幾何学の公理系の研究、一般相対性理論など業績は非常に多岐にわたる。
彼の公理論と数学の無矛盾性の証明に関する計画はヒルベルト・プログラムと呼ばれる。
ケーニヒスベルグ大学に進学し、特にウェーバーからはドイツ数学の影響を受けた。
また、彼は弟子の育成にも努め、マックス・デーン、エーリヒ・ヘッケ、ヘルマン・ワイル、アッカーマン、ベルナイスなど著名な数学者を輩出。
日本人では高木貞治がドイツ留学時代ヒルベルトの弟子であった。

フリードリヒ・マイネッケ

1862年10月30日 - 1954年2月6日
20世紀前半のドイツを代表する歴史学者。
第二次世界大戦後は最も伝統的な歴史学者として晩年に至るまでドイツ史学界に君臨していた。
ヘーゲルに批判的であったことから、国粋主義的なヘーゲル思想復興の風潮が著しかった当時の思想界からは理解されなかった。

ミゲル・デ・ウナムーノ・イ・フーゴ

Miguel de Unamuno y Jugo, 1864年9月29日- 1936年12月31日
スペイン・ビルバオ出身の哲学者、著作家、詩人、劇作家。
いわゆる「98年の世代」にあたり、真のスペインの思想・国家・人民のあり方について模索し続け、スペイン思想界に大きな影響を残した。
実存主義的な思想家として知られ、哲学と詩の両面から生と死、あるいは自己の問題などに取り組み、「私とは何者であるか」「死後の私はどうなるか」の2点に強い関心を持った。

蔡 元培(さい げんばい)

1868年1月11日-1940年3月5日
清末民初の政治家、教育家。
1868年に、浙江省紹興山陰県(現在の紹興県)で生まれる。
1902年、上海に於いて章炳麟等と協力して中国教育学会を設立、会長に就任した。
また同年秋には愛国学社と愛国女学を設立、『俄事警聞』(後に『警鐘日報』と改称)を創刊、民権主義と革命を世論に訴えた。
1916年から1927年までは北京大学学長(1923年以降は北京大学を離れており名目的な学長)として北大改革を行い、学術と自由の校風を確立した。
北伐時期、国民政府が南京に遷都した後に教育行政委員会を主催し、中華民国大学院及び中央研究院の設立準備作業に活躍、教育及び学術制度の改革を唱えた。

フリッツ・ハーバー

Fritz Haber, 1868年12月9日 – 1934年1月29日
ドイツ(現在のポーランドヴロツワフ)出身の物理化学者、電気化学者。
ユダヤ人から改宗したプロテスタント。
第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもある。
自身も科学者であった妻クララは夫が毒ガス兵器の開発に携わることに反対し、初めてそれが実戦で使われた(1915年4月22日)のち、5月2日に自ら命を絶った。
終戦後、戦争犯罪人の候補に挙げられたが、1918年にノーベル化学賞(アンモニア合成法の開発による。現在ハーバー・ボッシュ法として知られる。)を受賞して名誉を回復。
しかし、1933年にナチスによってユダヤ人公職追放令が出されたことに抗議し、スイスに亡命。
翌年、亡命先のバーゼルで冠状動脈硬化症により、睡眠中に死去した。
現在は、妻のクララとともにバーゼルのHornli Cemeteryに埋葬されている。
1923年に世界一周の旅で、2ヶ月の日本滞在中に星製薬の創設者である星一との知遇を得、生涯に亘る親交を結んでいる。

アルフレッド・アドラー

Alfred Adler、ドイツ語発音: [alfreːt aːdlɐ](アルフレート・アードラー)
1870年2月7日 - 1937年5月28日
オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。
ジークムント・フロイトおよびカール・グスタフ・ユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人。
アドラーについては、初期の頃のフロイトとの関わりについて誤解があるが、アドラーはフロイトの共同研究者であり、1911年にはフロイトのグループとは完全に決別し、個人心理学(アドラー心理学)を創始した。

バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル

1872年5月18日 - 1970年2月2日
イギリス生まれの論理学者、数学者、哲学者。
第3代ラッセル伯爵。
イギリスの首相を務めたジョン・ラッセルは祖父である。
アインシュタインと親交があり、核廃絶に対する共通の想いから「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表。この宣言がパグウォッシュ会議の開催へと発展した。
また、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの才能を早くに見抜き、親交を結ぶとともに、良き理解者として『論理哲学論考』の出版などを支援した。
数学者・論理学者として出発し、哲学者としてヘーゲリアンから経験論者に転向、以後その主張はかなりぶれがあったものの基本的にはモノ的対象を基礎とした現象主義もしくは随伴主義的唯物論をとる。
そののち、教育学者・教育者・政治運動家としても活躍した。
1950年ノーベル文学賞を受賞。『人道的理想や思想の自由を尊重する、彼の多様で顕著な著作群を表彰して』

ルドルフ・ロッカー

Rudolf Rocker, 1873年3月25日 - 1958年9月19日
アナルコ・サンディカリストの作家、歴史家でありアナーキズムの活動家。
1873年のドイツのマインツに生まれた。
おじの影響のもとで、青年期に社会主義者になり、社会民主党に入党する。
しかし党は彼にはあまりに教条的に見え、対立していた新左翼系の政党「青年たち」(Die Jungen)を支持したこと で、1890年に党から除名される。
1891年にはじめてアナーキズムの思想に出会う。
著名なロシアのアナーキスト理論家であるピョートル・クロポトキンの知遇を得、ロンドンのイーストエンドに住むユダヤ系移民労働者たちを組織することに全力を傾けた。
そのため彼は「アナーキストのラビ」として知られてもいる。
第一次世界大戦において、同盟国と協商国のいずれの陣営にも肩入れせず、1914年に敵国人として収容され、『労働者の自由』新聞は差し押さえられた1918年にロッカーはイギリスからオランダに強制送還され、結局ドイツへ帰国。
ドイツにおける国際的なアナルコ・サンディカリスト運動の主要人物になり、国際労働組合(IWA)の結成を導いた。
1933年には、新たなナチ政権の追及から逃れるために、再びドイツを去りアメリカ合衆国に入植する。
そこで彼は演説家として、著述家として、「ファシズムとコミュニズムという悪しき双子」とたたかうことに熱意を注ぐ彼の仕事を続ける。
人生の最後の二十年間を彼は、ニューヨークのクロンポンド(Crompond)地区にあるモヒガン族のコミュニティの指導的人物として活躍し、その死までずっと、合衆国でもっとも著名なアナーキストとして君臨した。

レヴィ・チビタ

1873年 - 1941年
イタリアの数学者。
その師リッチCurbastro Gregorio Ricci(1853―1925)とともに、1901年に「絶対微分学」を創始。
これはリーマン幾何学とその拡張、および理論物理学研究のための非常に強力な武器となった。
現にA・アインシュタインが16年に発表した一般相対性理論においては、この「絶対微分学」が縦横に活用された。
彼はさらに、17年に、それまでは主として解析的に研究されていたリーマン幾何学のなかへ「平行性」の概念を導入した。
これによってリーマン幾何学は一挙にその幾何学的な側面を取り戻した。
これは現在では「レビ・チビタの平行性の概念」とよばれている。
なお相対論、弾性学にも業績を残している。
[執筆者:矢野健太郎]YAHOO!百科事典より

ジョセフ・アーランガー

Joseph Erlanger、1874年1月5日 - 1965年12月5日
カリフォルニア州サンフランシスコで生まれ、ミズーリ州セントルイスで亡くなったアメリカ人の生理学者。
神経線維の様々なタイプを発見して、ハーバート・ガッサーとともに1944年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。

カール・ボッシュ

Carl Bosch、1874年8月27日 - 1940年4月26日
ドイツの化学者、工学者である。
ドイツのケルンで生まれ、シャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)と、ライプツィヒ大学(1892年から1898年まで)で学ぶ。
1899年にBASFで研究を開始した。
1908年から1913年までフリッツ・ハーバーと共にハーバー・ボッシュ法の開発を行った。
第一次世界大戦の後、高圧化学を用いて、ガソリンやメタノールの合成の研究を続けた。
1925年にはIG・ファルベンの創立者の一人となり、1935年には取締役会の会長となった。
1931年に高圧化学的方法の発明と開発によって、ノーベル化学賞を受賞した。
ハイデルベルクで死去した。
隕石の収集者としても知られ、彼のコレクションは1949年にイェール大学へ寄贈された。
ボッシュ (小惑星):小惑星番号7414番の小惑星。ボッシュにちなみ命名された。

J.G.アンダーソン

1874~1960
スウェーデンの地質学者、考古学者。
中国の地質調査に顧問としてまねかれ、中国の地質学、古生物学、考古学の分野で大きな貢献をした。
とくに中国考古学の基礎を確立したといわれる。
北京近郊の周口店で北京原人の発見を導き出したこと、河南省澠池(めんち)県仰韶(ぎょうしょう・ヤンシャオ)村の調査で中国新石器時代文化の標識遺跡となった仰韶遺跡を発見したこと、彩文土器(中国では彩陶と称する)の西方との関連を探るため甘粛省・青海省で発掘調査を行ったことなど中国国内で数多くの業績を残した。

ヘンリー・ハレット・デール

Henry Hallett Dale、1875年6月9日 - 1968年7月23日
イギリス人の脳科学者。
アセチルコリンが神経インパルスの伝達物質になっていることを発見して、オットー・レーヴィとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。

カール・グスタフ・ユング

1875年7月26日 - 1961年6月6日
スイスの精神科医・心理学者。
分析心理学の理論を創始し、1948年にはスイス・チューリッヒにユング研究所を設立し、ユング派臨床心理学の基礎と伝統を確立した。
フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近するも、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。
フロイトと別れた後は、人間心理はフロイト式の抑圧感情に還元され得る部分も存在する事は認めつつも、それは局面の一つ以上ではないと考え、フロイトが想定したよりも遙かに広く大きいものとして無意識を再定義し、人間の無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通するイメージを想起させる力動を「元型」と名付けた。
また、晩年、共時性(シンクロニシティー)の概念を提起した。

オットー・パウル・ヘルマン・ディールス

Otto Paul Hermann Diels、1876年1月23日 - 1954年3月7日
ドイツ人化学者である。
ベルリン大学の文献学の教授の息子であり、ベルリン大学のエミール・フィッシャーのグループで化学の博士号を得た。
1916年まではベルリン大学で、1916年から1945年まではキール大学で教鞭をとった。
2人の息子は第二次世界大戦によって死亡している。
1950年に彼の生徒であるクルト・アルダーとともにノーベル化学賞を「ジエン反応の発見とその応用」によって受賞している。
これはディールス・アルダー反応として知られている。

ヘンリー・ノリス・ラッセル

Henry Norris Russell、1877年10月25日 - 1957年2月18日
アメリカ合衆国の天文学者、1910年にアイナー・ヘルツシュプルングと独立にヘルツシュプルング・ラッセル図(HR図、Hertzsprung-Russell diagram)を提案した。
ニューヨークに生まれて、プリンストン大学などで学んだ。
1905年にプリンストン大学に戻り、1912年から1947年に引退するまでプリンストン大学天文台の所長を務めた。

ヤヌシュ・コルチャック

1878年7月22日 - 1942年8月
ポーランドの小児科医、孤児院院長で、児童文学作家。
ユダヤ系ポーランド人。
ワルシャワ大学で医学を学び、研修中のベルリンで障害児教育の現場に触れ、小児科医に。
1911年、新しく建設されるユダヤ人の孤児のための孤児院の院長のポストを受諾し、孤児院、ドム・シェロットに生涯を捧げた。
1939年ドイツのポーランド侵攻により大規模なユダヤ人に対する差別、迫害が始まり、1940年10月ドム・シェロットの教師と子供たちはゲットーへ移動を余儀なくされ、1942年8月には、200人の子供たちは、トレブリンカ強制収容所に移送された。
コルチャックは、子供たちを見捨てて自分だけが助かることを拒否し、子供たちと共に移動した。
日記の記載がそこで終わっているため、恐らく1942年8月5日、ナチスにより子供たちと共にガス室で殺害されたとみられる。
日本では1995年劇団ひまわりにより「コルチャック先生」が上演された。

ヴィンチェンツォ・チマッティ

1879年7月15日 - 1965年10月16日
イタリア中央部ファエンツァ出身のサレジオ会士・教育者。
1879年イタリア中央部ラヴェンナ市近郊の町ファエンツァに生まれる。
1896年トリノ市郊外にあるサレジオ会の名門リセ、ヴァルサリチェに入学。
1900年王立パルマ音楽大学を卒業し、王立トリノ大学で自然科学と哲学の博士号を取得。
1905年3月に司祭に任ぜられ、母校ヴァルサリチェの校長、修道院長を務めた。
1926年2月に宣教師団長として来日。
九州地方において宣教活動に従事した。
1933年宮崎市内に小神学校を設立。
1935年には宮崎、大分両県の教区長、1937年サレジオ会日本管区長となる。
多くの日本人司祭や修道士を育成し、日本における宣教活動や日伊文化交流に尽くした功績に対して、1956年にイタリア政府から共和国功労勲章を、また1963年には優れた音楽家、聖職者として日本政府から勲三等瑞宝章を贈られた。
オペラ『細川ガラシア』などの作曲でも知られる。

オスヴァルト・シュペングラー

オスヴァルト・アルノルト・ゴットフリート・シュペングラー(独: Oswald Arnold Gottfried Spengler、1880年5月29日 - 1936年5月8日)
ドイツの文化哲学者、歴史学者。
アメリカ合衆国、ロシア(ソ連)といった非ヨーロッパ勢力の台頭を受けて書かれた主著『西洋の没落』(Der Untergang des Abendlandes) は、直線的な考え方である当時のヨーロッパ中心史観・文明観を痛烈に批判したもので、その影響は哲学・歴史学・文化学、芸術など多方面に及んだ。

アーヴィング・ラングミュア

Irving Langmuir, 1881年1月31日 - 1957年8月16日
アメリカ合衆国の化学者、物理学者である。
1932年に界面化学の分野への貢献でノーベル化学賞を受賞した。
コロンビア大学を卒業後、ゲッティンゲン大学で、ヴァルター・ネルンストのもとで化学を学び、1909年からゼネラル・エレクトリックの研究所で研究を始め1950年まで在籍した。
また、「事実でない事柄についての科学」を病的科学として定義したことでも知られている。

ヘルマン・シュタウディンガー

Hermann Staudinger, 1881年3月23日 - 1965年9月8日
ドイツの化学者。
専門は有機化学および高分子化学。
多岐にわたる高分子研究の業績により、1953年にノーベル化学賞を受賞した。
有機合成化学において多くの役割を果たしたが、主要な業績は高分子の分野で、高分子化学の創始者といわれる。
アジドとホスフィンからホスフィンイミドを得るシュタウディンガー反応は、最初の報告者の一人であるシュタウディンガーにその名をちなむ。
1957年には夫人とともに来日し、昭和天皇と面会している。

クリントン・デイヴィソン

Clinton Joseph Davisson, 1881年10月22日 - 1958年2月1日
アメリカ合衆国の物理学者である。
1927年、レスター・ジャマー(Lester Halbert Germer, 1896年 - 1971年)と共に、ニッケル単結晶による電子線の回折を確認した。
これはルイ・ド・ブロイの物質波の予測を確認したものである。
1937年、別に電子線の回折実験に成功したジョージ・パジェット・トムソンとともにノーベル物理学賞を受賞した。
1902年にシカゴ大学に入学してロバート・ミリカンのもとで学んだが経済的事情で学業を続けられず、就職した。
ミリカムの推薦で大学の教官などを務めながら1908年シカゴ大学を卒業した。
1911年プリンストン大学で学位を得た。
第一次世界大戦が始まると、ウェスタン・エレクトリック研究所(後にベル研究所)で働くようになった。
ベル研究所でディヴィソンらはド・ブロイが物質波の考え方を発表する前から、ニッケルなどの金属に電子線をあててその反射を調べる実験を行っていたが、ニッケルを熱処理して再結晶させた時、回折現象が顕著に表れることを発見した。
1930年代からは電子線の技術・応用面の研究を行った。
1946年までベル研究所で働いた。
1928年にアメリカ科学アカデミーからコムストック賞、1931年にフランクリン協会からクレソン・メダル、1935年王立協会からヒューズ・メダルを受賞している。

アレクサンダー・フレミング

1881年 - 1955年
イギリスの細菌学者。
抗菌物質リゾチームと、アオカビ(Penicillium notatum)から見出した世界初の抗生物質、ペニシリンの発見者として知られている。

マックス・ゲルソン

1881年ドイツ生まれ。
医学生時代、自分の偏頭痛を食事制限でコントロールできることを発見する。
ミュンヘン大学病院結核専門部・部長を勤めた後、1933年、ニューヨークでアメリカの医師免許を獲得。
以後20年間に渡り、末期ガン患者の治療につとめた。

アマーリエ・エミー・ネーター

Amalie Emmy Noether, 1882年3月23日 - 1935年4月14日
20世紀初めに活躍したドイツ出身の女性数学者。
レオン・レーダーマンによれば「歴史上最も偉大な数学者の一人」であり、アルバート・アインシュタインによれば「(物理学に)最も価値ある貢献をした数学者」である。
環論において重要な概念であるネーター環を提唱した。
対称性があるところには それに対応する保存則が存在するというネーターの定理は物理学の分野の基本定理である。

ジョン・メイナード・ケインズ

John Maynard Keynes、1883年6月5日 - 1946年4月21日
イギリス生まれの経済学者、ジャーナリスト、思想家、投資家、官僚。
20世紀学問史において最重要人物の一人とされる。
経済学において有効需要(着想自体はミハウ・カレツキが先であるとされる)に基いてケインズサーカスを率いてマクロ経済学を確立させた。
経済学の大家アルフレッド・マーシャルの弟子であり、論敵アーサー・セシル・ピグーとは兄弟弟子、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインやブルームズベリー・グループとの交流は有名。
父のジョン・ネヴィル・ケインズも経済学者である。

ヴィクトール・フランツ・ヘス

Victor Franz Hess、1883年6月24日 - 1964年12月17日
オーストリア生まれで、後にアメリカ合衆国に移住した物理学者である。
1936年、宇宙線を発見した功績でノーベル物理学賞を受賞した。
英語名はヴィクター・フランシス・ヘス(Victor Francis Hess)。
オーストリアのシュタイアーマルク州ペッガウの近郊で生まれた。
1910年にグラーツ大学で学位を得た。
ウィーン大学などで放射線の研究を行った。
当時検電器に蓄えられた電荷が自然放電するのは、地球内部からの放射線によるものと考えられていたが、1912年、ヘスらは気球に乗って高度と放射線の強さの関係を測定した。
上空に行くほど放射線強度が増加することを見出して、放射線が宇宙起源であることを示した。
この功績で1936年のノーベル物理学賞を受賞した。
1919年からグラーツ大学の非常勤教授となった。
数年アメリカで研究した後1925年にグラーツ大学の常勤教授、1931年にインスブルック大学教授になったが、ナチスの台頭を嫌い、1938年にアメリカへ渡ってニューヨークのフォーダム大学の教授となった。
1944年にアメリカの市民権を得た。
1964年にニューヨークで没した。

ヤコブ・アルベリオーネ

1884年4月4日-1971年11月26日
北イタリアのクネオ県アルバに近いサン・ロレンツォ・ディ・フォッサーノで、貧しい農家の子供として生まれる。
両親は信仰があつく働き者。
誕生の翌日、彼は家からかなり離れたサン・ロレンツォ教会で洗礼を受けた。
ヤコブ・アルベリオーネ神父は、その生涯において五つの修道会、四つの在俗会、一つの協力者会のあわせて十の会を創設した。
そのうちの四会(聖パウロ修道会、聖パウロ女子修道会、師イエズス修道女会、聖パウロ協力者会)は日本で活動している。

オーギュスト・ピカール

1884年 – 1962年
スイスの物理学者、気象学者、冒険家。
宇宙と深海に対して大きな関心があった。
1884年、スイスのバーゼルに双子の兄弟として生まれた。
1931年5月27日、宇宙線やオゾンを研究するために、自らが設計した水素気球に乗ってドイツのアウグスブルグ上空16000mの成層圏に達した。
これは世界初の気球による成層圏到達である。
この気球は直径30mと大型のもので、地上と上空の気圧の差を巧みに利用したものであった。
1932年8月18日には自らの高度記録を更新している。
彼はその後も気球に乗り続け、計27回の浮上で最高記録は23000mであった。
1930年代からは深海への到達を志すようになった。
第二次世界大戦のため研究の遅れもあったが、1948年、気球の原理を応用して深海観測船(バチスカーフ)を発明した。
1954年、自らが発明したバチスカーフで4000mの深海に到達した。

ヘルマン・クラウス・フーゴー・ワイル

Hermann Klaus Hugo Weyl, 1885年11月9日 - 1955年12月8日
ドイツの数学者。数論を含む純粋数学と理論物理学の双方の分野で顕著な業績を残した。
20世紀において最も影響力のある数学者であるとともに、初期のプリンストン高等研究所の重要なメンバーであった。
研究の大半はプリンストンとスイス連邦工科大学で行われたものであったが、ダフィット・ヒルベルトとヘルマン・ミンコフスキーによって確立されたゲッティンゲン大学の数学の伝統の継承者でもあった。

カール・リッター・フォン・フリッシュ

Karl Ritter von Frisch, 1886年11月20日 - 1982年6月12日
オーストリアの動物行動学者で、動物行動学という学問分野の創設に大きな功績を残した。
ミュンヘン大学の動物学の教授としてミツバチの研究をし、彼らのコミュニケーション手段としての8の字ダンス、また紫外線に鋭敏な感覚を持ち合わせていることを発見した。
フリッシュの実験的で包括的な研究、ミツバチで発見された複雑な行動、魚類の鋭い知覚の解明、動物行動の理解への自然選択の導入は、その後の動物行動学者にとって非常に重要だった。
1973年にそれらの功績に対して、ニコ・ティンバーゲン、コンラート・ローレンツと共にノーベル生理学・医学賞が贈られた。

サー・ジュリアン・ソレル・ハクスリー

写真はブログ「さてはてメモ帳 Imagine & Think!」から拝借いたしました。

Sir Julian Sorell Huxley、1887年6月22日 - 1975年2月14日
イギリスの進化生物学者、ヒューマニスト、国際間協力の推進者。
自然選択説を強力に擁護し20世紀中盤の 総合進化説の形成を主導した。
1935年から1942年までロンドン動物学会の事務局長、1946年から1948年までユネスコの初代事務局長を勤めた。
世界自然保護基金の創設メンバーでもある。
ハクスリーは書籍や記事、ラジオ、テレビで科学啓蒙活動を続けたことでよく知られていた。
1953年にユネスコから科学普及の功績に対してカリンガ賞を贈られた。
1956年にはロンドン王立協会からダーウィンメダルを受賞した。
ダーウィンとウォレスが自然選択説を発表してからちょうど100年後の1958年にはロンドン・リンネ学会からダーウィン=ウォレス・メダルが贈られ、同年ナイトに叙された。
1959年に人口問題に関する家族計画分野でラスカー財団から特別賞を受賞した。
イギリスの著名なハクスリー一族の出身で、彼の弟には作家のオルダス・ハクスリーがいる。

エルヴィン・ルドルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー

1887年8月12日 - 1961年1月4日、ウィーン生まれ
オーストリアの理論物理学者。
波動形式の量子力学である「波動力学」を構築した。
量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式やシュレーディンガーの猫などにより一般にも広く知られている。
1933年にノーベル物理学賞を受賞。
同年、ナチス・ドイツの台頭とともにドイツを去り、アイルランドのダブリンへ亡命。
戦時中からさらに広い領域に活動を進め、1944年『生命とは何か』によって分子生物学への道を開く。
1958年には『精神と物質』によって人間の精神世界の解明にとりくんだ。
「量子力学」の基礎になった波動方程式は、東洋の哲学の諸原理を記述している、と著書の中で語っている。
科学の多くの領域に足跡を残した20世紀の巨人。
私生活では、奔放な生き方で知られ、ムーアによる伝記研究で明らかにされたとおり、小児性愛者でとりわけ幼女との接触を好んだ。

銭玄同(ちえん しえん とん、せん げんどう)

1887年9月12日(清光緒13年8月初8日)-1939年1月17日
中華民国の言語学者、中国新文化運動の先駆者の1人とされる。
本名は銭夏。字は德潜。号は「疑古」。
幼少時に家塾で学び、1906年に日本の早稲田大学に留学し、師範を専攻。
1907年に東京で章炳麟の紹介で中国同盟会に入会。
1908年に銭玄同と友人魯迅、黄侃など一緒に章炳麟に師事し、そこで古文経学、小学(文字の形体・音韻・訓詁について研究した。

レオポルト・ルジチカ

ルジツカと表記される場合もある、あるいはラヴォスラフ・スチェパン・ルジチカ
Leopold Stephan Ružička, Lavoslav Stjepan Ružička , 1887年9月13日 - 1976年9月26日
クロアチア(当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国のスラボニア Szlavónia)ブコバル出身の有機化学者。
後にスイスに帰化。
バーゼル大学及びカールスルーエ大学で修学し、カールスルーエ大学のヘルマン・シュタウディンガーの下で学位を取得した。
1956年にユトレヒト大学教授となり、1929年にチューリッヒ工科大学教授となる。
テルペノイド、ステロイド、環状ケトンの研究で知られる。
1939年にノーベル化学賞を受賞した。
テルペノイドについてのイソプレン則の提唱で特に有名。
これによりテルペノイドの構造の解明に一役かった。ステロイドについては1934年にアンドロゲンの合成に成功、翌年1935年にはテストステロンの合成に成功した。
環状ケトンについてはムスコンやシベトンの構造解明並びに合成に成功し、巨大な環式化合物の存在を明示した。

ヴァルター・ベンヤミン

1892年7月15日 - 1940年9月26日
ドイツの文芸評論家。
思想家、エッセイスト、翻訳家、また、一部では哲学者としても知られる。
ベルリンの裕福なユダヤ人家庭に生まれ、幸福な少年時代を送る。
第二次世界大戦中、 ナチスの追っ手から逃亡中、ピレネーからスペインヘの入国をはかって足止めにあい、強制連行の直前に服毒自殺を遂げた。
ベンヤミンが自殺するまで肌身離さずに持っていた原稿こそがパサージュ論であると言われている。
第二次世界大戦勃発後、原稿の散逸を恐れてパリ市内の国立図書館に原稿を隠した。
このときに原稿を受け取って秘匿に協力したのは、当時国立図書館の司書を務めていたジョルジュ・バタイユである。
『パサージュ論』は長らく準備していながらも未完に終わった大部の著作のためのノートを中心とした草稿群で、19世紀から20世紀におけるパリの町並みの変遷や歴史についての考察が網羅的に記述されている。

郭沫若(かく まつじゃく

グオ モールオ、1892年11月16日-1978年6月12日
中華民国、中華人民共和国の政治家、文学者、詩人、歴史家。
中国の近代文学・歴史学の先駆者。
1914年日本に留学、23年九州大学医学部卒業。
26年国民革命軍の北伐に参加、27年蒋介石のクーデターにあい日本に亡命、千葉県市川に居を構え、中国古代社会の研究に専念した。
抗日戦開始直後に帰国し、国共合作下の国民革命軍総政治部第三庁庁長として宣伝工作を担当。
抗戦中期からは反動傾向を強めた国民党に対する批判を『屈原』ほかの歴史劇に込め、大きな反響をよんだ。
第二次世界大戦後は反内戦、民主主義の運動の先頭に立ち、解放後は、副総理、科学院院長などの要職を歴任する一方、古代史研究、史劇などに多くの仕事を残した。

マキシミリアノ・マリア・コルベ

1894年1月8日 - 1941年8月14日
ポーランド人のカトリック司祭。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男の身代わりとなった事で知られ、「アウシュビッツの聖者」といわれる。
カトリック教会の聖人で記念日は8月14日。
通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベと9人は互いに励ましあいながら死んでいったといわれている。
時折牢内の様子を見に来た看守は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。
2週間後、コルベを含む4人はまだ息があったため、フェノールを注射して殺害された。
1998年にはロンドンのウェストミンスター教会の扉に「20世紀の殉教者」の一人としてコルベの像が飾られた。
日本には、1930年長崎に上陸。
大浦天主堂の近くに住み、のち、町はずれの山の斜面に「無原罪の園修道院」と「ルルド」を開き、聖母の騎士誌の発行と学園教育に専念した。
現在、同敷地内に教育施設として聖母の騎士高等学校と幼稚園がある。

ダニエル・キャディ・ダロウ

Daniel Cady Darrow,1895-1965
アメリカ、ノースダコタ生まれ。
ダロウ液の発明者。
1927年に入局したエール大学の小児科で下痢による脱水で苦しむ4才男児の患者と出会う。
少年の体液のphが極端にアルカリに傾倒し、しかもカリウムが欠乏していることに気付くと、先にハルトマンが提唱していた乳酸リンゲル液にカリウムを加えた輸液を患者に与え、症状を軽減させることに成功した。
これが「KN補液3A」(大塚)などの原形となり汎用されるにいたっている。

タデウス・ライヒスタイン

Tadeus Reichstein,1897年7月20日-1996年8月1日
ポーランドのノーベル生理学・医学賞を受賞した化学者。
ポーランドのヴウォツワヴェック(Wloclawek)で生まれる。
1933年にビタミンCの合成に成功。
1950年にエドワード・カルビン・ケンダルとフィリップ・ショウォルター・ヘンチと共に副腎皮質ホルモンからコルチゾンを単離する研究により、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
ビタミンCの工業的な人工合成法にはいまだに彼の名が見られる。

バーバラ・マクリントック

Barbara McClintock、1902年6月16日 - 1992年9月2日
アメリカの生物学者。
1902年にコネチカット州ハートフォードに生まれ。
トウモロコシを用いた染色体の研究で知られる。
トランスポゾンの発見により1983年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。
1923年にコーネル大学卒業。
1927年に同大学で植物学の分野で博士号を得る。
コーネル大学やNRCで研究員を務めた後、1936年から1941年までミズーリ大学で助手になる。
1942年から1967年にワシントン・カーネギー協会の遺伝子部門のコールド・スプリング・ハーバー研究所の研究員となる。
マクリントックがトランスポゾンの存在を発見した時代は1944年にオズワルド・アベリーらによって DNA が遺伝物質であることが証明される以前の時代であり、余りに先駆的な学説に長らく学会にて無視されていた時代もあった。
その学説が後年の分子生物学の技術の発展により証明されるに至り、81歳と高齢でのノーベル賞受賞となったが、その一報を聞いたマクリントックは「まあ!」と一言つぶやいていつもの様にトウモロコシ畑に帰って行ったという。
また1970年には、ニクソン大統領よりアメリカ国家科学賞を、1982年には、利根川進(1987年ノーベル医学賞受賞者)と共にコロンビア大学よりルイザ・グロス・ホロウィッツ賞を授与されている。

アーネスト・ウォルトン

Ernest Thomas Sinton Walton, 1903年10月6日 - 1995年6月25日
アイルランド生まれの物理学者。
1951年ジョン・コックロフトと加速荷電粒子による原子核変換の研究における功績によりノーベル物理学賞を受賞した。
1932年直流高電圧により加速した陽子をリチウムの原子核に衝突させて、原子核を壊すことに成功した。
アイルランド南東部のダンガーバンに生まれた。
ベルファストのメソディスト・カレッジを卒業し、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジを1927年に卒業した。
その後1934までキャベンディッシュ研究所にて、アーネスト・ラザフォードの下で研究した。
1932年コックロフトと加速した陽子をリチウムなどの軽元素の原子核に衝突させて、ヘリウムの原子核に変換させることに成功した。
最初の人工原子核反応である。
1934年にダブリン大学のトリニティ・カレッジに戻り、1946年にErasmus Smith教授職についた。

ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル

1905年6月21日 - 1980年4月15日
フランスの哲学者、小説家、劇作家、評論家。
事実上の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。
強度の斜視があり、後に右目を失明。
2歳で父と死別し、母方の祖父であるシャルル・シュヴァイツァー(ノーベル賞受賞者アルベルト・シュバイツァーの実兄)の家に引き取られる。
シャルルはドイツ語の教授で深い教養を持ち、サルトルの学問的探究心を刺激した。
1928年にアグレガシオン(1級教員資格)試験に落第。
サルトルを知るものはみな驚くが、翌年首席で合格。
このころ、同試験の第2位で生涯の伴侶となるシモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合った。
1945年にはボーヴォワールやメルロー=ポンティらと雑誌『レ・タン・モデルヌ』を発行。
以後、著作活動の多くはこの雑誌を中心に発表され、評論や小説、劇作を通じて、戦後、サルトルの実存主義は世界中を席巻することになり、特にフランスにおいては絶大な影響力を持った。
1964年にはノーベル文学賞に選ばれたが、「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」と言って、これを辞退。
肺水腫により74年の生涯を閉じたときにはおよそ5万人がその死を弔い、遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬されている。

ディートリッヒ・ボンヘッファー

Dietrich Bonhoeffer, 1906年2月4日 - 1945年4月9日
ドイツのルター派(福音ルーテル派)の牧師。
20世紀を代表するキリスト教神学者の一人。
第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、極めて限定された条件の中で著述を続けた。
その後、暗殺計画は挫折。
ドイツ降伏直前の1945年4月9日、処刑を急ぐナチスにより、フロッセンビュルクの収容所で刑死。
ベルリン国立図書館の一階には、絞首台のロープが首にかけられたボンヘッファーを描いた大理石の胸像が展示されている。

クルト・ゲーデル

1906年4月28日-1978年1月14日
現チェコ、ブルノ生まれの数学者・論理学者。
完全性定理及び不完全性定理、連続体仮説の相対的無矛盾性などの業績が有名。
その他、アインシュタインの一般相対性理論における「ゲーデル解」(1949年)(アインシュタインとは家族ぐるみで親密に交流)1970年台初頭には、ライプニッツによる「神の存在証明」を洗練し「ゲーデルの神の存在証明」などがある。
1940年頃にはナチス・ドイツを逃れて妻アデルとアメリカ合衆国に移住したが、この時点ですでに人間不信に近い症状が出、晩年は精神にも失調をきたし、妻以外が作った食事は口にせず、妻の入院していた間に飢餓状態となり、プリンストン病院で死去。
彼の絶筆はガベルスベルガーと呼ばれる古い速記法で書かれていたため、解読は出来なかったと言われる。

シモーヌ・ヴェイユ

Simone Weil, 1909年2月3日 パリ、フランス - 1943年8月24日 ロンドン、イギリス
フランスの哲学者である。
父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。
リセ時代、哲学者アランの教えを受け、若くしてパリの女子高等師範学校に入学、哲学のアグレガシオン(1級教員資格)を取得する。
1936年、スペイン内戦に際して、全国労働連合(CNT)のスペイン無政府主義者と一緒にスペインナショナリストと戦った。
1942年、シモーヌ抜きでは決して出発しなかったであろう両親に従ってアメリカへ渡った。
その後、ロンドンに移り、フランスレジスタンス運動に参加した。
戦争の悲惨さ、残酷さに抗議してハンストを行い、1943年、34歳でその生涯を閉じる。
主著は『重力と恩寵』『神を待ちのぞむ』『根をもつこと』など。

ニールス・イェルネ

Niels Kaj Jerne、1911年12月23日 - 1994年10月7日
イギリス生まれのデンマークの免疫学者。
1984年に免疫制御機構に関する理論の確立とモノクローナル抗体の作成法の開発により、ジョルジュ・J・F・ケーラー、セーサル・ミルスタインと共にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
1943年から1956年まで、デンマーク国立血清研究所の研究員を務め、この時に抗体形成についての理論を確立した。
仕事の帰り道、自転車でコペンハーゲンのLangebroを横切っているときにこの画期的な科学的な考えを思いついたと言われている。
彼は、現代の免疫学の大家として歓迎され、多数の名誉博士号を受け、多くの学会の会員となっている。

海外編

↑ PAGE TOP