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学者・文化人(生年順)

1860(安政6)年~1864年(元治元年)


宮部 金吾(みやべ きんご)

万延元年閏3月7日(1860年4月29日) - 昭和26年(1951年)3月16日
日本の植物学者。北海道札幌市名誉市民。
札幌農学校第二期卒業生(現在の北海道大学)。
武蔵国に生まれる。
札幌農学校卒業後、開拓使御用掛となる。
1883年、札幌農学校助教授に就任。
1889年、札幌農学校教授に就任。
1927年、定年退官。
1946年、文化勲章を受章。
1949年、札幌市栄誉市民となる。
新渡戸稲造と内村鑑三は札幌農学校の同期。
然別湖に生息するミヤベイワナの名称は、最初の発見者である彼の名前にちなんで、農学博士の大島正満が命名したものである。
植物の分布境界線「宮部線」に名を残している。

根津 嘉一郎(ねづ かいちろう)=初代


写真は根津美術館HPより
万延元年6月15日(1860年8月1日) - 1940年1月4日)
山梨県出身の政治家、実業家。
東武鉄道や南海鉄道(現・南海電気鉄道)など日本国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わった。「鉄道王」と呼ばれることで有名。
「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと、教育事業も手がけ、1922年に旧制武蔵高等学校(現在の武蔵中学校・高等学校)を創立する。
なお、1904年(明治37年)以降衆議院議員を連続4期務めた他(憲政会)、1920年(大正9年)より勅選貴族院議員となった。
墓所は多磨霊園。

天野 為之(あまの ためゆき)


1861年2月6日(万延元年12月27日) - 1938年(昭和13年)3月26日
明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士。
東京大学文学部政治理財科卒業。衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任した。勲三等瑞宝章受章。
日本における経済学研究の黎明期に、ジャーナリズム、教育、政治などの多方面にわたって活躍し、特にジョン・スチュアート・ミルに代表される古典派経済学の紹介や、経済理論の普及に尽力した。
現在も続く『東洋経済新報』、早稲田大学商学部、早稲田実業学校の基礎を築き上げた中心的な人物の一人である。

田辺 朔郎(たなべ さくろう)


文久元年11月1日(1861年12月2日) - 昭和19年(1944年)9月5日)
江戸に生まれる。
土木工学者。琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行った。
工部大学校を卒業したばかりの23歳にして「琵琶湖疏水」の設計と監督の総責任者に抜てきされ、琵琶湖疏水は5年かけて1890年、約20キロが完成。
物資の輸送路や電力源となり、京都に活気を取り戻した。
完成まもない疏水は1900年発表の鉄道唱歌51番に「岩切り抜きて舟をやる 知識の進歩も見られたり」と登場した。
東京帝国大学工科大学教授、京都帝国大学教授、京都大学工科大学長を務めた。
退官後も大阪市営地下鉄などの各地の鉄道建設計画等に関与した。

小栗貞雄(おぐり さだお)


文久元年1861年生まれ
衆議院議員矢野龍渓の弟。
江戸時代幕臣小栗忠順の子の国子と結婚し小栗家に養子入り小栗家十四代として家督を継ぐ。
大隈重信の立憲改進党の結成に、兄・龍渓と共に参加して「郡区長公選論」を演説し、明治21年には改進党員を中心に組織された明治倶楽部に加わるなど政治の実践活動を行う。
龍渓の意をうけて報知新聞の改革を推進し、31年8月には、衆議院議員となり一期つとめる。
産児制限論を報知新聞に発表したり、社団法人実費診療所を設立し、医師加藤時次郎や実業家鈴木梅四郎と共に、社会改良主義に根ざした医療の社会化を目指した。

三好 学(みよし まなぶ)


1861年(文久元年) - 1939年(昭和14年)
明治・大正・昭和時代の植物学者、理学博士。
美濃国岩村藩(現岐阜県恵那市)江戸藩邸に生まれ、幼年を岩村で過ごした。
わずか18歳で、小学校校長に就任。
その後、東京大学理学部生物学科を経て、大学院へと進み、植物学の研究を続けた。
在学中、ドイツ留学を命ぜられ、帰国後35歳の若さで東大教授に就任、理学博士の学位を受ける。
東大教授在学中に発表した研究論文は、100編におよび、その著書も100冊といわれ、わが国植物学の基礎を築き、桜と菖蒲の研究における、世界的な第一人者として著名。
地理学者の辻村太郎が、1937年に著した『景観地理学講話』の中で「景観」という言葉を生み出した人物としてとりあげている。
また、日本に「記念物(デンクマール、denkmal )の概念を広めた人物でもある。

牧野 富太郎(まきの とみたろう)


文久2年4月24日(1862年5月22日) - 1957年(昭和32年)1月18日
日本の植物学者。高知県出身。
「日本の植物学の父」と言われ多数の新種を発見し命名も行った、近代植物分類学の権威。
その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして「牧野日本植物図鑑」に代表される多数の著作として残っている。
小学校中退でありながら理学博士の学位も得、生まれた日は「植物学の日」と制定された。
亡き妻の名を冠したスエコザサのエピソードはよく知られているが、私情を挟んだ献名は例外的であり、シーボルトが愛人お滝を偲んでアジサイに オタクサの学名を命名したことについては激しく非難している。
ちなみにオタクサの由来をシーボルトは日本での地方名だと著書に述べていたものが事実に反し、お滝に献名したものであることをつきとめたのも牧野である。

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)


文久2年8月8日(1862年9月1日- 1933年10月15日)
農学者、教育者。国際連盟事務次長も務め、著書 『武士道』は、流麗な英文で書かれ、名著と言われている。
日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。
かなり熱しやすい硬骨漢であったが、学生時代にキリスト教に深い感銘を受け、敬虔なクエーカー教徒となり、後に妻となるメリー・エルキントンと出会うことになる。
教授として札幌農学校に赴任した際に、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。
だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニアで転地療養中に名著『武士道』を英文で書きあげた。
日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。

黒岩 涙香(くろいわ るいこう)


1862年11月20日(文久2年9月29日) - 1920年(大正9年)10月6日
土佐国安芸郡(現在の高知県安芸市)出身の明治時代の知識人、思想家、作家、翻訳家、探偵小説家、ジャーナリスト。
兄は黒岩四方之進。本名は黒岩周六。黒岩涙香のほか、香骨居士、涙香小史などの筆名を用いた。号は古概、民鉄、黒岩大。あだ名はマムシの周六。戒名は黒岩院周六涙香忠天居士。
翻訳家、作家、記者として活動し、『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊した。

上山 英一郎(うえやま えいいちろう)


文久2年(1862年) - 昭和18年(1943年)9月7日)
和歌山県出身の蚊取線香の発案者。
また、「金鳥」の商標で知られる大日本除虫菊の創業者。
1887年、除虫菊の栽培に成功し、1890年、仏壇線香からヒントを得、持続時間1時間程の棒状の蚊取り線香を考案、発売する。
1895年、妻・ゆきの「渦巻き型にすればよいのでは」というアイデアに着想を得て蚊取り線香の改良に着手、1902年に日本初の渦巻き型蚊取り線香を発売開始した。
1910年、それまでの功績から藍綬褒章を受章した。

手島呉東(てじま ごとう)


1862年~1936年
広島県賀茂郡仁方村(現在の呉市仁方)出身の画家。俗称謹一郎。
庄屋手島浦太郎の次男として文久2年に生まれ、大阪の南宗の大家、森琴石(1843~1921)に師事して画技を磨き、特に山水画を得意としていた。
初め師匠琴石の一字を取って香石、中年期には素岳、老年期には呉東と名乗り、広島を拠点としながら精力的に制作を続け、「独立大家」と評された。
「本朝古今書画名家詳伝」(明治27年)、「日本名画家選」(昭和5年)、「帝国古書が便覧」(昭和8年)等に呉東の名が見られる。
弟子に加茂郡志和村出身の栗田扇山(栗田達郎)、安芸郡奥海田出身の出野曦山(出野亀登)等がいる。

棚橋 一郎(たなはし いちろう)


文久2年11月12日(1863年1月1日) - 昭和17年(1942年)2月7日
岐阜県出身の教育者、漢学者(今でいう倫理学者)。
明治22年(1889年)、郁文館中学(現在の学校法人郁文館夢学園の前身)を創立。
明治36年(1903年)に、母絢子他七名と共に、東京府下最初の私立高等女学校である東京高等女学校(現在の東京女子学園中学校・高等学校の前身)を創立。
衆議院議員。東京市会議員。

徳富 蘇峰(とくとみ そほう)


文久3年1月25日(1863年3月14日) - 昭和32年(1957年)11月2日
明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、歴史家、評論家。徳富蘆花は弟。
戦前・戦中は亜細亜モンロー主義を主張する大思想家として多くのファンを有したが、戦後は評価が一転した。
しかしながら、60年以上にもわたる言論活動と300冊に及ぶ著書は、近代日本の歩みと矛盾を体現したものであったとも言えよう。
『近世日本国民史』は1918年(大正7)に起稿し、1952年(昭和27)に完結。
史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書である。

岩井勝次郎(いわい かつじろう)


1863年5月28日(文久3年4月11日) - 1935年12月21日
京都府出身の実業家。
岩井商店の創業者であり、多角化戦略により岩井財閥を形成した。旧姓・蔭山。
大阪京町の堀通りで加賀屋文助として舶来雑貨の売買仲介業をしていた勝次郎の伯父である岩井文助のもとに奉公に出ていた勝次郎は、文助の長女栄子と結婚。
「蔭山姓」から「岩井姓」となり、家業は文助・勝次郎の共同企業の性格を持つにいたった。
しかし、事業観の相違から、勝次郎は明治29年(1896年)に独立営業に踏み切った。
これが岩井商店のはじまりであり、その後、日商と合併して、日商岩井株式会社となった。
関西ペイント、東亜紡織、日新製鋼など多くの岩井系企業を設立し、自らも、大正5年に岩井財閥の持株会社として合資会社岩井本店を創設し関西実業界の立役者になった。

清沢 満之(きよざわ まんし)


文久3年6月26日〈1863年8月10日〉 - 明治36年〈1903年〉6月6日
明治期に活躍した真宗大谷派僧侶、哲学者・宗教家。
院号法名は、信力院釋現誠。名古屋生まれ。
1878年2月、得度して真宗大谷派の僧侶となり、東本願寺育英教校に入学、その留学生として東京大学予備門に進み、1887年に東京大学文学部哲学科を首席で卒業。
明治36年(1903年)6月6日、肺結核が悪化し、改革の道半ばにして西方寺にて死去、満39歳没。
西洋近代哲学の素養の上に立って浄土真宗の信仰を受け止め、近代思想界に紹介した功績、また、そうした素養と信仰とに基づき、内外両面において仏教の近代化を推進した功績は大きい。
晩年の著作からは、自身の深い信仰のあり様がうかがわれる。
著述は『清沢満之全集』(岩波書店)に収載される。

藤山 雷太(ふじやま らいた)

1863年9月13日(旧暦文久3年8月1日)- 1938年(昭和13年)12月19日
佐賀藩出身の明治・大正・昭和の実業家、貴族院勅選議員。
東京商業会議所会頭、芝浦製作所所長、大日本製糖社長、藤山同族社長、大日本製氷会長、日印協会理事、また三井財閥・安田財閥・共同の各信託会社の相談役・取締役等を歴任し、藤山コンツェルンを創立した。
正五位勲三等。
フランス政府からレジオン・ドヌール・シュバリエ勲章を受章。
安南(現在のベトナム)国王からはグラン・オフィシェ・ド・ランテン勲章を贈られた。
自民党の藤山派の領袖であった藤山愛一郎は、雷太の長男である。

油屋 熊八(あぶらや くまはち)


1863年(文久3年) - 1935年(昭和10年)3月24日)
大分県別府市を日本有数の温泉地に育てた実業家。
別府観光の生みの親と言われる。亀の井旅館(現在の別府亀の井ホテル)を創業。
バス事業にも進出し、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始した。
様々な奇抜なアイデアで別府の宣伝に努め、別府の名前を全国に広めたが、地獄めぐりもその一つ。

平沼 淑郎(ひらぬま よしろう)


文久4年2月7日(1864年3月14日)- 昭和13年(1938年)8月14日
岡山県出身の経済学者。東京大学文学部政治理財学科卒業。法学博士。
第三代早稲田大学学長。
首相・平沼騏一郎の兄。字は君一。鶴峯、洋堂学入、灑骨野人、鶴廼家などと号す。平沼赳夫は曾孫。
早稲田大学商学部長として学部の充実に貢献し、商学部棟の1階に朝倉文夫作の胸像がある。

二葉亭 四迷(ふたばてい しめい)


元治元年2月28日(1864年4月4日) - 1909年(明治42年)5月10日
日本の小説家、翻訳家。
二葉亭四迷の由来は、文学に理解のなかった父に、「くたばってしめえ!」といわれたことから。
江戸市ヶ谷生れ。東京外国語学校露語科中退。
坪内逍遥と交流を結び、その勧めで評論『小説総論』を発表。1887年から91年の間に出された写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の先駆となった。
また、ロシア文学の翻訳もよくし、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」は特に有名。
自然主義作家へ大きな影響を与えた。
後に『其面影』『平凡』を書いたが、1909年、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で客死した。

若松賎子(わかまつ しずこ)


元治元年 3月 1日(1864年4月6日)-明治29年(1896年 2月10日)
日本の翻訳家、小説家。会津若松生。
フェリス女学院の前身校に学び、後に同校の教師となり、キリスト教の精神に徹した翻訳や創作、評論に麗筆をふるった。
1890年(明治23)には日本で最初にバーネットの書いた本「小公子」を翻訳した。
持病の肺疾患に心臓麻痺を併発し31歳で亡くなった。

大塚惟明(おおつか これあき)


元治元年4月2日(1864年5月7日)-昭和3年12月28日)
熊本県出身の実業家。東京帝国大学卒業。
山陽鉄道、讃岐鉄道で斬新なサービスを展開、「旅客吸収策の天才」と呼ばれる。
中長距離蒸気鉄道の電化と競合路線の併合により輸送力を強化し、斬新な旅客サービスと電化推進でわが国初の純民間鉄道を育てた。
43年南海鉄道社長。大阪市会議員も務めた。

伊藤左千夫(いとう さちお)


元治元年8月18日(1864年9月18日) - 大正2年(1913年)7月30日
日本の歌人、小説家。本名 幸次郎。
現在の千葉県山武市の農家出身。正岡子規に師事。
]1905年には、子規の写生文の影響を受けた小説『野菊の墓』を『ホトトギス』に発表。
夏目漱石に評価される。
代表作に『隣の嫁』『春の湖』など。
左千夫は茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けた。

池田 菊苗(いけだ きくなえ)


1864年10月8日(元治元年9月8日) - 1936年5月3日
京都出身の化学者。
1889年、帝国大学理科大学化学科(現東京大学理学部化学科)卒業、大学院へ進学する。
1896年東京帝国大学理科大学化学科の助教授をへて、ドイツ・ライプツィヒ大学オストワルド研究室に留学。
1901年ロンドンに滞在中は夏目漱石と同じ下宿に住み、以降親交を持つ。
帰国後、東京帝国大学教授に昇進。
1902年、理学博士の学位を取得。
1907年、酸甘塩苦の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手。
昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見し、翌1908年にグルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得。
1909年5月、うまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売された。
本人はグルタミン酸を、「具留多味酸」と表記した。
1913年、日本化学会会長。1917年、理化学研究所の創立に参加(同化学部長)。
1919年、帝国学士院会員に任命される。
1923年、東京帝国大学を退職。
高弟に鰹節のうま味成分であるイノシン酸を発見した小玉新太郎がいる。
小栗旬が池田に扮した味の素社のテレビCMが2008年より放映されていたことから、一般に認知度を広めている。

横河民輔(よこがわ たみすけ)


若き日の横河民輔


業界団体トップや経営者として活躍していたころの横河民輔

1864年10月28日(元治元年9月28日) - 1945年(昭和20年)6月25日)
明治・大正・昭和期の建築家・実業家。横河グループ創業者。
日本の鉄骨建築の先駆者。
アメリカの雑誌で鉄骨構造を知ったという。
帝国大学工科大学造家学科(現東京大学工学部建築学科)で建築学を学ぶ。
1896年(明治29年)、三井総営業本店の設計を開始し、1902年(明治35年)に竣工。
施工の実際の指導から材料の発注まで一人でこなした。
1903年(明治36年)に独立して、横河工務所(現在の横河建築設計事務所)を開設。
1906年(明治39年)大阪支店開設。
同年からは東京帝国大学工科大学建築学科で鉄骨構造の講義も担当。
1915年(大正4年)、工学博士。
さらに、鉄骨橋梁部門を橋梁メーカーの横河橋梁製作所、現・横河ブリッジとして分離独立。
その後、横河化学研究所・東亜鉄工所・満州横河橋梁会社、計測・制御機器メーカーの電気計器研究所、現・横河電機等を創業(最後には倭楽研究所という、琴の演奏を趣味としていた民輔が、長すぎて運ぶのに不便な琴を折りたたみ式にするための会社も設立)。
実業家としての手腕を発揮した。

菅 虎雄(すが とらお)


1864年11月17日(元治元年10月18日) - 1943年(昭和18年)11月13日
明治-昭和前期のドイツ語学者。
号は無為、白雲、陵雲。夏目漱石の親友としても知られている。
菅が帝大にいた時、英文学科の2年後輩に夏目金之助がいた。
菅は、漱石を五高へ招いたり、円覚寺への参禪を促したり、二人は生涯に渡って親友であり続けた。
能書家としても知られ、漱石の墓碑銘は菅虎雄の手になる。

竹内栖鳳(たけうち せいほう)


1864年12月20日(元治元年11月22日) - 1942年(昭和17年)8月23日)
京都市出身。円山四条派の幸野楳嶺に学ぶ。
渡欧後は伝統的画法に西洋画の写実性も取り入れ、日本画の革新をリード。
京都画壇を代表する大家で、上村松園や西山翠嶂ら多くの後進を育てた。
代表作に「班猫(はんびょう)」「アレ夕立に」など。
「東の大観(横山大観)、西の栖鳳」と並び称され、共に1937年に第1回文化勲章を受章した。
写真と人物解説~2014年8月30日付け北国新聞より

中山秀三郎((なかやま ひでさぶろう)


写真は公益社団法人土木学会のサイトからお借りしました。
1864年(元治元年)-1936年(昭和11年)11月19日
明治-三河(愛知県)出身の昭和時代前期の土木工学者。東大土木卒。
関西鉄道会社をへて1890年東大助教授、1896年河海工学研究のため欧米へ留学し1898年教授。
この間、帝国経済会議、学術研究会議、土木会議等会員を歴任、内務技師、逓信技師等を兼務し港湾、発電水力、河川、砂防植林等に貢献し、1926年退官(名誉教授)。
1934年帝国学士院会員。
土木学会の創立に深くかかわったほか土木用語調査委員会委員長としての功績が大きい。

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