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学者・文化人(生年順)

1900(明治33)年~1904(明治37)年


山口 勘一(やまぐち かんいち)

1900(明治33)年2月20日-1955(昭和30)年2月24日
兵庫県出身の大正-昭和時代の農民運動家。
淡路(あわじ)を中心に日本農民組合の組織拡大と争議の指導につとめ、昭和3年の三・一五事件後、全国農民組合(全農)兵庫県連委員長となる。
6年の全農分裂後は左派の全農全会に属した。

北川 冬彦(きたがわ ふゆひこ)


画像は、丸メガネ研究会会員が旅先の滋賀県東近江市五個荘金堂町(ごかしょうこんどうちょう)にある近江商人屋敷で発見したもの。

1900年(明治33年)6月3日 - 1990年(平成2年)4月12日
大正-昭和時代の詩人。
大正14年新散文詩集「三半規管喪失」を出版。
昭和3年「詩と詩論」創刊に参加し、4年詩集「戦争」で注目される。
23年長編叙事詩「氾濫」を発表。
25年ネオリアリズムを提唱し第2次「時間」を主宰、現代詩を改革しつづけた。
平成2年4月12日死去。89歳。滋賀県出身。東京帝大卒。
本名は田畔(たぐろ)忠彦。
【格言など】義眼の中にダイヤモンドを入れて貰ったとて、何になろう(「戦争」)
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説より抜粋

西塔 幸子(さいとう こうこ)

1900年6月30日-1936年6月22日
女啄木と言われた歌人。
岩手県紫波郡不動村(現在の矢巾町)生まれ。
凶作の時代にその生涯を僻地教育に捧げる傍ら、哀切を込めて1000点以上の歌を詠み、遺稿歌集「山峡」を残して、川井村江繋小学校を最後に急逝。
「灯を消せば 山の匂いのしるくして
      はろけくも吾は 来つるものかな」

戸坂 潤(とさか じゅん)

1900年9月27日 - 1945年8月9日
東京出身の哲学者。
東京開成中学校、第一高等学校(現東京大学教養学部)理科を経て、1924年京都帝国大学文学部哲学科卒業、同大学院進学。
大学講師、大日本帝国陸軍少尉等を経て、1929年大谷大学教授就任も、翌年検挙。
もともとは物理学専攻であったが、後に西田幾多郎の下で哲学を学ぶ。
西田に師事する一方で、マルクス主義の研究者でもあったことから、学派的には三木清、舩山信一、梯明秀らとともにいわゆる西田左派に属する。
また、彼は1932年に設立された唯物論研究会の創始者の一人であり、同事務長等を務めたが、治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ、栄養失調から全身疥癬に苦しめられ、敗戦の直前(8月9日)に長野刑務所で獄死した。
戸坂は始め新カント主義の立場にあったが、空間論の研究を進めるなかで唯物論の立場に移り、日本の代表的な唯物論哲学者となった。
唯物論研究会の事実上のリーダーといってよい。
観念論哲学に対する批判を旺盛に行ったが、その死は観念論哲学者(田辺元など)からも惜しまれた。

麻田 辨次(あさだ べんじ)

写真は「現代美術家名鑑-昭和29年版」より
明治33(1900)年12月14日-昭和59(1984)年10月29日
京都出身の日本画家。
京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。旧姓は中西。本名は弁次。
西村五雲に師事。帝展、日展を中心に活躍。
昭和34年「風霜」が日展文部大臣賞。
40年「潮騒」が芸術院賞を受賞。
作品はほかに「樹蔭」「群棲」など。

稲垣 足穂(いながき たるほ)

1900年12月26日 - 1977年10月25日
日本の小説家。
大正時代から昭和時代にかけて、抽象志向と飛行願望・メカニズム愛好と不毛なエロティシズム・天体とオブジェなどをモチーフにした数々の作品を発表。
小説家になる前に前衛芸術家を志望していた経歴もあり、凝った装幀の本が多い。
代表作は『一千一秒物語』、『弥勒』など。

薩摩 治郎八(さつま じろはち)

1901年(明治34年)4月13日 - 1976年(昭和51年)2月22日
東京・日本橋において一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫として生まれる。
実業家、作家で大富豪。
その華麗で洒落た浪費ぶりから爵位がなかったにもかかわらず「バロン薩摩」と呼ばれた。
パリでは多くの芸術家と親交を深め、当時のヨーロッパ社交界にその名を轟かせた。
当時パリで活躍していた、画家の藤田嗣治などの日本人芸術家を支援したほか、美術や音楽、演劇などの文化後援に惜しみなく私財を投じた。
1959年(昭和34年)に徳島県を訪れ、旧友の蜂須賀正氏侯爵の墓参りを兼ねて阿波踊りを妻とともに楽しんでいた際に脳卒中で倒れ、その後徳島で療養生活を送った。
パリで開催された「薩摩展」で紹介された作品を中心とした「薩摩治郎八と巴里の日本人画家」企画展で紹介された作品の多くが徳島県立美術館に寄贈された。
フランス政府からレジオン・ドヌール勲章、日仏文化交流の功労で勲三等旭日章を授章。

岡 潔(おか きよし)

1901年4月19日 - 1978年3月1日
日本の数学者。
奈良女子大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1940年)。
大阪府大阪市生まれ。
フランス留学時代に、生涯の研究テーマである多変数解析函数論に出会い、当時まだまだ発展途上であった多変数解析函数論において大きな業績を残した。
その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、「岡潔」というのはニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていた事もあるという。
京都大学時代には湯川秀樹、朝永振一郎らも岡の講義を受けており、物理の授業よりもよほど刺激的だったと後に語っている。

丸木 位里(まるき いり)

1901年6月20日 - 1995年10月19日
日本画家。
広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)生まれ。
上京して田中頼璋・川端龍子に師事。
日本南画院、青龍社に参加し1939年から1946年まで美術文化協会展に出品。
1941年、洋画家の赤松俊子(丸木俊)と結婚した。
広島に原爆が投下されると郊外の三滝に住んでいた父・金助、母・スマを始めとする実家の家族の安否を気遣い俊とともに被爆直後の広島に赴き救援活動に従事した。
この体験をもとに1950年、俊と協働で『原爆の図』を発表。
以後、原爆の絵を描き続け1966年、埼玉県に原爆の図丸木美術館を設立。
1995年には、朝日賞を受賞したほか妻の俊とともにノーベル平和賞候補にも選ばれた。
『原爆の図』以外では、牛をモチーフとした作品でも知られる。

海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう)

1901年(明治34年)11月5日 - 1977年(昭和52年)12月1日、戸籍上は3月13日生れ
日本の小説家・作家。
本名は末富 東作(すえとみ とうさく)。鹿児島県伊佐郡大口村(現・伊佐市)生まれ。
國學院大學高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら、創作をおこなう。
1934年作家デビュー。歴史小説を多数発表した。
國學院大學教授で戦国史の大家であった桑田忠親との交友も深かった。
「天正女合戦」(『オール讀物』1936年4月号~7月号)と「武道伝来記」その他 (『日の出』1936年3月号)で第3回直木三十五賞(1936年上半期)を受賞。
史伝『西郷隆盛』がライフワークで、絶筆・未完作となった。

中野 実(なかの みのる)

1901年11月30日~1973年1月3日
小説家、戯曲作家。
大阪府生まれ。
法政大学文科中退後、戯曲などを中心に活動するようになる。
1931年、戯曲「二等寝台車」でデビュー。
ユーモア小説を得意とする。
直木賞候補になることもあった。
主に、『オール読物』や『キング』などの大衆紙に発表する事が多かった。
戦後、1954年には、戯曲「明日の幸福」で毎日演劇賞を受賞した。

三界 稔(みかい みのる)

1901年-1961年
鹿児島県出身の作曲家。
主なヒット曲は、島育ち、元気でねさようなら、上海だより、北満だよりなど。

岩田 百蔵(いわた ももぞう)

1901年 - 1978年
株式会社イワタの創業者。
埼玉県川越市相生町うまれ。
1920年(大正9年)京橋区木挽町一丁目11に、株式会社イワタの起源となる岩田母型製造所を創業。

中野 重治(なかの しげはる)

1902年1月25日 - 1979年8月24日
日本の小説家、評論家、詩人。
福井県出身。
東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。
この間に多くの作品を発表した。
1931年に日本共産党に入ったが、検挙される。
戦後、再び日本共産党に入り、また、『新日本文学』の創刊に加わる。
平野謙、荒正人らと「政治と文学論争」を引き起こし、戦後文学を確立させた。
1947年から50年まで参議院議員。
代表作に、小説『むらぎも』『梨の花』『歌のわかれ』、評論『斎藤茂吉ノオト』『甲乙丙丁』、詩集『中野重治詩集』など。

直良 信夫(なおら のぶお)

1902年1月1日(戸籍上は10日) - 1985年11月2日
大分県臼杵市出身 考古学者、動物考古学者、古生物学者、文学博士。
明石人、葛生人などの発見で知られる。
また、従来の日本考古学では等閑に付されていた、遺跡から出土する骨や種子といった、動物植物の様々な遺骸を考古学的に研究し、過去の食物や環境復元を進めた。
特に貝塚研究では先駆的業績をあげ、今日の動物考古学や環境考古学の礎(いしずえ)を築いた。

吉野 秀雄(よしの ひでお)

1902年7月3日 - 1967年7月13日
群馬県高崎市生まれの歌人。
慶應義塾大学経済学部に入学するが中退。
在学中に若くして結核をわずらい、以後生涯の多くを床の中で過ごすも、創作活動に没頭する。(「病人歌人」としても知られる。)
伊藤左千夫・正岡子規らアララギ派の作風に強い影響を受けた作風で知られる。
戦中に妻はつ子と死別。
2番目の妻のとみ子は詩人の八木重吉(結核の為29歳で亡くなる。)の元妻である。
次男・吉野壮児(1933年 - 1993年)は翻訳家で、森珠樹の筆名を持つ。
戦後、鎌倉アカデミアで教鞭をとり、そこで学んだ山口瞳は、吉野と終生交流を持ち、没後1969年に『小説・吉野秀雄先生』を書き、師の実像を伝えた。

水田 硯山(みずた けんざん)

写真は<大日本画家名鑑-昭和15年版>より
明治35(1902)年12月14日-昭和63(1988)年9月7日
大阪出身の大正から昭和時代の日本画家。
本名は美朗(よしろう)。
兄の水田竹圃(ちくほ)にまなぶ。
日本南画院を中心に、帝展、新文展、日展などでも活躍し、帝展特選3回。
後期印象派の影響をうけた山水画をえがく。
作品に「雲散、水肥」「桐江新翠」など。

三苫 京子(みとま きょうこ)

写真と文は「北九州市立文学館」からお借りしました。
1902-1966 歌人。
本名ヨネ。若松生まれ。
1916(大正5)年、若松実科女学校入学、この頃より短歌をこころざす。
「青い壺」「きゑんば」「邪宗門」などに作品を発表、「万潮報[よろずちょうほう]」に短編小説を応募して入選。
1919(大正8)年、三苫守西と結婚。
若山牧水の「創作」へ加入、師事。
斎藤瀏[りゅう]は「三苫夫妻の競詠は歌壇の偉観である」と述べた。
戦後守西と「牧門[ぼくもん]」創刊。
歌集『青梅』『三苫守西京子諷詠』。

草野 心平(くさの しんぺい)

1903年(明治36年)5月12日 - 1988年(昭和63年)11月12日
日本の詩人。
福島県上小川村(現・いわき市小川町)出身。
兄の草野民平、弟の草野天平も詩人。
「蛙の詩人」と俗に言われるほどに、生涯にわたって蛙をテーマとした詩を書きつづけた。
また蛙と同様、生涯にわたって「富士山」を追い求め、最後の詩集にも登場する。

林 房雄(はやし ふさお)

1903年(明治36年)5月30日 - 1975年(昭和50年)10月9日
日本の小説家、文芸評論家。
大分県出身。
戦前にプロレタリア作家としてスタートしたが、戦後は中間小説の分野で活動し、『息子の青春』、『妻の青春』などを出版し舞台上演され流行作家となった。
林の『大東亜戦争肯定論』は有名で、当時いわゆる進歩的文化人が跋扈していた論壇で、林はあえて、敗戦後GHQにより使用を禁じられ、占領終了後もその用語がタブー視された「大東亜戦争」という名称を用いた。
「肯定論」の中心をなす主張は、幕末のペリー来航以来の日本近代史を、アジアを植民地化していた欧米諸国に対する反撃の歴史、「東亜百年戦争」と把握している点にある。
そして、1941年12月8日に始まる大東亜戦争こそはその1世紀にわたる全過程の帰結だった、としている。
これは、スケールの大きな一種の文明論であり、ハンチントンが言う「日本文明」の考えかたにも通じるところがある。
しかしこの論は当時の日本では過激な右翼思想として受け取られ、林自身、住居がある鎌倉で何度も暴漢に襲われた。

山本 周五郎(やまもと しゅうごろう)

1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日
山梨県出身の小説家。
本名、清水三十六(しみず さとむ)。
作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。
また伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。
1943年『日本婦道記』で第17回直木賞に推されるも辞退し、直木賞史上唯一の授賞決定後の辞退者となった。
1961年(昭和36年)文藝春秋読者賞に『青べか物語』が推薦されるがこれも辞退。
死後、功績をたたえて、山本周五郎賞がつくられた。
数多くの作品が映画化やドラマ化、舞台化された。

堀越 二郎(ほりこし じろう)

1903年6月22日 - 1982年1月11日
日本の航空技術者。
位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。
三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて革新的な設計を行うが、むしろ零式艦上戦闘機の設計主任として有名。
戦前には七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機(後の九六式艦上戦闘機)、戦時中は零式艦上戦闘機を含め、雷電、烈風と数は少ないものの、後世に語り伝えられる名機の設計を手掛けた。
九試単座戦闘機では逆ガル翼を採用するなど革新的な設計を行い、のちの九六式艦上戦闘機の開発につながった。
戦後は木村秀政らとともにYS-11の設計に参加した。
三菱重工業は戦後分割されたため、それにともない発足した中日本重工業(のちの新三菱重工業)に勤務した。
新三菱重工業では参与を務めた。
新三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関で教鞭を執った。
1963年から1965年にかけて、東京大学の宇宙航空研究所にて講師を務めた。
65年「人の操縦する飛行機の飛行性の改善に関する研究 :昇降だ操縦系統の剛性低下方式」で東大工学博士。
1965-69年防衛大学校教授。
1972-73年日本大学生産工学部教授。

棟方 志功(むなかた しこう)

1903年9月5日 - 1975年9月13日
日本人の板画家。
青森県出身。
20世紀の美術を代表する世界的巨匠。
1942年以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。
少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「わだば、ゴッホになる」と芸術家を目指す。
生命力、躍動感に溢れた力強い傑作を数多く生み出し、1956年ヴェネチア・ビエンナ-レ国際美術展に「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。
棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。
大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを鼻ずさみながら板画を彫った。
仏を題材にした作品が特に有名。

島木 健作 (しまき けんさく)

1903年9月7日 - 1945年8月17日
北海道札幌市生まれの小説家。
本名は朝倉 菊雄(あさくら きくお)。
高見順・中野重治・徳永直・林房雄らとともに、転向文学を代表する作家の1人。

中岡 艮一(なかおか こんいち)

1903年(明治36年)10月12日 - 没年不詳
明治から昭和にかけての日本の鉄道労働者。
現職首相であった原敬を暗殺した犯人。

今 日出海(こん ひでみ)

1903年11月6日 - 1984年7月30日
小説家、評論家。
幅広い人脈を作った。
初代文化庁長官。北海道函館生まれ。
三人兄弟の末子で、長兄は、のちの小説家で天台宗僧侶の、今東光。
1928年、東大仏文科卒。就職できず、法科へ入り直したが、外交官試験の年齢制限に気付き翌年退学。
『文學界』誌の同人に加わり、評論・随筆・翻訳を載せた。
左翼に同じぬ正統芸術派的立場であった。
1941年11月、陸軍の報道班員に徴用されマニラに約1年滞在、1944年12月に再度徴用された時は、マニラについて直ぐのアメリカ軍の上陸にあい、数ヶ月の逃避行の後、福岡雁ノ巣飛行場へ帰った。
1968年佐藤栄作首相に請われて文化庁初代長官を約4年間勤めた。
1972年から国際交流基金の初代理事長を8年間勤め、1980年には国立劇場会長となった。
そのほか、放送番組向上委員会委員長、日本アカデミー賞協会会長などの役職が、80近くに及んだ。(写真向かって左は坂口安吾)

北村 兼子(きたむら かねこ)

明治36年(1903)11月26日大阪府に生れる。
梅田高等女学校(大手前高校の前身)を経て、 大阪外国語学校(大阪外大の前身)に入学、大正12年、同校英語科を修了。
のち、関西大学大学部法律科に学ぶ。
22歳の春、朝日新聞発 行の雑誌『婦人』に「法律を学ぶ私」を出して認められ、 在学のまま朝日新聞社に入社。
記者の傍ら文筆活動を続ける。
昭和2年、 同社を退職し、翌年ホノルルで開催された汎太平洋婦人会議に日本の政治部委員として出席。
昭和4年、ベルリンで開かれた万国婦人参政権大会に日本代表として出席した。
そのあとロンドン労働学校に学ぶ。
昭和5年、香港・中国を歴遊。
同年12月、ライセンスを得るべく立川の日本飛行学校に入る。
翌年4月単独飛行できるようになり、8月には訪欧飛行を決行する予定のところ、にわかに発病、昭和6年(1931)7月26日没した。27歳。
著書に、『ひげ』『怪貞操』『婦人記者廃業記』『子は宝なりや』『大空に飛ぶ』等がある。
以下は、産経新聞(2013.11.25夕刊)の記事「ジャーナリスト北村兼子」(執筆:大谷渡)からの転載です。
《 欧州そして、中国や台湾などへの旅を通して、北村は航空機が持つパワーを目の当たりにし、航空機時代の到来を予見した。
そして、飛行機の操縦免許を取得するため、東京・立川の日本飛行学校に入り、訓練と原稿執筆に全霊を注いでいた。
「日本は戦闘艦と大砲にいつまでも固執している」「戦争の勝敗は2千マイルの上空で決まる」と、彼女は記した。
航空機の発達は、世界中に人と物を猛スピードで移動させ、 軍事・経済・文化は一変するというのであった。》

林 芙美子(はやし ふみこ)

左は若い頃の林芙美子
1903年12月31日 - 1951年6月28日
小説家。
本名はフミ子。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」という言葉で知られる。
晩年は映画化されるなど女流作家として確固たる地位を築いたが、作風は自らの貧困に苦しんだ生い立ち、流浪の経験などを基にした、生々しい実感を伴う表現や人物描写が特徴である。
1928年から雑誌『女人芸術』に19歳から23歳頃までの多感な放浪の日々を書き綴った私小説『放浪記』を連載し、1930年に単行本として出版され当時のベストセラーとなった。
女優の森光子が45年以上、舞台『放浪記』で林芙美子役を演じ続ける。

淀野 隆三(よどの りゅうぞう)


画像は、丸メガネ研究会会員が旅先の滋賀県東近江市五個荘金堂町(ごかしょうこんどうちょう)にある近江商人屋敷で発見したもの。

1904年(明治37年)4月16日 - 1967年(昭和42年)7月7日)
昭和時代のフランス文学者。
梶井基次郎らの同人誌「青空」に参加。
昭和5年北川冬彦らと「詩・現実」を創刊する。
戦後、三笠書房専務をへて27年明大教授。
プルーストの「スワン家の方」(共訳)やジッドの「狭き門」などの翻訳で知られる。
昭和42年7月7日死去。63歳。京都出身。東京帝大卒。本名は三吉。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説から抜粋

石川 光陽(いしかわ こうよう)

本名:石川 武雄。
1904年(明治37年7月5日) - 1989年(平成元年)
警視庁に所属していた警察官・写真家である。
警視総監直々の命令を受けて東京大空襲の惨状などを撮影したことで知られる。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の際も、その惨状を33枚の写真に残した。
空襲開始後に両国警察署(現・本所警察署)にかろうじて到達したが、猛烈な風と煙と火の粉のために撮影はできず、目前で多数の市民が死んでいくのをどうすることもできなかったという。
カメラを抱いて逃げまどい、奇跡的に生存、夜が明けてから被害の様相を撮影した。
このときの様子については「無惨な同胞の死体にカメラを向けることは、死者から叱られるようで一番つらかった。然し使命の前には非情にならざるを得なかった。合掌をしながらそこを立ち去り警視庁まで歩いて帰った」と戦後に記している。
戦時中は一般市民が空襲の被災現場を写真に撮影することは事実上禁じられていたため、光陽が撮影した一連の写真は空襲の被害を伝える貴重な映像となった。
また、戦後GHQの空襲被害状況を撮影したネガを提出せよという命令を拒否し、ネガが押収される事を防ぐために、自宅の庭に埋めて保存した。
光陽がGHQからネガを守りぬいたことにより、東京大空襲の惨状を視覚的に捕らえる写真という形で後世に残る事になった。
戦後も警察官として1963年(昭和38年)まで活躍し、1989年(平成元年)に85歳で死去した。

橋本 明治(はしもと めいじ)

1904年8月5日 - 1991年3月25日
日本画家。
島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)生まれ。
19歳の時、妹をモデルに制作した≪ガラシャ夫人像≫が島根県展に入選。
日本画の伝統にこだわらず、くっきりとした描線と鮮やかな色彩が印象的な、独自の作風を生み出したことで知られる。
1940年、36歳の若さで法隆寺金堂壁画を模写するという大役を任された。
1952年≪赤い椅子≫で芸能選奨文部大臣賞、1955年≪まり千代像≫で日本芸術院賞を受賞。1974年文化勲章受賞。

堀 辰雄(ほり たつお)

1904年12月28日-1953年5月28日
昭和初期に活躍した日本の作家。
東京都出身。代表作「風立ちぬ」
婚約者の矢野綾子も肺を病んでいたために、1935年(昭和10年)7月に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に二人で入院するが、綾子は12月6日に死去。
この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となり、1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にわたって執筆された。
堀辰雄の中編小説『風立ちぬ』冒頭に、堀自身が訳したヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節「風立ちぬ、いざ生きめやも(Le vent se lève, il faut tenter de vivre.)」が引用されており、また小説の題名にも使われている。

海外編

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