~丸メガネの情報が満載!~

丸メガネの情報が満載!

学者・文化人(生年順)

1870(明治2)年~1874(明治7)年


本多 光太郎(ほんだ こうたろう)

明治3年2月23日(1870年3月24日) - 昭和29年(1954年)2月12日
愛知県碧海郡矢作町(現岡崎市)生まれの物理学者。電磁研初代理事長。
東京帝国大学理科大学物理学科を経て、ドイツおよびイギリス留学後、1911年に東北帝国大学教授となった。
1931年に同大学総長に就任。
1937年に第1回文化勲章を受章し、1949年には東京理科大学学長となっている。
本多は1917年にKS鋼を、1934年に新KS鋼を発明しており、その何れもが当時の世界最強の永久磁石であった。
無類の実験好きとして知られる。
本多が輩出した研究者たちは「本多スクール」の出身者ともいわれ、研究者としてだけでなく教育者としてもその才能を発揮していたといえよう。

安川 雄之助 (やすかわ ゆうのすけ)

1870-1944
大正-昭和時代前期の実業家。 明治3年4月4日生まれ。
23年三井物産にはいり、大正7年常務。
東洋レーヨン(現東レ)、三機工業などの設立をすすめ、三井物産の製造部門進出につくす。
三井合名理事。退職後は東洋拓殖総裁。昭和19年2月13日死去。75歳。
京都出身。大阪商業(現大阪市立大)卒。

鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう)

1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1953年(昭和28年)1月14日
日本の人類学者(『ある老学徒の手記』)、考古学者、民族学者、民俗学者。
小学校を中退。
必要に応じて中学校の教師の教えを受けながら、独学で人類学を学ぶ。
1895年(明治28年)の遼東半島の調査を皮切りに、台湾・中国西南部・シベリア・千島列島・沖縄など東アジア各地を調査した。
中でも満州・蒙古の調査は、鳥居と彼の家族のライフワークとも言え、たびたび家族を同伴して訪れている。
妻のきみ子は現地で鳥居の助手を務めた。

西田 幾多郎(にしだ きたろう)

明治3年4月19日(1870年5月19日)- 1945年(昭和20年)6月7日)
日本を代表する哲学者。京都大学教授。京都学派の創始者。

今村 明恒(いまむら あきつね)

1870年6月14日(明治3年5月16日) - 1948年1月1日
鹿児島県出身の地震学者。東京帝国大学理科大学(現・東京大学)物理学科卒業。
大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授、講座教授となる。
東大を定年退官した後も資財を投じて地震の研究を続けた。
1899年に津波は海底の地殻変動を原因とする説(発表当時には殆ど受け入れられなかった。)を提唱。
1911年には今村式強震計を開発した。
関東大震災の地震予知の功労者として「地震の神様」と称えられたが、1905年発表当時には「ホラ吹きの今村」と中傷された。
1933年に三陸沖地震が発生した際には、その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案。
また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書への収載を訴えた。
それが実現した後、1940年に『『稲むらの火』の教え方について』を著して、その教え方についても詳しく指導している。
1944年に東南海地震が発生した際には、掛川-御前崎の水準測量を行なっていたが、この時、地震前日から御前崎が隆起する動きが確認できた。
これが現在の東海地震の発生直前の地震予知が可能であるという根拠とされている。
なお次男の今村久も地震学者である。

相馬 愛蔵(そうま あいぞう)

明治3年10月15日(1870年11月8日) - 昭和29年(1954年)2月14日
長野県出身の社会事業家、東京新宿中村屋の創業者である。
東京専門学校(早稲田大学の前身)に在京中に市ケ谷の牛込教会に通いはじめ、キリスト教に入信し、洗礼を受けた。
内村鑑三らの教えを受け、田口卯吉(歴史家、実業家)と面識を得た。
明治23年(1890年)、東京専門学校卒業と同時に北海道に渡り、札幌農学校で養蚕学を修めて帰郷した。
明治24年(1891年)、蚕種製造を始め、『蚕種製造論』を著し全国の養蚕家に注目された。

明治34年(1901年)東大赤門前のパン屋本郷中村屋を買い取り、明治37年(1904年)にクリームパンを日本で初めて発売した。
明治40年(1907年)に新宿に移転し、明治42年(1909年)に現在の本店ビルの場所に店を構えた。
愛蔵は高給で外国人技師を雇い、次々に新製品を発売した。
中華饅頭、月餅、ロシヤチョコレート、朝鮮松の実入りカステラ、インド式カリーなどであり、このような異国風の商品で近所に進出したデパートに対抗した。
また食堂や喫茶室などを開設して店を拡大し、現在の中村屋隆盛の礎を築いた。
さらに店員のマナーやモラル向上のために研成学院を設立した。
愛蔵の商業道徳は、無意味なお世辞を排し良い商品を廉価で販売することであった。

愛蔵は店の裏にアトリエをつくり、荻原碌山、中村彝、中原悌二郎、戸張狐雁らの芸術家たちに使わせていた。
大正4年(1915年)、右翼の重鎮・頭山満の依頼により、ここにインドの亡命志士ラス・ビハリ・ボースをかくまった。
大正7年(1918年)、長女俊子がボースと結婚した。
こうした縁により、中村屋は日本で初めてインド式カレーライスを発売することになった。

関東大震災で難民となった人々が新宿へと逃れてきたとき、愛蔵は便乗して高額な商品を売りつけるような真似をせず、安価なパンなどを連日販売して人々の飢えを満たした。
『奉仕パン』『地震饅頭』などと大書して販売していた写真が現存している。
昭和金融恐慌で取り付け騒ぎが発生し、取引先の安田銀行に預金を確保しようとする人の列が出来た。
その際、部下に金庫の有り金を全て持たせてかけつけさせ、「中村屋ですがお預け!」と大声を出させることによって群衆のパニックを収めた。

1928年に国外の実業界を視察するためヨーロッパを訪問した際、「西洋人が日本に来ても日本の着物を着ずに自分たちの服装で堂々としているのに、日本人だけが着物を脱いで、似合わない洋服を着るのはおかしいうえ、格好が悪い」という考えから、常時着物で押し通し、大歓迎を受け、着物姿のほうが正装になり、厚遇を受けることを実証してみせた。

また、西洋人は対等でないと思った人間に対してはすぐに奴隷のようにみなすことを指摘し、日本人留学生たちが気弱のため馬鹿にされていることを嘆き、彼らの高すぎる家賃を大家と交渉して値下げさせたりもした。
商交渉においても対等的な態度がいかに重要かを説いている。

鈴木 大拙(すずき だいせつ)

本名:貞太郎〔ていたろう〕、英字:D.T.Suzuki
1870年11月11日(明治3年10月18日) - 1966年7月12日
禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。大拙は居士号。
石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。
1959年日本学士院会員、文化勲章。 100冊ある著書のうち、23冊が英語で書かれている。
梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教者」。
同郷の西田幾多郎、山本良吉、藤岡作太郎とは石川県立専門学校(後の第四高等学校)以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。

藤本 清兵衛(ふじもと せいべえ)

1870年-1949年)は和歌山県出身の実業家。
1902年に個人商店「藤本ビルブローカー」を大阪に開業。
1907年には銀行営業の認可を受け、「株式会社藤本ビルブローカー銀行」を開業した。
ビルブローカー業務の草分けで、企業の資金調達に貢献した。
1932年に銀行業を廃止し、証券会社となり、大和證券グループの前身となった。
*「「ビルブローカー銀行」とは、当時の6種別(中央銀行、特殊銀行、都市銀行、地方銀行、貯蓄銀行、ビルブローカー銀行)のひとつであり、コール取引を行う銀行である。

堺 利彦(さかい としひこ)

1871年1月15日(明治3年11月25日) - 1933年1月23日)
福岡県出身の社会主義者・思想家・作家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚渋六。
中学を首席で卒業。第一高等中学校に入学するも学費滞納により一高から除籍処分を受ける。
新聞記者、教員、小説家などを経て社会主義運動を開始。
幸徳秋水との共訳で日本における最初の『共産党宣言』を翻訳した。
数多くの翻訳を通じて、欧米の社会主義思想、社会運動やロシア革命の動向、ユートピア文学をはじめとする西洋文学の紹介につとめた。
婦人運動家の近藤真柄は長女

志賀 潔(しが きよし)

1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1957年1月25日
日本の医学者・細菌学者。赤痢菌の発見者として知られる。
1896年東京医科大学(現在の東大医学部)を卒業。
官立伝染病研究所(所長:北里柴三郎)に入り、細菌学と免疫学に従事、折から東京で赤痢が流行し、患者の糞便中から赤痢菌を発見。
コッホが委員長を務めた赤痢菌調査委員会は、赤痢菌を一名「志賀‐クルーゼ菌」と命名。
現在、赤痢菌の学名は発見者志賀にちなんでShigella dysenteriaeという。
慶應義塾大学医学部教授、朝鮮総督府医院長、京城医学専門学校長、京城帝国大学総長を歴任。
文化勲章受章者。位階勲等学位は正三位勲一等医学博士。称号は仙台市名誉市民。
赤痢菌の発見とともに化学療法を研究し、明治時代の日本の近代化のなかで世界に通用する科学研究の成果を成し遂げた先駆者と評される。
清貧を貫いた人柄であり、晩年は数々の名誉を得ながらも貧困のなかに暮らし、家の障子を新聞紙で張り、つるを紙で修繕した眼鏡を掛けた肖像が土門拳の写真集『風貌』に残されている。

高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう)

1871年2月28日(明治4年1月10日) - 1902年(明治35年)12月24日
明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。
明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎。山形県鶴岡市出身。東京帝国大学文科大学哲学科卒業。
卒業後博文館に入社、雑誌「太陽」の編集主幹となり、文学、哲学、美学など多岐にわたる評論を執筆。
初め日本主義を主張するが、病気療養中からニーチェの影響で個人主義に転じ、『美的生活を論ず』(1901)では本能満足説を提唱。
晩年は日蓮に傾倒した。
肺結核の悪化で欧州留学を断念し、1901年東京帝大の講師となるが、翌年12月24日に31歳の若さでなくなった。

喜田 貞吉(きた さだきち)

1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年7月3日)
徳島県出身の歴史学者、文学博士。
東京帝国大学文科大学卒業後、同大学院に進学、その後同大学で講師を務め、1909年に「平城京の研究・法隆寺再建論争」により東京帝国大学から文学博士の称号を得た。
文部省で国定教科書の編纂にも従事したが、小学校の歴史教科書に南北朝期の北朝・南朝を並べて記述していたため、1911年、南朝を正統とする立場から非難され、休職処分となった(「南北朝正閏問題」)。
京都帝国大学教授を経て、東北帝国大学国史学研究室の講師となり、同研究室草創の基礎を築いた。
独自の日本民族成立論を展開し、日本民族の形成史について歴史学・考古学の立場から多くの仮説を提示した。
「日鮮両民族同源論」を提出し、結果的に日韓併合(1910年)を歴史的に正当化したと批判される。
法隆寺再建・非再建論争では、再建論の論陣を張った。
これは後に正しいことが証明された。
被差別部落研究の先駆者としても評価されている。

時任 一彦(ときとう かずひこ)

明治4年5月25日ー昭和32年6月21日(1871年-1957年)
明治-昭和時代前期のの農業物理学者。
母校札幌農学校、その後身の東北帝大農科大学の教授、北海道帝大の教授、農学部長をつとめた。
泥炭地開発の研究にとりくむ。
鹿児島県出身。著作に「泥炭地改良及泥炭利用論」。

山本 良吉(やまもと りょうきち)

1871年10月10-1942年7月12日
京都や静岡の旧制中学、学習院などで修身などを教え、その後、私立武蔵高等学校の教頭、校長として同校草創期に力を尽くした教育者。
良吉が長年教育に携わるなかで主張してきたことは、武蔵高等学校の三理想となっている。
一、東西文化融合のわが民俗使命を遂行し得べき人物を造ること
二、世界に雄飛するにたえる人物を造ること
三、自ら調べ自ら考える力を養うこと 

高野 岩三郎(たかの いわさぶろう)

1871年10月15日(明治4年9月2日) - 1949年(昭和24年)4月5日
日本の社会統計学者、社会運動家。
ミュンヘン大学留学(1899-1903年)で統計学を学び、1903年に東京帝国大学法科大学助教授(統計学)。
政治学者で後に東大総長となる小野塚喜平次らと社会政策学会を設立、学会内の最左派として活動した。
また日本文化人連盟を結成。
東京帝大では法学部からの経済学部独立に尽力した。
敗戦後、GHQによる厳しい検閲に協力した5100名にも及ぶ日本人グループのリーダー格だったのが高野であり、このことが、高野の戦後初代NHK会長就任につながっている。
NHKの会長に就任した高野は1946年4月30日に行われた就任挨拶で「権力に屈せず、大衆とともに歩み、大衆に一歩先んずる」とする放送のあり方を説き、民主的なNHKを目指したが、GHQの占領政策が反共に転換したこと、任期半ばにして高野自身が死去したことで挫折してしまった。

中川 吉造(なかがわ よしぞう)

写真は公益社団法人土木学会のサイトからお借りしました。
1871-1942
明治-昭和時代前期の土木技術者。
明治4年4月6日生まれ。
内務省技師となり、渡欧してドナウ川の鉄門などを視察。
大正15年工事主任として難航していた利根川の改修工事を完成させる。
昭和3年内務技監。郷里奈良県高田町(大和高田市)の上水道敷設や河川改修にも尽力した。
昭和17年8月1日死去。72歳。帝国大学卒。
~デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 出典:講談社

新島善直( にいじま よしなお)

1871(明治4)年7月-1943(昭和18)年2月7日
明治-昭和時代前期の林学者。東京出身。帝国大学卒業。
31年札幌農学校教授となり、その後身の東北帝大農科大学・北海道帝大教授。
北海道林業試験場長を兼任。
造林、森林害虫防除に貢献した。

柴山 五郎作(しばやま ごろうさく)

明治4年8月11日~大正2年3月6日 (1871~1913)
栃木生まれ。伝染病学者。
明治31年(1898)東京帝国大学医科大学を卒業し、伝染病研究所助手となり、北里博士の下で細菌学の研究に従事。
その後、内務省臨時検疫事務官、警視庁技師などに任じられ、40年(1907)医学博士の学位を受ける。
大正2年(1913)3月6日、伝染病研究所で研究中に病毒のため殉職。
出典:近代日本人の肖像

本山 白雲(もとやま はくうん)

1871年(明治4年9月1日)-1952年(昭和27年2月18日
高知県出身の彫刻家。
高村光雲に師事し、のち長沼守敬(もりよし)に洋風彫塑をまなぶ。
「伊藤博文」「山県有朋」「坂本竜馬」など維新の元勲たちの銅像を次々と製作し、当時日本での銅像製作の第一人者となった。
東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は辰吉。

深井英五(ふかい えいご)


安井曾太郎『深井英五氏像』
明治4年11月20日(1871年12月31日) - 昭和20年(1945年)10月21日
日本の銀行家・経済学者・作家。
第13代日本銀行総裁・貴族院議員。群馬県高崎市出身。
歴代日銀総裁でもっとも経済理論に精通し、金融恐慌時は副総裁として井上準之助をサポート。
ぎりぎりのところで日本経済を救った立役者として知られている。
歴代日銀総裁は退任に際し肖像画が描かれていたが、深井の肖像画は洋画の安井曾太郎が製作したもので、安井自身の代表作でもある。

田山 花袋(たやま かたい)

1872年1月22日(明治4年12月13日) - 1930年(昭和5年)5月13日
日本の小説家。本名、録弥(ろくや)。群馬県(当時は栃木県)生れ。
尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩、柳田国男らと交わる。
「蒲団」「田舎教師」などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。
紀行文にも優れたものがある。

徳田 秋声(徳田 秋聲、とくだ しゅうせい)

1872年2月1日(明治4年12月23日) - 1943年(昭和18年)11月18日)
石川県金沢市生まれの小説家である。本名は末雄。
小学生時代(現在の金沢市立馬場小学校)、一学年下に泉鏡花がいた。
第四高等中学校に入学した翌年、上級生から小説家になる事を勧められ志した。
明治28年(1895年)尾崎紅葉の門下に入り、明治29年第1作「藪かうじ」を発表。
泉鏡花らとともに紅葉門下の四天王と称された。
「新世帯(あらじょたい)」「黴(かび)」「あらくれ」などで自然主義文学の代表的作家となる。
晩年には「仮装人物」があり、「縮図」は戦時下で当局から干渉をうけて、作品を中絶させた。
続きは書かれずに、戦争中の昭和18年(1943年)に死去した。
芸術院会員。

島崎 藤村(しまざき とうそん)

1872年3月25日-1943年8月22日
日本の詩人、小説家。木曾の馬籠 (現在の岐阜県中津川市)生れ。明治学院卒。
『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。
さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。
ほかの作品に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親相姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説『夜明け前』など。

山室 軍平(やまむろ ぐんぺい)

1872年9月1日(明治5年7月29日戸籍上は8月20日) - 1940年(昭和15年)3月13日
岡山県出身の宗教家。説教者。日本人初の救世軍士官。
石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。
1895年(明治28年)より石井の勧めで救世軍に参加し、パンフレット『鬨の声』を刊行するなど大いに働き、日本最初の士官(伝道者)となる。
後に東洋で最初の中将となり、日本軍国司令官となる。
終生に渡り社会福祉事業、公娼廃止運動(廃娼運動)、純潔運動に身を捧げた。
1924年(大正13年)に勲六等瑞宝章を受章。
1937年(昭和12年)には救世軍より「創立者賞」を受ける。

岡本 綺堂 (おかもと きどう)

明治5年10月15日(1872年11月15日) - 昭和14年(1939年)3月1日
小説家、劇作家。本名は敬二、別号に狂綺堂、鬼菫。東京高輪生まれ。
24年間の記者生活の後は作家活動に専念し、新聞連載の長編小説や、探偵物、スリラー物を多く執筆。生涯に196篇の戯曲を残した。
1916年、シャーロック・ホームズに影響を受け、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を開始、江戸情緒溢れる描写で長く人気を得た。
怪奇ものでは、中国志怪小説の翻案や、『世界怪談名作集』『支那怪奇小説集』などの編訳もある。
幼少期からの歌舞伎鑑賞を期した「ランプの下で」は明治期歌舞伎の貴重な資料となっている。
死後、元書生で養子の岡本経一が綺堂の作品の保存を目的として出版社「青蛙房」を創立。
現社長の岡本修一は綺堂の孫にあたる。

岩野 泡鳴(いわの ほうめい)

1873年(明治6年)1月20日 - 1920年(大正9年)5月9日
明治・大正期の日本の小説家・詩人。兵庫県洲本市出身。
明治学院、仙台神学校(現在の東北学院)、専修学校(現在の専修大学)に学ぶ。
当時、神田神保町の専修学校では法律学と経済学を修め、1891年(明治24年)に卒業した。
彼が満足に学校を終えたのは専修学校だけであり、卒業後、彼は志を転じ文学に向かう。
その後、詩人として文壇入りし、小説家に転進する。
田山花袋、島村抱月に次ぐ自然主義文学者として活躍した。
作者の主観を移入した人物を描く「一元描写」論を主張したため、田山花袋の「平面描写」論と対立した。
「神秘的半獣主義」を提唱し、霊肉一致、刹那主義を唱えるが、言辞の難解にもかかわらず、欲望の赴くままに女と関係するというような生活ぶりで、「僕は神だ」と演説するなど奇矯な言動が多かった。
一時期、カニの缶詰工場を作るために、樺太に渡るが、事業に失敗するなど、非常に活動的な人物だった。

与謝野 鉄幹(よさの てっかん)

1873年(明治6年)2月26日 - 1935年(昭和10年)3月26日
歌人。与謝野晶子の夫。後に、慶應義塾大学教授。
晶子の類まれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、晶子と3度目の再婚。六男六女の子宝に恵まれた。
しかし、結婚後の鉄幹は極度の不振に陥る。
栄光に包まれる妻の影で苦悩に喘いだ。
1915年には、第11回総選挙に故郷の京都市選挙区から無所属で出馬したが、落選した。
1935年(昭和10年)気管支カタルがもとで死去。
晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」という悲痛な追悼の歌を捧げた。
次男与謝野秀は外交官として活躍。
秀の長男が衆議院議員与謝野馨である。

安宅 弥吉(あたか やきち)

1873年4月25日 - 1949年2月5日
石川県金沢市金石生まれの実業家。
安宅産業や学校法人甲南女子学園の創設者。
元大阪商工会議所会頭。鈴木大拙のパトロン的存在としても知られる。
長男の安宅英一(神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業)は後に安宅産業会長となり、次男の安宅重雄(京都帝国大学文学部哲学科卒業)も安宅産業社長となった。
娘の安宅登美子は1925年・1926年の全日本テニス選手権女子ダブルス優勝者になったテニス選手である。
登美子と結婚した娘婿の長谷川周重は、後に住友化学工業の社長となった。
弥吉の創業した安宅産業は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、ニチメン、兼松江商に次ぐほどまで成長し、「10大総合商社の一角」とされていたが、弥吉の死後、同族経営の弊害が現れるなどし、1977年には安宅産業破綻として伊藤忠商事及びメインバンクの住友銀行や協和銀行の主導で伊藤忠商事との間で吸収合併がなされ、消滅することになった。

真田 秀吉 (さなだ ひできち)

写真は土木学会附属土木図書館土木人物アーカイブスよりお借りしました。
1873年5月5日~1960年1月20日
広島県三原市出身
東大土木を卒業し、内務省に入り淀川改修工事、利根川改修第三期工事を担当。
従来の人力、牛馬力との比較を実証的に行い、機械化施工の有利性を明かにした機械化土工の先駆者。
著書に、日本の伝統的な水制工法を体系化した『日本水制工論(にほんすいせいこうろん)』がある。

美濃部 達吉(みのべ たつきち)

1873年5月7日- 1948年5月23日)
日本の男性憲法学者。 勲一等旭日大綬章(1948年)。

桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう)

1873年5月20日 - 1941年9月10日
石川県金沢市出身のジャーナリスト、文明評論家。本名は政次(まさじ)。
旧制第四高等学校では小学校以来の同級生徳田秋声と親交を深め、小説家を志して共に退学・上京するなどもあったが失敗し帰郷、1895年(明治28年)にあらためて東京法科大学政治学科に入学、穂積八束、一木喜徳郎に学ぶ。
明治35年下野新聞主筆としてジャーナリストの道を歩みだし、その後いくつかの新聞社を転々とする。
明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論をくりひろげ、数多くの筆禍事件を引起した。
特に、信濃毎日新聞の主筆として書いた「都市空襲を受けるならば日本の敗北は必至である」という、『関東防空大演習を嗤(わら)う』と題した社説で知られる。

新城 新蔵(しんじょう しんぞう)

1873年(明治6年)8月20日 - 1938年(昭和13年)8月1日
日本の天文学者・東洋学者、理学博士。
専門は宇宙物理学および中国古代暦術。
戦前における東洋天文学研究の権威であった。
第8代京都帝国大学総長。
福島県会津若松の造り酒屋に六男として生まれる。第二高等中学校を経て1895年に卒業。
大学院に進学し、1897年陸軍砲工学校教授に就任。
1900年京都帝国大学理工科助教授となる。
その後ドイツのゲッティンゲン大学に留学し天文学を学び、帰国後教授となる。
1918年京大に宇宙物理学教室を設立、理学部長を経て1929年京大総長。
1935年中国(中華民国)の上海自然科学研究所第2代所長に就任するが、日中戦争が始まると貴重文化財の保護のため東奔西走を重ね、過労が重なって1938年に視察先の南京で急死した。

津田 左右吉(つだ そうきち)

明治6年(1873年)10月3日-昭和36年(1961年)12月4日
岐阜県美濃加茂市下米田町出身の歴史学者。
日本古代史研究の第一人者として知られる。
古事記や日本書紀、特に神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして厳格に文献批判を行った。
神話(皇国史観)を否定する「津田史観」は皇国史観学派と対立した。
また、実証主義的史学により神話を否定するも天皇制については擁護論を唱えマルクス史観派からは攻撃された。

泉 鏡花(いずみ きょうか)

1873年11月4日 - 1939年9月7日
明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家である。金沢市下新町生れ。
尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。
江戸文芸の影響を深くうけた怪奇趣味と特有のロマンチズムで知られる。
作『婦系図』『歌行燈』『夜叉ヶ池』など。
尾崎紅葉の『色懺悔』を読んで大いに衝撃を受け、文学に志すようになる。
鏡花にとっての紅葉はもっとも敬愛する小説家、文学上の師であると同時に、無名時代の自分を書生として養ってくれた恩人であり、鏡花は終生このことを徳として旧師を慕いつづけた。

初代 徳田 八十吉(とくだ やそきち)

「初代徳田八十吉肖像」中村研一画(昭和30年)「徳田八十吉記念館」
写真は、ブログ「YUZURIHA NEWS」からお借りしました。
初代徳田八十吉(1873年11月20日 - 1956年2月20日)は、吉田屋窯風の作風を得意とした。
号は鬼仏。指導者として浅蔵五十吉、二代目、三代目徳田八十吉等を育てる。
徳田 八十吉(とくだ やそきち)は九谷焼の陶工の名前である。

川合 玉堂(かわい ぎょくどう)

本名:川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)
1873年11月24日 - 1957年6月30日)
明治から昭和にかけて活躍した日本画家。
愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)に、筆墨紙商の長男として生まれる。
12歳頃より絵に親しみ、17歳で「玉堂」と号する。
この際「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」は第3回内国勧業博覧会に入選。
23歳のとき上京し橋本雅邦に師事する。
岡倉天心、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院(1898年)に参加、1900年頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年からは東京美術学校日本画科教授となり、日本画壇の中心的存在の一人となる。
1940年には文化勲章を受章。
戦時中の1944年に、東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称し、同地で1957年没した。
現在、同地には玉堂美術館がある。日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とした。

朝河 貫一(あさかわ かんいち)

1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日
福島県二本松市出身の日本が生んだ世界的歴史学者。
古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の第一人者として欧米で評価され、日本人初のイェール大学教授となった。
2007年10月にはイェール大学講師就任100年を記念し、業績を讃え、セイブルック・カレッジ構内に「朝河貫一庭園」が造られた。
福島県尋常中学校を首席卒業、東京専門学校(現早稲田大学)に編入学し首席で卒業。
同校在学中に坪内逍遙等の教えを受け洗礼を受ける。
1895年、大西祝、大隈重信 、徳富蘇峰、勝海舟らに渡航費用の援助を受けてアメリカへ渡り、ダートマス大学、イェール大学大学院を卒業。イェール大学時代に知りあったミリアム・J・キャメロン・ディングウォールと結婚。(8年後死去、以来独身)
イェール大学図書館および米国議会図書館からの依頼で、日本関係図書の収集をした。
また、「入来文書」(鹿児島県旧入来町の入来院家に伝わり鎌倉~江戸時代にわたる古文書群)の研究が有名で、これをまとめた英語の著書が”The Documents of Iriki” 『入来文書』である。
日本語の著書としては『日本の禍機』がある。
また、『日露衝突』を刊行し日露戦争における日本の正義を英米国民に説いたり、日米開戦の回避のために、フランクリン・ルーズベルト大統領から天皇宛の親書を送るよう働きかけを行ったりもした。
墓はコネチカット州ニューヘヴンのグローヴストリート墓地と福島県二本松市の金色(かないろ)墓地にある。

河東 碧悟桐(かわひがしへきごとう)

明治6(1873)年-昭和12(1937)年
愛媛県松山市出身の俳人。本名秉(へい)五郎。
明治20年伊予尋常中学に入学。虚子とは同級。
明治22年帰省した子規からベース・ボールを教わったことがきっかけで、俳句にたずさわることになる。
子規の死後、碧悟桐は「俳句の新傾向」を主張し、定型や季題にとらわれない自由律の句をつくるようになり、後に荻原井泉水、種田山頭火らに受け継がれていった。
碧悟桐の新傾向運動に対し、虚子は五・七・五の定型調や季題といった伝統を守る立場を主張し、虚子を中心とする「ホトトギス派」は、近代俳句の中心勢力として発展していった。
俳句では対立した二人であったが、その友情は終生変わる事はなく、碧悟桐の死に際して、虚子は「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」と述べ、次の句を詠んだ。

たとふれば こまのはぢける 如くなり

昭和8年還暦を機に俳界から引退した。
昭和12年没。享年65歳。

小平 浪平(おだいら なみへい)

明治7年(1874年)1月15日 - 昭和26年(1951年)10月5日
日本の技術者、実業家で、株式会社日立製作所の創業者である。
東京帝国大学工科大学電気工学科(現東京大学工学部)を卒業し、日立製作所取締役社長や同社の専務取締役などを歴任した。
1910年には、国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させた。

西川 籐吉(にしかわ とうきち)

1874年(明治7年)3月17日 - 1909年(明治42年)6月22日
大阪府出身の真円真珠養殖の研究者、真円真珠発明者。
見瀬辰平とともに真円真珠を発明した研究者として知られている。
西川式・ピース式と呼ばれ、現在の真珠養殖の技術の基礎となっている。
東京帝国大学で水産動物学を専攻し1897年(明治30年)に卒業した後、農商務省水産局技師として、箕作佳吉・飯島魁両博士の指導の下、真円真珠養殖およびアワビの人工授精の研究に従事した。
御木本研究所で本格的な真珠の研究にはいり、真円真珠形成の原理を解明した。
1903年(明治36年)、御木本幸吉の次女を嫁に貰う。
又、この年の3月1日から6月30日迄開かれた第五回内国勧業博覧会の堺会場に設置された博覧会付属堺水族館に主幹として参画した。
1905年(明治38年)、御木本研究所において本格的な真円真珠の研究に従事する。
1907年(明治40年)、真円真珠を養殖する方法の一連の特許を出願。見瀬辰平との間で特許権抵触問題が起きる。
1908年(明治41年)、御木本の研究所を去り、淡路の自家実験所と三崎の東京帝大臨海実験場で研究を続けた。
1909年(明治42年)、東京の自宅で癌のため死去。
特許が登録されたのは没後のことである。

河井 醉茗(かわい すいめい)

1874年5月7日 - 1965年1月17日
詩人。大阪府堺市出身
「文庫」の記者として詩欄を担当し、多くの詩人を育て、昭和期において詩の発展に尽力した。
雑誌「女性時代」「詩人」を刊行するなどして口語自由詩を提唱した。
詩集に『無弦弓』『塔影』などがある。
芸術院会員、日本詩人クラブ、日本文芸家協会名誉会員。
1965年1月17日、急性心臓衰弱のため没した。

本因坊 秀哉(ほんいんぼう しゅうさい)

1874年6月24日- 1940年1月18日)
明治から昭和にかけての囲碁の棋士。東京都出身。本名は田村保寿(やすひさ)。
名人。
家元本因坊家の21世で、終身名人制の最後の名人。
法名は日温。
引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。
棋風は力戦に強く、「序盤に策あり」と言われた。
2008年囲碁殿堂入り。

岡田 武松(おかだ たけまつ)

1874年8月17日 - 1956年9月2日
千葉県東葛飾郡布佐町(現我孫子市)生まれの気象学者。
東京帝国大学物理学科卒、ただちに中央気象台(現気象庁)に勤務。
1905年には予報課長として日本海海戦当時の天気予報を出す。
この予報(天気晴朗ナルモ浪高カルベシ)は、連合艦隊から大本営宛に打電された有名な電報「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃沈滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の原案とされる。
1911年「梅雨論」で理学博士となり、1920年神戸海洋気象台の創設と同時に初代台長に就任。
1923年には第4代中央気象台長となり、以後1941年までその職にあった。
在任中は世界に先駆けた海上船舶の無線通信(1910年)や地震観測網の整備・海洋観測船の新造・全国気象官署の国営移管など、気象事業に発展に尽くした。
一方、研究者としても『気象学講話』『雨』『気象学』などの数多くの研究書・入門書の執筆や後進の育成にあたり、藤原咲平とともに藤原・岡田学派の総帥として活躍した。
1924年イギリス王立気象学会よりサイモンズ金牌を贈られ、1931年帝国学士院会員。
1949年文化勲章受章。フェーン現象に風炎の字を当てたことでも知られる。

小室 翠雲(こむろ すいうん)

1874年8月31日 - 1945年3月30日
群馬県出身の日本画家、南画家。本名は貞次郎(ていじろう)。
父は日本画家・小室桂邨。
文展開設にあたって正派同志会副委員長として文展新派に対抗した。
文展審査員・帝展審査員をつとめた日本画の大家である。

鹿子木 孟郎( かのこぎ たけしろう)

写真は<大日本画家名鑑-昭和15年版>より
1874(明治7)年11月9日-1941(昭和16)年4月3日
岡山県出身の洋画家。号は不倒。
高等小学校卒業後、松原三五郎の天彩学舎に入学。
後に小山正太郎の不同舎に入学。
1895年、文部省教員検定試験に首席合格、滋賀県尋常中学校(彦根中学校)に勤務。
1900年、渡仏し、アカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに師事した。
帰国後は京都に住み、関西美術院、京都高等工芸学校などで指導に当たる。
1904年、京都に居を定める。
鹿子木室町家塾創設。
1905年、浅井忠らと関西美術院を創立。
1906年、1915年にもパリに滞在し、ローランスの愛弟子として注目された。
1918年、京都下鴨にアカデミー鹿子木下鴨家塾開設。
文展審査員、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章。
作品に「ローランス画伯の肖像」「新夫人」など。

真島 利行(まじま りこう)

1874年11月13日 - 1962年8月19日
京都府京都市に生まれる。
わが国における有機化学研究の先駆者。
漆の主成分ウルシオールの分子構造を解明。

福田 徳三(ふくだ とくぞう)

1874年12月2日 - 1930年5月8日
日本の経済学を開拓した経済学者。
社会政策学派、新歴史学派として経済理論、経済史などを導入した。
東京商科大学(現・一橋大学)教授、慶應義塾大学教授、フランス学士院文科部外国会員等を歴任。
レジオンドヌール勲章受章。

早田 文藏(はやた ぶんぞう)

「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より
1874年12月2日 - 1934年1月13日
日本の植物学者。 新潟県加茂生まれ。
1903年東京帝国大学を卒業。
台湾総督府の依頼で台湾の植物を研究し、さらにインドシナでも調査を行った。
その後東京帝大理学部教授および東大付属植物園長となった。
彼はさらに「動的分類学」というものを提案した。
これは恣意的に一部の形質のみに着目して系統樹を作成する従来の分類学に対し、多数の形質からネットワーク的分類図式を作ろうとしたものであり、後の表形分類学に似た考えであるが、理論的には大成されずに終わった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(2010/06/13 03:28 UTC 版)

浅野 和三郎(あさの わさぶろう)

1874年(明治7年)8月 - 1937年(昭和12年)2月3日
茨城県出身の心霊主義運動の父。
筆名は浅野 馮虚(あさの ひょうきょ)、憑虚 とも。
東京帝国大学英文学科を卒業後、海軍に請われて、横須賀にある海軍機関学校の英語教官に赴任するが、1915年(大正4年)の春、三男が原因不明の熱病になり、多数の医者に見せても回復せず半年をすぎていたが、三峰山という女行者の言葉通りに快癒した事から、海軍機関学校を退官し、心霊研究に傾倒した。
また、和三郎の妻、多慶子は三男の病気が治った翌年から、霊的な能力を見せ始め、1929年(昭和4年)、次男の新樹の死をきっかけに霊言(トランス・トーク)を行うようになった。
夫人を霊媒として、小桜姫(実在の人物で戦国時代の武将・三浦荒次郎の妻。夫人、浅野多慶子の守護霊)が語った言葉をまとめた「小桜姫物語」など著書多数。
和三郎が設立、死後も「心霊科学研究会」及び「東京心霊科学協会」は活動を続けたが第二次世界大戦の激化で活動を休止。
現在は財団法人「日本心霊科学協会」、「日本スピリチュアリスト協会」として活動を行っている。

伊達 源一郎 (だて げんいちろう)

1874-1961
明治-昭和時代の新聞人、政治家。 明治7年3月15日生まれ。
国民新聞編集局長をへて大正7年読売新聞主筆となり、パリ平和会議を取材。
その後国民新聞、ジャパンタイムスなどの社長を歴任。
昭和22年参議院議員(緑風会)。
鳥類研究家でもあった。
昭和36年7月15日死去。87歳。島根県出身。同志社卒。号は樸堂。

海外編

↑ PAGE TOP