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政治家・軍人(生年順)

1869(明治2)年以前


大久保 忠教(おおくぼ ただたか)

永禄3年(1560年) - 寛永16年2月29日(1639年4月2日)
戦国時代の武将。徳川家臣・大久保忠員の八男。通称の彦左衛門で有名。
『三河物語』の著者としても知られる。
三河国上和田(愛知県岡崎市)に生まれ、17歳のときに兄忠世と供に遠江平定戦に参加。
犬居城での合戦が初陣という。
以後忠世や忠佐らの旗下で各地を転戦。
関ヶ原の戦いでも家康本陣で槍奉行を務め活躍した。
大坂の陣にも槍奉行として従軍。
家康死後も徳川秀忠の上洛に従い、徳川家光の代になって旗奉行となっても晩年まで武士としての生き方を貫いた。
死の間際に家光から5000石の加増をうけたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。

青木 周藏(あおき しゅうぞう)

天保15年1月15日(1844年3月3日) - 大正3年(1914年)2月16日
明治、大正期の外交官、政治家。勲等は勲一等。爵位は子爵。
妻はドイツ貴族の令嬢エリザベート。
21歳で蘭学者・青木研蔵の養子となり青木テルと結婚するも離婚。
養子のままエリザベートと再婚した。
第1次伊藤内閣の井上馨外務大臣のもとで外務次官となり、全権委任状を下付されて条約改正会議に出席するなど1887年まで井上外交を支えた。
その後も条約改正交渉の中心人物として活躍。
1894年(明治27年)駐英公使として陸奥宗光外務大臣とともに条約改正に尽力、アレクサンダー・フォン・シーボルトを通訳として日英通商航海条約改正に成功した。
1906年(明治39年)には駐米大使として移民問題の解決につとめた。

蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき)

弘化3年8月8日(1846年9月28日)- 大正7年(1918年)2月10日
江戸時代末期の大名。
阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。
文部大臣、東京府知事、貴族院議長を歴任した。
慶応4年(1868年)1月、父の急死により家督を継ぐ。
しかし父斉裕の死が鳥羽・伏見の戦いの最中であったことから、藩内は大混乱をきたした。
その後の戊辰戦争では新政府側に与して奥羽にも兵を送ったが、相次ぐ藩内の混乱のため、新式のイギリス軍備を導入していたにもかかわらず少数の藩兵しか送れず、諸藩からの冷評を受けたとまで言われている。
明治維新後はオックスフォード大学に留学した。
1882年から1886年まで駐フランス公使。
帰国後、第11代東京府知事(1890年 - 1891年)、第2代貴族院議長(1891年 - 1896年)、文部大臣等を務め、麝香間祗候の待遇を受ける。

星 亨(ほし とおる)

嘉永3年4月8日(1850年5月19日) - 明治34年(1901年)6月21日
日本の政治家。
陸奥宗光の推挙で明治政府に入り、一時横浜税関長となるが、英国のクイーンを「女王」と訳し、「女皇」と訳すべしとするイギリス公使パークスの抗議に、自説を主張し一歩も譲らず、いわゆる「女王事件」を引き起こし、引責辞任した。
辞任後、法律研究のためイギリスに渡り、日本人初の法廷弁護士資格を取得。
帰国後は国内で司法省付属代言人(弁護士)の第1号となって活躍。
その後、政界に復帰。星の政治手法は、積極財政をすすめて地域への利益誘導をはかり、支持獲得を目指す積極主義をとったが、一方で収賄などの噂も絶えず、日本の政党政治と利益誘導の構造すなわち金権型政党政治を築いたとされる。
数々の汚職疑惑で今も昔も金権政治の権化と評されているが、私生活では慎ましく実直であったと言われ、暗殺後に明らかになった彼の遺産は1万円余りの借財だけだったという。
東京市議会議長であった明治34年(1901年)、伊庭想太郎(心形刀流剣術第10代宗家)により市庁参事会室内で刺殺された。満51歳没。
なお、所蔵していた蔵書は星光および遺族より、大正2年(1913年)に慶應義塾大学に寄贈され、「星文庫」として保管されている。

小松原 英太郎(こまつばら えいたろう)

写真はサイト「文部科学省の歴代大臣」より
嘉永5年2月16日(1852年3月6日) - 大正8年(1919年)12月26日
岡山県出身の戦前の官僚・政治家。
錦鶏間祗候、枢密顧問官、埼玉県知事、静岡県知事、長崎県知事、司法次官、内務次官、文部大臣、農商務大臣、貴族院勅選議員、東洋協会会長、皇典講究所長、大阪毎日新聞社社長、日華学会長、斯文会会長、國學院大學学長、内務省警保局長等、ベルリン公使館駐在を歴任。
拓殖大学第2代総長。位階勲等は従二位勲一等。

飯沼 貞吉(いいぬま さだきち)

嘉永7年3月25日(1854年4月22日) - 昭和6年(1931年)2月12日
白虎隊士(士中二番隊所属)。
維新後は逓信省通信技師、陸軍大尉。孤舟、孤虎と号した。
年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。
維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍した。
1931年(昭和6年)2月12日、77歳で生涯を終えた。
戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。正五位勲四等。

高橋 是清(たかはし これきよ)

1854年9月19日〈嘉永7年閏7月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉2月26日
日本の幕末の武士(仙台藩士)、明治、大正、昭和時代初期の官僚、政治家。
第20代内閣総理大臣(在任 : 1921年〈大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。
財政家として知られているため総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は「ダルマさん」。

1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額、時局匡救事業で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた(リフレーション政策)。
五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。
続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任(5度目)。
また1934年(昭和9年)に、共立学校出身に当たる岡田啓介首班の内閣にて6度目の大蔵大臣に就任。
当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ、暗殺された。享年82(満81歳没)。
葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれた。

頭山 満(とうやま みつる)

1855年5月27日(安政2年4月12日) - 1944年(昭和19年)10月5日
福岡県出身
アジア主義(あるいは「大アジア主義」とも)の立場で運動をおこなった右翼の巨頭、国家主義運動家、篤志家、実業家(鉱山経営者)、黒幕。
幼名は乙次郎。
金玉均や孫文、ラス・ビハリ・ボースら日本に亡命した革命活動家らへの援助を積極的に行ない、アジア各国に多くの人材を送り出した。

山本 達雄(やまもと たつお)

安政3年3月3日(1856年4月7日) - 1947年(昭和22年)11月12日
明治後期から戦前昭和期の日本の銀行家・政治家。
43歳で第5代日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した。

福本 日南(ふくもと にちなん)

安政4年5月23日(1857年6月14日) - 大正10年(1921年)9月2日
日本のジャーナリスト、政治家、史論家。
平野国臣とも親交のある勤王家であった、福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生まれる。
藩校修猷館に学び、後に長崎において谷口藍田(中秋)に師事し、更に上京して岡千仭に師事して専ら漢籍を修めた。
明治9年(1876年)、司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、「賄征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で、原敬・陸羯南・国分青崖・加藤恒忠らと共に退校処分となる。
明治22年(1889年)陸羯南・国分青崖・古島一雄らと新聞『日本』を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。
明治24年(1891年)7月、アジア諸国および南洋群島との通商・移民のための研究団体である東邦協会を設立する。
その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる。
明治40年(1908年)、第10回衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し、衆議院議員に当選する。
同年、『元禄快挙録』(現在は岩波文庫全3巻)の連載を開始、現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立する。

後藤 新平(ごとう しんぺい)

写真提供:水沢市教育委員会社会教育課文化財係

安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日
明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。
台湾総督府民政局長(のち民政長官)として民政統治の確立に努める。
さらに満鉄の初代総裁として広軌鉄道施設・撫順炭砿開発・大連病院建設など満州経営の基礎を作る。
1908年(明治41)第2次桂内閣に逓信相として入閣、新設の鉄道院・拓殖局の両総裁も兼ねる。
1920年(大正9)東京市長に就任、いわゆる8億円計画という都市改造案を提案。
山本権兵衛内閣の内相に返り咲き、関東大震災の復旧処理に当った。
日本ボーイスカウト初代総裁。

山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう)

1858年2月6日(安政4年12月23日) - 1927年(昭和2年)9月24日
日本の官僚。
元老山縣有朋の養子で公爵を継いだ。旧姓は勝津。
勝津兼亮と山縣有朋の姉・壽子の間に次男として生まれる。
明治維新の立役者の一人であった山縣有朋には山縣家を継ぐべき子供がいなかったため、甥である伊三郎を養子とした。
ドイツ留学後、内務官僚として徳島・三重県知事、地方局長、内務次官などを歴任した。

尾崎 行雄(おざき ゆきお)

↑ 「尾崎行雄を全国に発信する会」の写真で見る咢堂より
安政5年11月20日(1858年12月24日) - 昭和29年(1954年)10月6日
日本の政治家。
日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。
正三位勲一等(昭和21(1946年)返上)。
明治36年(1903年)から同45年(1912年)まで9年にわたり東京市長に就任。
市長在任中にアメリカ合衆国へソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマック川に植樹された。
だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されてしまい、後に3100本の桜が新たに植樹されている。
永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。
号は咢堂(がくどう)。

石渡 敏一(いしわたり びんいち)

1859年(安政6年)10月 - 1937年(昭和12年)11月18日
官僚、政治家。法学博士。
大審院検事、司法次官、貴族院勅選議員、枢密顧問官。法典調査会刑法起草委員。正三位勲一等。

加藤 高明(かとう たかあき)

万延元年1月3日(1860年1月25日) - 大正15年(1926年)1月28日
日本の外交官、政治家。
愛知県出身。
第24代内閣総理大臣。
娘は岡部長景の妻。新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。
東京大学法学部を首席で卒業し、三菱に入社。
岩崎弥太郎の長女と結婚。
官界に転じ、大蔵省銀行局長、駐英公使などをつとめる。
また、各内閣の外相を歴任。
大正13年(1924年)内閣総理大臣就任。
翌年普通選挙法、治安維持法、日ソ基本条約を成立させた。
また、この内閣には元総理の高橋是清、加藤のあと次々と総理となる若槻禮次郎、濱口雄幸、幣原喜重郎(臨時)、犬養毅が閣僚におり、本格的な政党政治時代のスタートに相応しい内閣であったと言えよう。

高田 早苗(たかた さなえ)

安政7年3月14日(1860年4月4日) - 昭和13年(1938年)12月3日
明治・大正・昭和期の政治家、政治学者、教育家、文芸批評家。
衆議院議員、貴族院議員、早稲田大学総長、文部大臣などを歴任した。
号は半峰。
妻は前島密(まえじまひそか)長女。
江戸・深川(現在の東京都江東区)出身。
東京大学文学部哲学政治学及理財学科卒業。
大隈重信の立憲改進党に加わり、大隈とともに東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立にも参加し、早稲田の運営に力を注ぎ、初代学長に就任(初代総長は大隈重信)。
教育者として早稲田大学の運営に携わる間に、明治23年(1890年)、第1回衆議院議員総選挙に埼玉二区(現川越市)から立候補し全国最年少で当選、立憲改進党系の政党に参加し、通算6期務めた。
早稲田大学の経営に専念するため1903年12月の議会解散以後は政界から暫く離れたが、1914年に第2次大隈重信内閣が誕生し、翌年内閣改造が行なわれると、文部大臣に就任、再び政界で活動することとなった。
早稲田大学の式服や式帽、校旗などを定めることを発案し、職制なども定め、また、早稲田大学教旨の制定を発議した。
現在、早稲田大学にある高田早苗記念研究図書館は、高田の早稲田大学への功績をたたえて名づけられた。

中橋 徳五郎(なかはし とくごろう)

写真はサイト「文部科学省の歴代大臣」より

文久元年9月10日(1861年10月13日) - 昭和9年(1934年)3月25日
加賀(石川県)出身の戦前日本の政治家。
近代日本人の肖像「解説」より以下引用
金沢藩士・齋藤宗一の五男。中橋家の養嗣子となる。
明治19年(1886)帝国大学法学部選科を卒業。
判事試補、農商務省を経て、31年逓信省鉄道局長を最後に官界を退き、大阪商船社長に就任。
後に宇治川電気社長、日本窒素肥料会長なども兼任。
関西財界の重鎮となる。
大正3年(1914)政界に転じて、立憲政友会に入り、5年衆議院議員に当選。
以後当選6回。原内閣、高橋内閣の文相。高橋内閣では内閣改造に反対し、高橋と対立。
13年政友会を脱党し、政友本党を結成。
その後、政友会に復帰。田中義一内閣の商工相、犬養内閣の内相を歴任。

牧野 伸顕(まきの のぶあき)

文久元年10月22日(1861年11月24日) - 昭和24年(1949年)1月25日
明治から戦中にかけての政治家。
位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。
薩摩藩士・大久保利通の二男として生れ、生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。
吉田茂は娘婿、麻生太郎と寬仁親王妃信子は曾孫にあたる。
イタリア、オーストリア公使歴任ののち西園寺内閣の文部大臣、山本内閣で外務大臣を務める。
対外協調的な外交姿勢と英米型自由主義による政治姿勢を基調とし、一方では薩摩閥により広く政界、外交界、宮中筋と通じるという、独自の地位を築きあげた。
大正8年(1919年)、第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。
国際連盟規約に人種的差別撤廃を入れるよう提案し、世界で初めて人種差別撤廃を明確に主張した。→ウッドロウ・ウィルソン
二・二六事件の際には襲撃されるも、近親者の機転によって難を免れた。

杉山 茂丸(すぎやま しげまる)

元治元年8月15日(1864年9月15日) - 昭和10年(1935年)7月19日
明治から大正、昭和初期にかけて、それぞれの時代の政界実力者と結び、経済や外交、内政などにさまざまな献策を行った人物である。
自らは官職も議席も持たない在野の浪人であったが、山縣有朋、松方正義、井上馨、桂太郎、児玉源太郎、後藤新平、寺内正毅らの参謀役を務め、政界の黒幕などと呼ばれた。
実は戦国大名龍造寺隆信の末裔である。
長男は作家の夢野久作
孫はインド緑化の父と言われる杉山龍丸、詩人の杉山参緑。
戯号として其日庵(そのひあん)。
戒名は其日庵隠忠大観居士。

田中 隆三(たなか りゅうぞう)

1864年11月14日(元治元年10月15日) - 1940年(昭和15年)12月6日
明治から昭和初期の農商務官僚・政治家である。
出羽国楢山(のち秋田県秋田市)出身。
秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)、大学予備門、帝国大学(現東京大学)法科卒業。
農商務省鉱山局長・農商務次官を経て、その後実業界に入り秋田鉱山専門学校(現秋田大学工学資源学部)の設立に尽力した。
ついで政界に転じ、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙で当選した。
濱口内閣・第2次若槻内閣で文部大臣を務め、議員を7期務めて1932年(昭和7年)に引退した。
所属政党は当初政友会であったが、のちに民政党に移った。
引退後は終生枢密顧問官を務めた。

江口 定条(えぐち さだえ)

1865年4月1日 - 1946年3月14日
日本の実業家、政治家。
1931年南満州鉄道の副総裁に就任したが、民政党系であったため、翌年政友会の犬養内閣に罷免される。
当時総裁だった内田康哉はこの罷免に抗議し辞表提出。
1932年、勅選の貴族院議員となる。

小泉 又次郎(こいずみ またじろう)

慶応元年5月17日(1865年6月10日) - 昭和26年(1951年)9月24日
日本の政治家。
第87-89代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父。
横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長などを歴任した。
義侠心のある大衆政治家で、入れ墨があったことから「いれずみ大臣」「いれずみの又さん」などの異名をとった。

岡野 敬次郎(おかの けいじろう)

写真はサイト「文部科学省の歴代大臣」より

1865年11月9日(慶応元年9月21日) - 1925年(大正14年)12月23日
上野国岩鼻村(群馬県)出身の官僚、政治家、法学者。男爵。
法制局長官(第11代、第13代、第15代)司法大臣(第25代)、農商務大臣(第33代)、文部大臣(第41代)、枢密院副議長(第9代)、東京帝国大学法学部教授、中央大学学長を務めた。

床次 竹二郎(とこなみ たけじろう

銅像の写真「日本掃苔録」からお借りしました。
慶応2年12月1日(1867年1月6日) - 昭和10年(1935年)9月8日
日本の官僚、政治家、衆議院議員、内務大臣、鉄道大臣、逓信大臣、政友本党総裁。
鹿児島県士族。

武藤 山治(むとう さんじ)

1867年4月5日(慶応3年3月1日) - 1934年(昭和9年)3月10日
愛知県出身の実業家、政治家。
鐘紡社長、時事新報社社長などを務めた。
慶応義塾卒業後、アメリカに留学。
帰国後、銀座に日本初の新聞広告取次業を創始。
新聞記者等を経て、1893年中上川彦次郎による三井の改革時に招かれて三井銀行に入行。
翌年鐘淵紡績会社に移り、大正10年(1921)社長就任。
13年(1924)から代議士としても活動。
昭和5年(1930)鐘紡社長を辞任。
7年(1932)政界引退後時事新報社長となり、帝人事件で政財界の腐敗を糾弾中、狙撃され死去した。

平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう)

慶応3年9月28日(1867年)10月25日 - 昭和27年(1952年)8月22日
岡山県出身。
司法官僚。第35代内閣総理大臣。日本大学第2代総長。
大東文化学院(現大東文化大学)初代総長。
衆議院議員の平沼赳夫は、平沼騏一郎の兄である経済史学者で早稲田大学学長を務めた平沼淑郎の曾孫である。

頼母木 桂吉(たのもぎ けいきち)

慶応3年10月10日(1867年11月5日)- 昭和15年(1940年)2月29日
日本の政治家・実業家。
東京第一高等中学(旧制一高)卒業後、米国に留学。
帰国後、浅草区会議員を務めたのち実業界に転じ、東京毎日新聞(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞とは無関係)社長、第一自動車、日本タイプライター取締役、帝国通信社、ジャパンプレス社長などを務め実業家として名を馳せた。
報知新聞社の業務局長時代の1906年には、他社に先駆け夕刊を発行し読者を激増させた。
1906年欧米を視察し新聞事業を研究、3年後に帰国し日本初の新聞代理業・ジャパンプレスエージェンシーを創立。
また、生フィルムの輸入業をしていた関係で1910年、伊藤博文暗殺の実写映画を買い受け両国国技館で公開し利益を上げた。
日活の創立にも関係したといわれる。
1915年に衆議院初当選。以降連続9回当選。
1936年の廣田挙国一致内閣で逓信大臣となる。
大臣在任中、船舶六百万トン主義、海運国策五ケ年計画を打ち出し、積極的な造船業支援政策を実施した。
また電力国営化法案を提出、工業界に一大革命をもたらした。

鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう)

慶応3年10月11日(1867年11月6日)- 昭和15年(1940年6月24日
日本の司法官僚、政治家。
鳩山一郎は義弟(夫人の弟)。
司法官僚から、貴族院議員、清浦奎吾内閣の司法大臣、田中義一内閣の内務大臣を歴任し、衆議院議員から再度貴族院議員となった。
犬養毅暗殺後の立憲政友会第7代総裁(在任、昭和7 - 昭和12、1932年 - 1937年)を務めた。
検事の任にあったときには、辣腕家として知られ、「腕の喜三郎」の異名を取った。

高橋 光威(たかはし みつたけ)

慶応3年12月19日(1868年1月13日) - 昭和7年(1932年)4月9日
日本の衆議院議員(立憲政友会所属)。
越後国(現・新潟県)に生まれ、明治26年に慶應義塾大学部法律科卒。
明治36年、大阪日報入社(このときの社長は後の内閣総理大臣原敬)。
大正7年、原内閣内閣書記官長就任。

磯村 豊太郎(いそむら とよたろう)

1868年(明治元年)11月 - 1939年(昭和14年)10月26日
明治期の官僚、実業家、貴族院議員。
豊前国中津生まれ。
慶應義塾卒業後、後藤新平の紹介で安岡雄吉らと共に1880年(明治13年)、逓信省入り。
その後まもなく辞職して日本銀行に転じ、また転じて三井家に入る。
益田孝と面会し三井物産に入社。
北海道炭礦汽船に移り社長に就任。
日本工業倶楽部四代目総裁を務めた。
また、1929年(昭和4年)には貴族院議員に勅撰された。

井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ)

明治2年(1869年3月25日)- 昭和7年(1932年)2月9日
日本の政治家、財政家。
日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。

宇佐美 勝夫(うさみ かつお)

1869年6月21日(明治2年5月12日) - 1942年
日本の内務官僚、政治家。
富山県知事、東京府知事、貴族院議員などを歴任した。

久原 房之助(くはら ふさのすけ)

1869年7月12日(明治2年6月4日) - 1965年(昭和40年)1月29日
日本の実業家、政治家。
衆議院議員当選5回。
逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。
日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。
第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ進出。
「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。
戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。
その後日中・日ソ国交回復議長などを務めた。

藤原 銀次郎(ふじわら ぎんじろう)

明治2年6月17日(1869年7月25日) - 昭和35年(1960年)3月17日
日本の実業家、政治家。
戦前の三井財閥の中心人物の一人で、富岡製糸場支配人から王子製紙(初代)の社長を務め「製紙王」といわれた。
その後貴族院議員に勅選され、貴族院廃止まで在任。
米内内閣の商工大臣、東條内閣の国務大臣、小磯内閣の軍需大臣を歴任した。

勝田 主計(しょうだ かずえ)

明治2年9月15日(1869年10月19日)- 昭和23年(1948年)10月10日
愛媛県松山市出身の大蔵官僚、政治家。
東京帝国大学法科大学を卒業、大蔵省に入省。
大蔵次官を経て大正4年(1915年)に朝鮮銀行総裁に就任。
寺内内閣で大蔵大臣を務めた。
積極財政を展開し、西原亀三と対中国投資(西原借款)を企画、実現するも、この借款は主に段祺瑞政権の政治資金として使われ、成果を得るどころか、結局は回収できなかったため、帝国議会の轟々たる非難を浴びた。
その後、清浦内閣でも大蔵大臣を、田中義一内閣で文部大臣を務めた。
同郷の俳人・正岡子規とも親しく、その生涯で3万2千を超える俳句を詠んだ。

南 弘(みなみ ひろし)

1869年11月13日(明治2年10月10日) - 1946年(昭和21年)2月8日
日本の官僚・政治家。
1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、高等文官試験に合格し官僚となった。
官僚としては、内閣書記官を皮切りに主として内務省畑の諸職を歴任した。
累進して1908年(明治41年)に第1次西園寺内閣で内閣書記官長を務めたのち、1912年(大正元年)12月5日には貴族院議員に勅撰され、その後、翌1913年(大正2年)には福岡県知事、1918年(大正7年)には文部次官に、1932年(昭和7年)には第15代台湾総督に任ぜられた。
総督就任2ヶ月後の1932年5月、五・一五事件の直後成立した斎藤実内閣の逓信大臣に任じられ、富山県出身者としては初の大臣となった(在任期間2年2ヶ月)。
就任直後の同年7月、富山県にお国入りし、母校である仏生寺小学校で祝賀会が開かれた。
彼は、そのときの感動を次のように書き残している。
「村人は余が母校である小学校に集つて祝賀会を開いてくれた。此会ほど余が嬉しく感じたものは他に多くはない。一杯の酒は醍醐の法味、一臠の肉は大牢の滋味あるかの如く思はれた。集つた村人の中に小学校時代の同級生がたつた一人雑つて居た。互いに手を握つたまま少時言葉も出なかつた。」
(『南弘先生 その人と業績』117ページより引用)
学問をよくし、特に漢詩の素養は高く、青園と号して「青園詩草」という漢詩集を残した。
1937年(昭和12年)、内務省から保健・衛生部門等を独立させた新たな省を設立することとなり、その省名を検討していた際、中国の古典「書経」の「正徳利用厚生惟和」の一節から引用した「厚生省」の名を推薦して採用されており、「厚生省の名付け親」とも呼ばれている(同省は翌年発足)。

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