~丸メガネの情報が満載!~

丸メガネの情報が満載!

学者・文化人(生年順)

1875(明治8)年~1879(明治12)年


高木 貞治(たかぎ ていじ)

1875年4月21日 - 1960年2月28日
岐阜県出身の近世日本初の国際的数学者。
岐阜尋常中学校を経て第三高等中学校(現・京都大学)へ進学し、1894年に卒業。
帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ3年間留学。
ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。
代数的整数論の研究では類体論を確立し、クロネッカーの青春の夢を解決した。
これは、その後の日本の数学の発展に影響を与えた点でも重要である。
『解析概論』『初等整数論講義』『代数的整数論』など多くの定評ある数学教科書を著し、これらは、現在でも多くの学生や研究者に愛読されている。
また『近世数学史談』などの数学の入門的啓蒙書も偉大な傑作となっている。

清水 南山(しみず なんざん)

本名: 清水 亀蔵、1875年3月30日 - 1948年12月7日
広島県豊田郡能地村(現・三原市幸崎町能地)出身の彫金家。
日本画の大家である平山郁夫の祖母の兄。
広島県出身者としては初めて特待生として東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学した。
最初は絵画科(日本画)へ所属していたが、後に彫金科に編入した。
彫金科を卒業後に研究科で加納夏雄、海野勝珉に、塑造科で藤田文蔵に学んだ。
その後は独自の創作活動を続け、彫金界の第一人者としての地位を築いた。
その作風は伝統技法を大切にした格調高いもので、「梅花図鍍金印櫃」などの代表作を残している。
南山の専門とする彫金は金属面を鏨で彫り崩し、絵画的文様を表現するという極めて装飾性の高い技術である。
出典:ウィキペディア

横田 成年(よこた せいねん)


「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より

1875-1953
明治-昭和時代の航空学者,造船学者。
明治8年5月10日生まれ。
43年母校東京帝大の教授。
造船学を専攻したが、揺籃期のわが国の航空工学の研究基盤づくりにとりくむ。
大正7年東京帝大航空研究所設立と同時に初代所長に就任、また新設の工学部航空学科主任教授を兼任した。
昭和28年1月11日死去。77歳。京都出身。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 出典:講談社

鹿島 精一(かじま せいいち)

1875-1947
明治-昭和時代の実業家。 明治8年7月1日生まれ。
鹿島家の婿養子となり、明治45年鹿島組組長となる。
鉄道建設請負のほか、水力発電所建設などの土木・建築工事にも進出。
経営の近代化をはかる一方、業界の地位向上にもつくした。
昭和22年2月6日死去。73歳。岩手県出身。東京帝大卒。旧姓は葛西。
~デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説より

日高 胖(ひだか ゆたか)

1875年(明治8)6月15日 - 1952年(昭和27)12月20日
日本の建築家。東京府生まれ。
明治33年に東京帝国大学工科建築学科卒業と同時に住友本店に入り、臨時建築部に勤務した。
旧住友財閥において多くの建築物の設計を手がけた。
アール・ヌーヴォー様式の神本理髪店の設計や、住友ビルディングの建設の総指揮をとったことなどで知られる。
大阪府立図書館の左右両翼棟増築の際には、技師長としてその工事を完成させた。

馬場 恒吾(ばば つねご)

1875年7月18日 - 1956年4月5日
日本のジャーナリスト・政治評論家・実業家。
同志社神学校から東京専門学校(現・早稲田大学)政治科を卒業。
ジャパン・タイムス、国民新聞の記者を経て、読売新聞社の主筆・社長などを歴任した。
リベラリストの言論人として活躍。
憲法研究会メンバーとして日本国憲法制定議論にも関わった。

柳田 國男(やなぎた くにお)

1875年(明治8)7月31日 - 1962年(昭和37)8月8日
日本の民俗学を学問として構築した。
農政学を学び、のち民俗学者となった。
なお柳田の読みは「やなぎだ」ではなく「やなぎた」である。

長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん)

1875年(明治8年)11月30日 - 1969年(昭和44年)11月11日
日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、作家。
明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。
大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。
「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。

結城 素明(ゆうき そめい)

1875年12月10日 - 1957年3月24日
日本の画家、日本芸術院会員。東京生まれ。本名・貞松。
1890年天真画塾で川端玉章に師事する。
東京美術学校卒。
1900年旡声会、1904年東京美術学校助教授、1916年金鈴社結成に加わる。
文展に出品、1913年教授、1919年東京女子高等師範学校教授兼任、1923年から英独仏へ留学、1925年帝国美術院会員、1937年帝国芸術院会員、1944年従三位・勲二等瑞宝章受章、1945年東京美術学校名誉教授。

栗本 勇之助(くりもと ゆうのすけ)

1875年-1948年
和歌山県出身の実業家。
弁護士の道を捨て、1909年(明治42年)栗本鐵工所の初代社長に就任。
一大鉄管メーカーを築くとともに、大阪工業会の基礎を作った。
現在は株式会社栗本鐵工所、略称クリモト。

泉二 新熊(もとじ しんくま)

絵は「奄美の歴史と民俗」からお借りしました。

1876年(明治9年)1月27日 - 1947年(昭和22年)10月25日
日本の裁判官、官僚、刑法学者。
「慈愛の法学者」とも呼ばれる。
奄美大島出身。
東京帝国大学卒業後、司法省に入り、1915年(大正4年)大審院判事、1936年(昭和11年)検事総長、1938年(昭和13年)大審院長となる。
退官後、枢密顧問官、その間、刑法学者として折衷的客観主義の立場から刑事司法の解釈・実務論を展開、「泉二刑法」と称された。
東京帝大教授であった牧野英一と並ぶ戦前を代表する刑法学者である。
いわゆる「方法の錯誤」について、法定的符合説(抽象的法定符合説)を採った大正六年大審院連合部判決に関与した。
旧刑法には方法の錯誤の場合に故意犯の成立を認める誤殺傷罪があったが、現行刑法ではそれが削除された。
その立案関係者が関与した前年の大審院判決は具体的符合説を判示していたところ、判例変更したものである。
以降、最高裁も法定的符合説をとり、現在も判例の立場となっている。

高野 辰之(たかの たつゆき)

高野辰之
1876年4月13日(明治9年)- 1947年1月25日(昭和22年)

岡野 貞一(おかの ていいち)


岡野貞一
1878年2月16日(明治11年)- 1941年12月29日(昭和16年)

高野と岡野は年齢も近く、コンビで多くの唱歌を作った。
その中の代表作として、今も知らぬ人がない「故郷」があるが、 他に、「春の小川」「春が来た」「おぼろ月夜」「紅葉」などの 名曲も、「高野辰之作詞、岡野貞一作曲」である。

杉浦 非水(すぎうら ひすい)

1876年5月15日 - 1965年8月18日
愛媛県松山市出身の近代日本のグラフィックデザイナー。
本名、杉浦朝武(すぎうら つとむ)
東京美術学校(現東京藝術大学)日本画選科卒。
日本のグラフィックデザインの黎明期より活動し、商業美術の先駆けであり現代日本のグラフィックデザインの礎を築いた人物の一人。
東京美術学校在学中に洋画家の黒田清輝より洋画や欧風図案の指導を受け、図案家へ転向する。
雑誌の表紙などでモダンな欧風の図案(アール・ヌーボー)を発表し話題を集める。
日本美術学校図案科講師、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)図案科長などを経て、多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)の創設に参加し、校長・図案科主任を兼任する。
芸術院恩賜賞受賞、紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章。妻・杉浦翠子(1885-1960年)はアララギ派の歌人。

石川 三四郎(いしかわ さんしろう)

1876年5月23日 - 1956年11月28日
埼玉県出身の社会運動家・アナキスト・作家。筆名の「旭山」も使用する。 1901年に東京法学院を卒業後、朝報社を経て堺と幸徳秋水が1903年11月に開業した平民社に合流。
非戦論と社会主義を主張して週刊『平民新聞』、『直言』に多くの論説を発表する。
大逆事件に大きな衝撃を受け、ヨーロッパに渡り、ルクリュ一家やエドワード・カーペンターなどの著名なアナキストと親交を結ぶ。
第一次大戦後、日本に帰国。
大杉栄死後の日本のアナキズムの中心人物の一人となる。
多くのアナキストが満州事変前後に国家主義や軍国主義に共鳴し、農本主義などに絡めとられていく中、満州事変を鋭く批判し、決して軍国主義や国家主義に与せず、アナキズムの孤塁を守った。
デモクラシーを「土民生活」と翻訳し、独自の土民生活・土民思想を主張、大地に根差し、農民や協同組合による自治の生活や社会を理想としたが、権力と一線を画し下からの自治を重視した点において、農本主義とは異なるものだった。
太平洋戦争中は、独自の歴史観から東洋史研究にも取り組んだ。
敗戦直後に「無政府主義宣言」を書き、昭和天皇への共鳴と支持を主張。
左派やアナキストからの非難を受けたが、石川がもともと通常の右や左の範疇に属さない、独自の論理と思想の人間であったことを考えれば、戦中の抵抗も敗戦時の天皇支持も、一貫した独自の感性や思想に基づいたものだったといえる。

上中 啓三(うえなか けいぞう)

1876(明治9)年6月29日‐1960(昭和35)年1月11日
兵庫県出身の化学者。
東京衛生試験所をへて、明治33年ニューヨークの高峰譲吉の助手となり、同年高峰とともに世界ではじめて副腎からホルモンの抽出、結晶化に成功し、アドレナリンと命名。
帰国後三共にはいり、大正9年アドレナリンの国産化を指導した。
「アドレナリン」は高峰の死後、ジョンズ・ホプキンズ大学のJ.J.エイベルが「高峰の成果は自分の手法を盗んだもの」と主張し、エイベルの「エピネフリン」という名称が流通することになったが、1960年代に上中啓三の実験ノートの記述から、エイベルの主張がまったく的外れであっただけでなく、エイベルの方法(ベンゾイル化法)ではアドレナリンが結晶化しないことが判明。
高峰の名誉回復と「アドレナリン」の再評価が成された。

中村 天風(なかむら てんぷう)

1876年7月30日 - 1968年12月1日
日本初のヨーガ行者。天風会を創始し、心身統一法を広めた。東京都生まれ。
福岡の親戚の下で剣術、居合を修行。
現・修猷館高校では柔道部エースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した相手に闇討ちされ、その復讐を行う過程で相手を刺殺(ただし正当防衛は認められた)、修猷館を退学になる。
その頃、玄洋社の頭山満の知遇を得、16歳の時、陸軍の軍事探偵となり、満州へ。
軍事探偵として活躍し「人斬り天風」と呼ばれたという。
日露戦争後30歳で、病気の為に弱くなった心を強くする方法を求め、欧米を転々とするも、納得のいく答えを得られず。
1911年日本への帰国の途上、カイロにてインドのヨーガの聖人、カリアッパ師と邂逅。
そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガのふもとで2年半修行を行う。
1913年日本へ帰国途上、中国で孫文の第2次辛亥革命に「中華民国最高顧問」として協力。
その謝礼として財産を得、東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。
1919年突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。
政財界の実力者が数多く入会するようになり、発展。
1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。
1962年国の認可により「財団法人天風会」となる。
1968年12月1日死去。享年92。

尾上 柴舟(おのえ さいしゅう/しばふね)

1876年(明治9年)8月20日 - 1957年(昭和32年)1月13日
日本の詩人、歌人、書家、国文学者。
明治九年生れ、本人は柴舟をはじめシバブネとよんだ。
本名八郎、津山藩士北郷直衛の三男に生れ、同藩尾上動の養子となった。
津山小学校高等科卒業のころ、義父の竜野転勤で津山を去る途中、旭川を舟で下ったことが忘れられず柴舟と号したという。
ついで上京して府立一中・一高・東京帝大国文科卒。
お茶水女高 師(現女子大)教授となり、のち学習院に転じ、平安時代草仮名の研究をつづけるとともにその書家として聞こえてきた。
単短歌は一高時代落合直文門下となって新風を学び、大正3年水甕社をおこして主宰し、自然主義短歌の先駆をなし、晩年には温厚で内省的な性格と深い国文学的教養から歌風は円熟して典雅となった。
昭和32年没。

吉沢 義則(よしざわ よしのり)

1876年8月22日 - 1954年11月5日
国文学者・歌人。 京都帝大教授・文学博士。愛知県生。
学生時代に「若菜会」で活躍、その後は国語・国文学の研究に従ったが、雑誌「帚木」、歌集『山なみ集』等創作活動も意欲的に行った。
昭和29年(1954)歿、78才。

相馬 黒光(そうま こっこう)

1876年9月12日 - 1955年3月2日
夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家である。
明治女学校在学中に島崎藤村の授業を受け、国木田独歩とも交わり、文学への視野を広げた。
「黒光」の号は、恩師の明治女学校教頭から与えられたペンネームで、良の性格の激しさから「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」という意味でつけられたものと言われている。
卒業後まもない1898年長野県でキリスト信者の養蚕事業家として活躍していた相馬愛蔵と結婚し、愛蔵の郷里安曇野に住んだ。
しかし、勤め人を嫌った愛蔵の意向で、1901年東京本郷に小さなパン屋中村屋を従業員ごと買い取り、開業。
夫とともに、中華饅頭、月餅、インド式カリー等新製品の考案、喫茶部の新設など本業に勤しむ一方で、絵画、文学等のサロンをつくり、荻原碌山、中村彝、高村光太郎、戸張弧雁、木下尚江、松井須磨子、会津八一らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれた。
また、亡命したインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースらをかくまい、保護し、1918年には、長女俊子がボースと結婚した。
そのほか、ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコを自宅に住まわせ面倒をみ、ロシア語を学んだりした。
夫が死去した翌年の1955年、78歳で死去した。

中尾 都山(なかお とざん)

明治9(1876)年10月5日-昭和31(1956)年10月10日
大阪出身の尺八奏者で作曲家。
尺八を独習し虚無僧として修行した後、独自の演奏法を編み出し、明治29年(1896年)に都山流を創始した。
昭和28年日本芸術院賞を受賞。
作品に「木枯(こがらし)」「岩清水」「慷月調(こうげつちょう)」など。

龍村 平蔵(たつむら へいぞう)

1876年11月14日 - 1962年4月11日
明治~昭和期の織物作家・研究家 龍村織物美術研究所所長。
出生地大阪・船場大阪の富豪辰村惣兵衛の嫡孫。
17歳の時家を出て呉服行商、西陣で仕入れ見習いをしながら、西陣織、博多織を研究。
明治38年龍村製織所を西陣に設立、高浪織、ゴブラン織、綾浪織など美術織物を制作し、また古代織物の研究、正倉院古代裂(ぎれ)や名物裂の復元に努めた。
大正4年農商務省に初めて出品し1等賞を得る。
昭和6年より文展工芸部門審査員をつとめ、帝展にも作品を発表、また海外にも多数出品した。
13年には龍村織物美術研究所を設立。
同年ベルリンの第1回世界手工業博覧会で金賞を受け、31年日本芸術院恩賜賞、33年紫綬褒章を受賞。
芸術として評価される織物の礎を築いた。
主な作品に「漢羅楽浪壁掛」「金唐革大唐花帯地」など。
主な受賞名〔年〕世界手工業博覧会金賞(第1回・ベルリン)〔昭和13年〕野間賞(美術奨励賞 第3回)〔昭和18年〕、日本芸術院賞恩賜賞〔昭和31年〕、紫綬褒章〔昭和33年〕
--- コトバンクより
*宮尾登美子の最後の長編小説 「錦」 の男性主人公のモデルでもある。

橋本 静水(はしもと せいすい)

1876年-1943年
日本画家。広島県生。名は宗次郎、号は正素、のち静水。
橋本雅邦に師事、その養子となる。
第五回文展に「一休」を出品し入選。
のち帝展で活躍する。
院展同人。
昭和18年(1943)歿、67才。
出典(株)思文閣

西川 光二郎(にしかわ こうじろう)

1876‐1940(明治9‐昭和15)
兵庫県津名郡佐野村(現在の津名町)出身の、明治期の社会主義者。
札幌農学校時代に新渡戸稲造らの影響を受けた。
のちに東京専門学校(現在の早稲田大学)に転じ、社会問題に関心をもち、片山潜とともに1897年労働組合期成会の《労働世界》を発行した。
1901年幸徳秋水らと社会民主党を発起後、《平民新聞》を発行して社会主義の宣伝に努め、また06年山口孤剣と《光》を発行した。
06年の東京市電値上げ反対デモで大杉栄らと兇徒聚衆罪に問われ、大審院より重禁錮2年に処せられた(東京市電値上反対事件)。

谷津 直秀(やつ なおひで)

「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より
1877-1947
明治-昭和時代前期の動物学者。 明治10年9月8日生まれ。
コロンビア大で実験発生学をまなぶ。
帰国後、母校東京帝大の助教授、慶大教授をへて大正11年東京帝大教授。
動物学に実験的研究法を導入した。
学士院会員、日本動物学会会頭。
昭和22年10月2日死去。71歳。東京出身。
著作に「動物分類表」など。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 出典:講談社

柴田 桂太(しばた けいた)

「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より
1877年9月20日-1949年11月19日
日本の植物生理学者・生化学者・微生物化学者。
薬学者柴田承桂の長男。弟に化学者柴田雄次がいる。東京府出身。
1899年に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業後、第一高等学校・東北帝国大学などで教鞭をとった後、1910年に母校講師となり、直後にドイツに留学してヴィルヘルム・ペッファーに師事した。
1912年に帰国して助教授となると、日本で最初の植物生理学・生化学の講座を開いた。
1918年、植物界におけるフラボン体の研究で学士院恩賜賞を受賞、同年教授に昇進する。
以後も植物の受精・胚発生のメカニズムの研究などに取り組み、田宮博と共同で行ったチトクロームに関する研究は世界水準に達するなど、日本の植物生理学・生化学の水準を一気に高めた。
1938年に東京帝国大学を定年退官後、岩田植物生理学研究所や徳川生物研究所などで研究を続け、1941年に資源科学研究所所長に就任した。

水上 泰生(みずかみ たいせい)

1877年10月24日 - 1951年2月21日
福岡県筑紫郡住吉村(現・福岡市)出身の日本画家。本名は泰生(やすお)。
東京美術学校日本画科を首席で卒業。
寺崎広業に師事。1913年、第7回文部省美術展覧会(文展)に『桐』が初入選し、1914年、第8回文展で『琉球の花』が3等賞を受賞、1915年、第9回文展でも『樺太の夏』が3等賞を受賞する。
その後も、帝国美術院展覧会(帝展)、文部省美術展覧会(新文展)などと改名した官展に出品を重ねる。
1919年如水会を結成、1923年、革新日本画会に創設会員として参加する。1926年、帝展委員に選定され、1928年、帝展の無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。
写生的な花鳥画を得意とし、特に鯉を描いて第一流であったため、「鯉の水上」といわれた。
1938年に落成した、福岡市指定文化財である住吉神社能楽殿の、舞台背面と側面の鏡板の老松・若竹は水上の手によるものである。

飛田 周山(ひだ しゅうざん)

1877年(明治10年)-1945(昭和20年)
日本画家
飛田周山(本名飛田正雄)は茨城県に生まれ、久保田米僊、竹内栖鳳、橋本雅邦に学んだ。
健実な画風に特色を示し、文展、帝展等に出品し受賞を重ねた。
大正9年の第2回帝展では展覧会委員、翌10年第3回帝展等に審査委員となった。
日本美術院の研究会員であった周山は、郷里(現北茨城市磯原町)の関係から、明治36年、岡倉天心を福島県平地方、また五浦に案内し、これが日本美術院五浦移転の機縁となった。
(茨城大学五浦美術文化研究所ホームページより抜粋)

中村 春二(なかむら はるじ)

中村春二(中村彝(つね)画、1824年)(成蹊学園蔵)
1877年(明治10年) - 1924年(大正13年)
明治末期~大正期の教育者にして成蹊学園の創立者。
著名な国文学者で御歌所寄人もつとめた中村秋香の長男。
東京帝国大学文科大学国文科を卒業。
人物教育を志し、今村銀行頭取今村繁三の支援を得て自宅に学生塾を開く。
1907年(明治40年)、塾を「成蹊園」と名付ける。
この頃、後の三菱財閥総帥岩崎小弥太が支援に加わる。
1919年(大正8年)、初等教育・高等普通教育・専門教育を目的とする財団法人成蹊学園を設立。
ところが、吉祥寺に8万坪の土地を得て、小学校・中学校・実業学校・実業専門学校の移転を進めていた矢先の1924年(大正13年)2月21日、志半ばにして急逝。
48歳の若さだった。
戦後の学制改革に伴い、旧制成蹊高等学校は改組、新制成蹊中学校・高等学校、新制成蹊大学が開設されることとなった。
創立の地は現在、豊島区立元池袋史跡公園になっており、記念碑がたてられている。

今 裕(こん ゆたか)

写真は「広瀬院長の弘前ブログ」から拝借いたしました。
1878年(明治11年)2月7日 - 1954年(昭和29年)2月5日
青森県弘前出身の医学者。医学博士。専門は病理学・細菌学。
1900年(明治33年)第二高等学校医学部(現東北大医学部)卒。
東京慈恵会医学専門学校教授などをへて、1918年(大正7年)北海道帝國大学教授となり、1937年(昭和12年)北海道帝國大学総長となった。
総長時代には欧米に三度留学する。
北海道に医学部が無い事を憂い、北大医学部創設に尽力した。

有島 武郎(ありしま たけお)

1878年 (明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日
日本の小説家。
学習院卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。
1903年渡米。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。
1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。
作品に、『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。

平賀 譲(ひらが ゆずる)

1878年(明治11年)3月8日 - 1943年(昭和18年)2月17日
広島県出身の造船学者、軍艦設計者 1901年、東京帝国大学工学部造船学科を卒業、海軍造船中技士に任官。
1905年、英国海軍大学校に留学し造船技術を学び、帰国後、戦艦「山城」の設計主任として艦船構造に新技術を採用、さらに「長門」「陸奥」など主力戦艦の基本設計を手がけ「軍艦の父」と呼ばれた。
ワシントン条約による戦艦の建造中止後は、巡洋艦「夕張」「古鷹」「妙高」などを設計した。
その後、海軍技術研究所に転じ、のち所長を務めた。
1909年以降東京帝国大学教授として軍艦の設計・構造・艤装(ぎそう)などの講義を担当、1935年(昭和10)工学部長となった。
1938年に総長となり、いわゆる平賀粛学を断行した。
1928年高速度艦船に関する研究で学士院賞受賞。
1934年「木板、船体模型の摩擦抵抗に関する実験的研究」に英国造船協会から外国人として初の金牌を贈られた。

牧野 英一(まきの えいいち)

1878年3月20日 - 1970年4月18日
岐阜県高山市出身の法学者。専門は刑事法。
元東京帝国大学名誉教授、元東京商科大学(一橋大学の前身)名誉講師。
従二位勲一等瑞宝章。
戦後、牧野の刑法理論は国家主義との親和性を批判される一方、旧派の団藤重光らの学説が新憲法の要請に基づく自由主義の立場に合致するものとして学界の絶大な支持を集め、牧野を含む新派は退潮に向かう。
その一方、執行猶予の積極的活用などの牧野の主張は刑事制度に影響を色濃く残しており、その学説の歴史的・現代的意義は依然大きいといえる。
著書に『日本刑法』(1916年)、『法理学』1巻・2巻上下(1949年 - 1952年)、『刑法総論』全訂版上下(1958年、1959年)、『刑法研究』(全20巻)(1918年 - 67年)がある。

佐々木 惣一(ささき そういち)

1878年(明治11年)3月28日 - 1965年(昭和40年)8月4日
鳥取市出身の憲法学者、行政法学者。正三位勲一等。法学博士。
貴族院議員。京都大学名誉教授。京都市名誉市民。
京都帝大に法学を学び1903年(明治36年)卒業、直ちに同大学の講師、次いで助教授、教授となり憲法を講じた。
1921年(大正10年)以来二回法学部長に挙げらる。
厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、東の美濃部達吉とともに、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した。
1933年(昭和8年)「滝川事件」に抗議して辞職。
同事件では法学部教授団の抗議運動の中心として活動するなど、大学自治の擁護に努めた。
1945年(昭和20年)には内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、いわゆる「佐々木憲法草案」を作成している。

第二代 野村 徳七(のむら とくしち)

1878年8月7日 - 1945年1月15日
大阪府出身の実業家。
両替商の野村徳七 (初代)の長男で野村財閥を築いた二代目(幼名は信之助)。
初代徳七の隠居に伴い、信之助が徳七を襲名し、弟の実三郎、元五郎らと野村商店を運営した。
進歩的な営業方針と丁稚制度が一般的であった時代に、学校教育を受けた人材を積極的に採用し、日露戦争、第一次世界大戦の相場で大きな利益を得た。
1918年(大正7年)に大阪野村銀行(後の大和銀行、現在のりそな銀行)を設立、証券部は1925年(大正14年)12月に野村證券として独立し翌年1月に営業を開始した。
文化発展のために尽力したことでも知られ、日仏文化協会創立に関わったことからフランス政府から勲章を受章している。
また自身も趣味人であり、茶道や能をたしなんだ。
茶道具を中心とする古美術品の収集でも知られ、収集品は碧雲荘近くの野村美術館に収蔵されている。

川喜田 半泥子(かわきた はんでいし)

千歳山の泥仏堂でろくろをひく半泥子 (昭和15年ごろ)(石水博物館提供)

明治11(1878)年11月6日-昭和38(1963)年10月26日
三重県生まれの陶芸家・実業家。
三重県津の素封家川喜田家の第16代にあたる。
百五銀行頭取ほか数々の企業の要職をこなし、三重県議会議員、津市議会議員として、経済・政治など幅広い分野で活躍した。
茶道、油彩画、日本画、俳句など、多彩な趣味を持ち、幅広い創作活動を展開。
型にとらわれない、自由でおおらかな作風は、半泥子の人柄そのものといわれる。
中でも、陶芸においては、趣味の域を越えた独自の世界を構築。
昭和初期には、自宅のある千歳山に初めて小さな登り窯を築き、若き陶工らと交流し、研究と修練を重ねた。
のちこの窯を津市郊外の広永に移し弟子を養成。
半泥子という号は「半ば泥みて半ば泥まず」という意味があり、すべてに熱中する半泥子のことだから、家をつぶしてはならないと、すべて半ば泥むがよかろうと、禅の師が命名したという。
老衰のため84歳で亡くなった。

荒井 寛方(あらい かんぽう)

1878~1945
明治-昭和時代前期の日本画家。
氏家町の町絵師荒井藤吉の長男として生まれる。
本名は寛十郎(かんじゅうろう)。
明治32年(1899)上京して水野年方(としかた)に入門、歴史画を学び、明治35年(1902)国華社に入社。
ここでの10年間に及ぶ仏画模写の仕事は寛方に大きな影響を与える。
大正5年(1916)には詩聖タゴールに招かれてインドに渡り、アジャンターの壁画を模写。
以後、それまでの古典研究とインドでの体験によって、独自の画風を形成。
昭和15年(1940)には法隆寺金堂(こんどう)壁画の模写に従事するが、業なかばの昭和20年(1945)、福島県郡山駅で急逝した。

半澤 洵(はんざわ じゅん)

写真は、ブログ「まるひ、くさつき帳」から拝借しました。

1879年1月9日 - 1972年9月25日
北海道士族出身 東北帝国大学農科大学(後の北海道帝国大学)応用菌学教室の初代教授。
「納豆容器改良会」を設立、雑誌「納豆」の発行などを通じ、近代納豆製法の確立・普及に努める。
著書に「納豆製造法」(1927年、札幌納豆容器改良会)、「雑草学」(1910年、六盟館)などがある。
納豆博士の名と共に、有島武郎の同級生であったことでも知られる。

宮島 清次郎(みやじま せいじろう)

1879年1月20日 – 1963年9月6日
武蔵高等学校の創設に尽力し、根津嘉一郎亡き後を継ぎ武蔵高等学校、戦後の武蔵大学の経営に力を尽くした。
また昭和35年に私財を学園に寄付し(宮島基金)、これは今日でも学園基金の一つとなっている。

犬童 球渓(いんどう きゅうけい)

1879年4月20日 - 1943年10月19日
熊本県人吉市出身の詩人、作詞家、教育者。
東京音楽学校(現 東京芸術大学)卒業。
本名は「犬童信蔵」というが、球磨川の渓谷に生まれたことから「球渓」というペンネームをつけた。
1943年、人吉で自殺。
新潟高等女学校赴任中に訳した『旅愁』、『故郷の廃家』が明治40年(1907年)の「中等教育唱歌集」に取り上げられ、現在でも広く歌われている。
犬童球渓はこれらの代表作も含めて、生涯に250曲ほどの西洋歌曲の翻訳作詞を残した。
彼の訳詞の特徴として、英語からの直訳を嫌い、日本語らしい表現にこだわった点などが挙げられる。
犬童球渓の訳詞による『旅愁』はすっかり“日本の歌”として広く親しまれるようになり、原曲がアメリカ音楽であることが信じ難いほどになっている。

「更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに一人悩む・・・」

*原曲はジョン・P・オードウェイによる“Dreaming of Home and Mother”(家と母を夢見て)という作品である。

上田 貞次郎(うえだ ていじろう)

1879年5月12日 - 1940年5月8日
日本の経営学者、経済学者。
1937年、帝国学士院会員。1940年、正三位旭日重光章。1932年、勲二等瑞宝章。
1902年に高等商業学校(現一橋大学)専攻部貿易科卒、同年福田徳三に師事。
卒業後イギリスやドイツ等に留学し、アシュレーやウェッブ夫妻等の下で学ぶ。
1919年、法学博士。1925年、如水会常務理事。
三浦新七の後任として、東京商科大学(現一橋大学)学長就任。
東京海上社長を務めた各務鎌吉の遺産をもとに東亜経済研究所(現・一橋大学経済研究所)を設立し、初代所長に就任。
学長在任中の1940年に盲腸炎で急逝。
在学生の寄付により、一橋大学国立キャンパスに胸像が建てられた。

滝 廉太郎(たき れんたろう)

1879年8月24日 - 1903年6月29日
日本の音楽家・作曲家。
明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。

河上 肇(かわかみ はじめ)

1879年10月20日 - 1946年1月30日
経済学者 京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の座を辞し、共産主義の実践活動に入る。
日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。
カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン三十二年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー小説『貧乏物語』で知られる。
死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。
名文家であり、漢詩もよく知られている。

山田 わか(やまだ わか)

1879年(明治12年)12月1日 - 1957年(昭和32年)9月6日
婦人運動家、社会思想家。
神奈川県三浦郡久里浜村(現在の横須賀市)の貧農、浅葉弥平治とミヱの4女として生まれる。
18歳の時に上京先の横浜で女衒にかどわかされ、1897年(明治30年)渡米、シアトルの娼館に売られ「アラビアお八重」の名で過ごす。
1900年(明治33年)に新聞記者・立井信三郎に助けられ、サンフランシスコに脱出。
娼婦救済施設キャメロンハウスに身を寄せ、キリスト教に入信し通訳として働く。
1903年(明治36年)に、社会学者山田嘉吉の英語塾へ入り翌年結婚。
1906年(明治39年)に帰国。
嘉吉の下でスウェーデンの社会思想家エレン・ケイ(1849-1926)の母性主義の思想にふれ、国による母性の保護を思想信条とした。
1934年(昭和9年)5月、母性保護法制定促進婦人連盟(翌年4月、母性保護連盟と改称)が結成されると初代委員長に就任。
運動の成果は、1937年(昭和12年)3月に「母子保護法」の成立として結実する。
国家による母性保護を「奴隷道徳」「依頼主義」と難じ「女子の徹底した独立」を唱える与謝野晶子、社会主義者の山川菊栄らの批判に対し、平塚らいてうと共に激しく反駁、母性保護論争と呼ばれる論戦を展開した。
1937年(昭和12年)に遣米婦人使節として渡米。
1941年(昭和16年)3月には親善使節としてドイツ及びイタリアを訪問した。
1947年(昭和22年)売春婦の更生施設として幡ヶ谷女子学園を設立した。

永井 荷風(ながい かふう)

1879年12月3日 - 1959年4月30日
小説家。耽美的な作風で明治から昭和にかけて活躍した。
号は断腸亭主人、金阜山人。
アメリカ・フランス滞在中、ワーグナーやベルリオーズの作品に親しみ、帰国後『あめりか物語』『ふらんす物語』などの小説や評論で積極的に紹介。
1938年5月には浅草で自作オペラ『葛飾情話』を発表するなど、クラシック音楽の日本への普及に大きな功績をあげている。
また大正中期から死の前日まで日記を書き継ぎ、大切に保存していた。
戦前戦後の社会世相・風俗の変遷を活写しており貴重であるが、公表を意図して書かれている点に注意すべきである。
多額の遺産(2005年現在の貨幣価値で3億円以上)を残していたことでも話題を呼んだ。
晩年のストリップ通いは有名

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