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学者・文化人(生年順)

1865年(元治元年)~1869(明治2)年


山路 愛山(やまじ あいざん)


1865年1月23日(元治元年12月26日) - 1917年(大正6年)3月15日
明治・大正初期に活躍した評論家、歴史家。
江戸の生まれ。本名、弥吉。
「国民新聞」の記者、「信濃毎日新聞」の主筆を経て雑誌「独立評論」を創刊。
独自の国家社会主義を主張した。
著「足利尊氏」「社会主義管見」「現代金権史」など。

白鳥 庫吉(しらとり くらきち)

元治2年2月4日(1865年3月1日) - 1942年4月1日
東洋史学者、文学博士。東京帝国大学(現 東京大学)教授。千葉県出身。
邪馬台国北九州説の提唱者として有名。
弟子に津田左右吉など。
外交官、政治家の白鳥敏夫は甥。
東大在学中はルートヴィヒ・リースに師事。
その後学習院教授、東京帝国大学文科大学史学科教授を歴任。更に東宮御学問御用掛として東宮時代の昭和天皇の教育にも携わる。
1910年に「倭女王卑弥呼考」を著し、「邪馬台国北九州説」を主張。
時を同じくして同時期の著名な東洋学者で「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称せられた京都帝国大学(現京都大学)の内藤湖南教授が「卑弥呼考」を著し畿内説を主張。
東大派と京大派に別れ激しい論争を戦わせた。

長岡 半太郎(ながおか はんたろう)

1865年8月15日(慶応元年6月28日) - 1950年12月11日)
日本の物理学者。長崎県大村市生まれ。
土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。
また、東京帝国大学教授として本多光太郎や仁科芳雄など多くの弟子を指導し、初代大阪帝国大学総長や日本学士院院長などの要職も歴任した。
1937年、初代文化勲章受章。ノーベル賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一郎は仁科の弟子であり、長岡から見れば孫弟子にあたる。
なお、朝永の父朝永三十郎は同じ大村市出身ということで、長岡とは旧知の仲であった。
1900年パリで開催された万国物理学会では、キュリー夫妻など当時の有名物理学者とともに参加、磁歪の研究成果を報告。
1922年アインシュタインが来日で日本中でアインシュタインブームが起こった際は、宮中にて相対性理論の講義を行った。
原子核の周りを回る電子の問題については、1913年、ニールス・ボーアがボーアの原子模型を発表するに至って解決を見たが、それは、明治37年(1904年)に長岡が提唱した土星型の原子モデル(理由を厳密に説明できなかったことから当初余り注目されなかった。)と同じであった。

臼井 甕男(うすい みかお)

1865年8月15日 - 1926年3月9日
現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の肇祖(ちょうそ)。岐阜県出身。
1922年4月に指導法や五戒(今日丈けは 怒るな 心配すな 感謝して 業をはけめ 人に親切に 朝夕合掌して心に念じ 口に唱へよ)を定めた上で臼井霊気療法学会を設立する。
現在世界中に広まっているレイキは、臼井が養成した21または20人の師範(レイキを他人に伝授できる資格者)の一人林忠次郎がハワイ在住の日系人高田ハワヨに伝授したものが広まったもの。

中村長八(なかむら ちょうはち)

慶応1年8月2日(1865年9月21日)-昭和15年(1940年)3月14日
大正昭和期のブラジル伝道の神父。
洗礼名はドミンゴス。長崎県五島列島キリシタン家系の出。
奄美大島で25年間伝道の後、教皇庁と在ブラジル公使より開拓前線の索漠とした日本移民のために司祭派遣の要請があり、志願して大正13(1924)年60歳でブラジルに渡る。
日本人として海外伝道の最初の神父となる。
広大な荒野に散在した日本人家族を振分け荷を肩に徒歩や馬で巡回、ときには野宿、毎年9カ月は旅に暮らした。
サンパウロとその隣接の州で足跡のおよばぬ所なく、秘蹟を与えるためには唯ひとりの信者でも毎年必ず巡回、それまで日本人を邪教徒視していたブラジル人からも聖人と慕われた。<参考文献>
佐藤清太郎『中村神父を思う』 (前山隆)
出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版

竹越 與三郎(たけこし よさぶろう)

慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和25年(1950年)1月12日)
武蔵国(現在の埼玉県)出身の歴史学者・殖民学者・政治家。
衆議院議員・枢密顧問官・貴族院勅選議員・宮内省臨時帝室編修局御用掛、編修官長などを歴任した。
正四位勲一等瑞宝章。号は三叉(さんさ)。
慶応義塾在学中から執筆活動をはじめ、時事新報社などを経て徳冨蘇峰と知り合い民友社にはいった。
後、国粋主義に傾倒していった蘇峰と対立し、民友社を退社。
その後陸奥宗光・西園寺公望らの世話を受けて、明治29年(1896年)に『世界の日本』の主筆に迎えられ、同年開拓社より、代表作となる日本通史『二千五百年史』が刊行された。
神武天皇の東征を天孫人種と土着人種の民俗対立と捉えるなど、文明史の立場から皇国史観とは違う視点から日本史を論じて版を重ねた。
竹越の著作は歴史上における国民または個人の思想動向とその分析の重要性と時期区分とその変化の法則性把握を提唱し、歴史における経済的要因を重視するなど、市民的立場からみた発展的歴史観を示した。
また、ブルジョワ自由主義・ダーウィニズム的文明史観の立場から私有財産の永続性と個人の自由を人類史の到達点とみなして、社会主義や軍国主義には強く反対して以後の彼の政治活動を規定するに至った。
また、死去まで慶應義塾評議員を務めた。

川島 浪速(かわしま なにわ)

写真は「Web週間長野」からお借りしました。
慶応元年12月7日(1866年1月23日) - 昭和24年(1949年)6月14日
日本の大陸浪人。満蒙独立運動の先駆者として知られる。 松本藩士の生まれ。
若くして上京し、中国語をマスターして通訳となる。
排外思想に駆られ、各国公使館を囲み大暴動と化した1900年の「義和団の乱」では、日本軍が派遣した福島安正将軍(松本市出身、シベリア単騎横断者)の通訳として北京入り。
騒乱での活躍を見込まれ、清王朝が「川島借用」を明治政府に要請。
中国で警察組織の創設や指導をしたことで知られる。
浪速は特に清王朝の実力者、粛親王善耆と意気投合。
"義兄弟"の盟約を交わし、この縁で第14王女、金璧輝(後の川島芳子)を養女にもらい受け、自分の娘として養育。
芳子は「男装の麗人」と呼ばれて一世を風靡した。

斎藤 秀三郎(さいとう ひでさぶろう)

1866年2月16日(慶応2年1月2日) - 1929年(昭和4年)11月9日
明治・大正期を代表する英語学者・教育者。宮城県仙台市出身。
斎藤は多くの教科書を執筆し日本の学校英語を形成したが、辞書・文法書の編纂も数多い。
斎藤の文法理論は、当時その体系的・組織的な構造が画期的と言われたが、現在の視点からすると必ずしも科学的とは言えない。
しかし日本人のような英語を母語としない民族が英語を組織的に学習するには非常に実用的である。
このことは彼の著書が今日に至るまで再版を繰り返し、学習者の支持を受け続けていることによって証明されている。
『Practical English Grammar』は学習用の文法書として現在でも最良の書である。
斎藤には、その人間的魅力伝えるエピソードが幾つもある。有名なものとしては、頑固一徹、自ら恃むところ篤い性格で、大正年間のある時酔って帝劇に行き、日本公演中のシェークスピア劇団の俳優の発音が間違っているのを見て「お前らの英語はなっちゃいねぇ!」と英語で野次を飛ばし、係員から退去を要請されたという逸話がある。
また、岐阜中学時代、英語教員の資格試験が実施された際、当時の校長から受験を求められた事に対し、「誰が私を試験するのですか」と言って辞職したというエピソードや、自らの学校に外国人教員を採用する際、自らが試験官となって採否を決めた、というエピソードは、斎藤の自らの英語能力に対する自信を見て取ることができる。
斎藤は終生努力の人であり、勉強の人であった。
上記のエピソードは、皆、彼の勉強に裏付けられた自信の現れでもある。
斎藤は両親あての手紙を英語で書き、それを受け取った父親は辞書を引きながら息子の手紙を読んだ、という逸話がある。

神坂 雪佳(かみさか せっか)

慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和17年(1942年)1月4日
京都で活躍した日本画家・図案家である。本名、吉隆(よしたか)。
御所警護の武士・神坂吉重の長男として京都栗田口に生まれる。
1881年、16歳で四条派の日本画家・鈴木瑞彦に師事。
のちに装飾芸術への関心を高め、1890年に図案家・岸光景に師事し工芸図案を学ぶ。
この頃から琳派の研究を始めた。
1901年に各国の図案調査を兼ねて、英国グラスゴー万国博覧会の視察のために渡欧。
当時のヨーロッパではジャポニズムが流行し、日本美術の影響を受けたアール・ヌーヴォーが花開いていた。
そこで日本の優れた装飾芸術を再認識したという。
琳派に傾倒し、デフォルメ・クローズアップ・トリミングを用いた大胆な構図や「たらしこみ」の技法など琳派の影響を受けながらもモダンで明快な作風である。
染織や陶芸・漆芸など暮らしを装う工芸品の図案も積極的に行った。
蒔絵師の神坂祐吉は雪佳の実弟で、雪佳が図案した作品も多い。
2001年、エルメスが発行する雑誌「LE MONDE D`HERMES」の表紙を飾った。

平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう)

慶応2年5月22日(1866年7月4日) - 昭和20年(1945年)11月27日)
明治、大正、昭和初期に活躍した実業家、教育者、政治家。
現在の岐阜市加納生まれ。1890年高等商業学校(現一橋大学)を首席で卒業。
1910年甲南幼稚園設立、1912年甲南尋常小学校設立、1918年甲南中学校設立、1923年旧制甲南高等学校(現甲南大学・甲南高等学校・中学校)設立、1926年甲南学園理事長、1931年甲南病院設立。
1936年には広田弘毅内閣で文部大臣を務めた。
カナモジカイの会員で『漢字廃止論』という本を出版している。
1942年勲一等旭日菊花大綬章。

金子 直吉(かねこ なおきち)

慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日
日本の実業家。
丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の「大番頭」として、大正時代に三井財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ、財界のナポレオンともいわれたが、昭和2年3月の金融恐慌で、台湾銀行による新規融資が打ち切られ、三井物産や三菱商事のように系列銀行を持たなかった鈴木商店は、資金調達が不能となり、事業停止・清算に追い込まれた。
鈴木商店崩壊のきっかけとなった米買い占めのデマが原因で、その汚名から社会的配慮に欠ける商人と解されることもあった。
一方で、現場主導の分権的経営という『日本的経営』の一つのモデルを試みた起業家の一人であり、また強引と見られる事業の拡張も、貿易の主導権を日本人の手に、という明治のナショナリズムに突き動かされたものであった。
倒産後に私財蓄財がなかったこともその表れである。
鈴木商店焼打ちをテーマにした小説に城山三郎著『鼠』がある。
子息に、東京大学文学部長を勤めた哲学者の金子武蔵がいる。

光永 星郎(みつなが ほしお)

慶応2年7月26日(1866年9月4日) - 昭和20年(1945年)2月20日
日本の広告代理店・電通の創業者(より正確には、日本広告および日本電報通信社の創業者)である。
光永は当初は政治家を志し、野党の政治家らと共に政府批判を展開したが、1887年(明治20年)に保安条例違反により、東京から3里以内に入ることを禁じられた。
このとき、尾崎行雄、星亨、中江兆民らが同様に追放処分を受けている。
のち、めさまし新聞や福岡日日新聞などに寄稿するようになり、日清戦争時には従軍記者として中国に向かう。
この時、通信手段の不備が原因でせっかく書いた記事の掲載が大幅に遅れた経験から、通信社の設立を構想するようになる。
同時に広告代理店を設立し、新聞社から得る通信料と新聞社に支払う広告料を相殺することを思い立つ。
光永の採ったこの方式は、近代的通信社の先駆であるフランスのアヴァスと同様の発想に基づいていた。
通信業を興すには莫大な先行投資を要することから、光永は広告代理店を先に設立した。
しかし、10万円としていた資本金のうち、実際に調達できたのは5000円に過ぎなかった。
1901年(明治34年)7月1日、光永は電報通信社を創業。
11月、同社を日本広告に併設した。
5年後の1906年(明治39年)12月27日、「日本電報通信社」(以下「電通」)を興し、「電報通信社」を買収した。
1907年には、アメリカ合衆国で創業したばかりのUP(United Press Association、現在のUPI)と通信契約を締結した。
1931年(昭和6年)の満州事変後、国内の情報通信機関を一元化するため、電通と競合していた新聞聯合社との合併を図る動きが浮上した。
光永は強硬に反発したが、かなわなかった。
1936年(昭和11年)、新聞聯合社の後身「同盟通信社」が誕生すると、電通は通信部を同盟に譲渡。
以後、電通は広告専門業者として再出発した。

藤井 健次郎(ふじい けんじろう)

「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より
慶応2年10月5日(1866年11月11日) - 昭和27年(1952年)1月11日
日本の植物学者。石川県金沢生まれ。東京帝国大学生物学科卒業。
1901年からドイツ、英国に留学、植物形態学、細胞学、化石学などを学び帰国。
1911年、東京帝国大学教授。
1918年、日本初の遺伝学講座の新設(同大学理学部植物学科に設置)にあたり、細胞遺伝学を研究し、1929年、国際細胞学雑誌「キトロギア」を創刊した。
「遺伝子」の命名者で、細胞核中の染色体のらせん構造を発見。
1950年、文化勲章受章。
『普通教育 植物学教科書』(開成館、1906年/明治39年)、『女子理科 植物教科書』(開成館、1913年/大正2年)などを著す。

木村 駿吉(きむら しゅんきち)

1866年11月12日(慶応2年10月6日) - 1938年10月6日
江戸生まれの日本海軍の軍属(教授、技師)、教育者、特許弁理士。
帝国大学理科大学物理学科を卒業、さらに大学院で学ぶ。
1893年-1896年にはアメリカのハーバード大学院・イェール大学で学ぶ。
海軍時代に艦船用無線電信機を開発し、日露戦争の日本海海戦を勝利に導いたといわれる。
この電信機は、逓信省の技師・松代松之助が作り上げていた実験機を、海軍技師であった木村駿吉が大幅に改良した三六式無線電信機で、この無線機により「信濃丸」のバルチック艦隊発見が通報され、また、日本海海戦中も艦船間の情報交換が可能となり、通信技術に劣ったロシア軍より優位に立つことができた。
ちなみに、無線機の電源は、島津製作所が国産第1号として開発した蓄電池だった。
海軍退職後に、日本無線電信電話会社取締役となった。

荒木 寅三郎(あらき とらさぶろう)

1866年11月23日(慶応2年10月17日)-1942年1月28日
群馬県出身の医学者。京都帝国大学総長、学習院長や枢密顧問官を歴任する。
東京帝国大学医科大学別課医学科を卒業した後、郷里で医師として家業を継ぐ。
その後再び上京し、シュトラースブルク大学留学などを経て、1903年(明治36)には京都帝国大学医科大学長となり、1915年(大正4)4月に、京都帝国大学で初めて公選により総長に就任。
京都帝国大学総長在任中の1919年(大正8)には帝国学士院会員に選定される。
総長辞任後の1929年(昭和4)に京都帝国大学名誉教授となり、同年10月には学習院院長に任命される。
1937年(昭和12)4月に枢密顧問官に親任される。
彼の研究は多方面にわたったが、代表的なものは志賀潔発見の赤痢菌と異なる2種の菌(駒込A、B菌)を発見して赤痢病原多元説を樹立したこと、および鼠咬症の病原体を分離し鼠咬症スピロヘータと命名した業績である。
娘は陸軍軍医中将石井四郎に嫁いだ。

井上 通泰(いのうえ みちやす)

慶応2年12月21日(1867年1月26日) - 1941年7月14日
明治期に活躍した桂園派歌人・国文学者、また眼科を専門とする医師でもあった。
名は一にツウタイと通称する。幼名泰蔵。別号南天荘。
12歳で医師井上碩平の養子となる。
1880年(明治13年)、東京帝国大学医学部予科に入学し、あわせて桂園派の和歌を学びはじめ、この頃より森鴎外と終生の交友を結ぶ。
大学卒業と同時に医科大学付属病院眼科助手、2年後には姫路病院眼科医長、さらに岡山医学専門学校教授(眼科)となる。
1902年(明治35年)上京して井上眼科医院を東京丸の内内幸町に開業。
上京後は鴎外との交友が復活、また宮中関係の歌人と近くなり1907年に御歌所寄人(おうたどころよりうど)となる。
1916年から『明治天皇御集』(宮内省・文部省)の編纂に従事。
1920年(大正9年)、宮中顧問官となった。
1926年(大正15年)には還暦を迎えたことを期に医業を畳み、歌と国文学研究に専心していった。
1938年(昭和13年)、貴族院勅選議員となった。
兄弟はそれぞれがそれぞれの分野で業績を残し、世に「松岡五兄弟」としてつとに有名。
1992年(平成4年)秋に、姫路文学館で『松岡五兄弟  松岡鼎・井上通泰・柳田国男・松岡静雄・松岡映丘』展が催された。

宮武 外骨(みやたけがいこつ)

慶応3年1月18日(1867年2月22日) - 昭和30年(1955年)7月28日
明治~昭和期のジャーナリスト、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。
幼名は亀四郎。
現在の香川県綾歌郡綾川町小野に庄屋宮武家の四男として生まれた。
反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けた。
外骨の出版した刊行物の中でももっとも有名な『滑稽新聞』は、明治34年に大阪で創刊され、記事の大半を自ら書いた。
寄稿は編集者によるものを含め、ほとんどがペンネーム。
時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い、現代の週刊誌に相当する内容で、外骨の記事は巧みに仕込まれた毒とパロディー精神に富み、さらに挿絵も腕の良い職人の手になるもので、一般大衆に人気を博した。
最盛期の部数は8万部。
この時代の雑誌としてはトップクラスの売れ行きだった。

豊田 佐吉(とよだ さきち)

1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日
日本の実業家、発明家。豊田自動織機の創業者。
1890年に東京での内国勧業博覧会にて外国製織機の設計を参考にして「豊田式木製人力織機」を発明。
この「木製人力織機」はコストの安い木を多用して当時まだまだ高価だった金属類は必要最小限に抑えた為、当時主流だった外国産の機械より一桁安い価格で瞬く間にシェアを広げた(この無駄を抑える発想は後の『トヨタ生産方式』の原点となる)。
1902年に豊田商会を設立、今日のトヨタグループの礎を築く。

伊東 忠太(いとう ちゅうた)

慶応3年10月26日(1867年11月21日) - 昭和29年(1954年)4月7日
山形県米沢市出身の明治~昭和期の建築家、建築史家。
号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・米沢市名誉市民・第一号。早稲田大学教授。
1943年には建築界ではじめて文化勲章を受章。
法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。
また「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の様式を持った作品を残した。
平安神宮の設計、明治神宮や築地本願寺、阪急百貨店梅田本店の旧ドーム状コンコースなどの作品を残した。

田島 錦治(たじま きんじ)

慶応3年(1867年) - 昭和9年(1934年)
東京都出身の経済学者。
号は「赤城」。京都帝国大学初代経済学部長。立命館大学第2代学監。同大学第3代学長。財団法人立命館初代協議員。大日本武徳会弓道範士。日本漕艇協会第三代会長。関西漕艇協会初代会長。帝国学士院会員。
旧制一高から帝国大学法科大学政治学科に進学し、経済学者・社会政策学者で東大七博士の一人に数えられた金井延の指導を受け、欧米留学も経験した。
帰国後は京都帝国大学法科大学にて「経済理論」、「財政学」の講義を担当。
京大法科から経済学部が独立したのを機に、1919年(大正8年)京都帝国大学初代経済学部長に就任。
京大在職中は、東京商科大学(現在の一橋大学)からの学生受け入れや、河上肇の招聘など、京大の自由な学風の確立に貢献した。
京大退職後は立命館大学の学監・学長に就任。主に経済学部の拡充に務めた。
また滝川事件で京大を退職した教授陣の受け入れにも奔走した。

岸 清一(きし せいいち)

1867年-1933年
弁護士、スポーツ功労者
慶応3年7月4日生まれ。
帝国大学在学中ボート選手として活躍。
卒業後弁護士となり、民事訴訟法の権威として知られる。
大日本体育協会会長、IOC委員もつとめた。
現在も東京都渋谷区の岸記念体育会館にその名を残す。

関野 貞(せきの ただし)

慶応3年12月15日(1868年1月9日) - 昭和10年(1935年)7月29日
日本の建築史家、東大教授。文化財の保存に努めたことで知られる。
高田藩士の家に生まれる。東京帝国大学工部大学造家学科(建築学科)を卒業。
卒業論文は平等院の研究であった。
辰野金吾の指揮下に日本銀行の工事に参加する。
古社寺保存法が立案された1896年に伊東忠太の勧めで内務省技師、奈良県技師となり、奈良の古建築を調査し、建築年代を判定していった。
1889年には平城宮址を発見し、1922年、国の史跡に指定された。
1910年朝鮮総督府からの委嘱で、度々朝鮮半島や中国の古建築調査を行い、保護に努めた。
『朝鮮古蹟図譜』により、フランス学士院からスタニスラス・ジュリアン賞を受賞。
1906年清国に派遣され、中国建築の研究にも手を染める。
1929年東方文化学院東京研究所で、「支那歴代帝王陵の研究」や「遼金時代の建築とその仏像」などを研究した。

鈴木米次郎(すずき よねじろう)

慶応4年2月6日(1868年2月28日)-昭和15年(1940年)12月28日
東京出身の明治-昭和前期の音楽教育家。
東京音楽学校の第一期生。
母校の東京音楽学校(現東京芸大)や東京高師で教え、明治40年東洋音楽学校(現東京音大)を創立、校長となる。
また点字の箏曲(そうきょく)記譜法を考案した。
著作に「楽典大要」。唱歌に「赤穂浪士」など。

小川 芋銭(おがわ うせん)

本名:小川茂吉
1868年3月11日(慶応4年2月18日) - 1938年(昭和13年)12月17日
明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家である。
最初は洋画を学んでいたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。
横山大観に認められ、日本美術院同人となる。
生涯のほとんどを茨城県の牛久沼のほとりで農業を営みながら暮らした。
画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。
画号の『芋銭』は、『自分の絵が芋を買う銭(金)になれば』という思いによるという。
身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。
また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから『河童の芋銭』として知られている。
芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、『牛里』の号で俳人としても活発に活動した。
長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があった。

内田 魯庵(うちだ ろあん)

慶応4年4月5日(1868年4月27日) - 1929年(昭和4年)6月29日
明治期の評論家、翻訳家、小説家。本名貢(みつぎ)。
別号不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)など。
江戸下谷車坂六軒町(現東京都台東区)生まれ。
画家の内田巌の父。
小説では知識人の内面の空白や葛藤をリアルに描いた『くれの廿八日』や社会各層の矛盾を風刺的に描いた『社会百面相』が刊行され、社会小説の第一人者として評価される一方、1892年、『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてデビュー(英語からの重訳)。
以後ヴォルテール、アンデルセン、ディケンズ、デュマ、ゾラ、モーパッサン、シェンキェヴィッチ、ワイルドなどの翻訳を発表した。
トルストイ『復活』の翻訳(1905年)も有名。
1901年、書籍部門の顧問として丸善に入社。丸善の顧問を務めるうちに蔵書や書誌・図書館・出版事情といった文壇以外の世界に関心を拡げることになった。
本格的な芭蕉研究から、他愛もない玩具の話にいたるテーマの多彩さは魯庵の意義の一部であり、その思想の鉱脈はいまだに語り尽くされていない。

瀬戸口 藤吉(せとぐち とうきち)

1868年6月28日(慶応4年5月10日) - 1941年(昭和16年)11月8日
鹿児島県出身の音楽家で海軍軍楽師。
「行進曲の父」と称せられる。
軍艦行進曲などの作曲家として知られる。
1882年、海軍の第2回軍楽公募生に応募で採用された。
1904年に海軍軍楽長(軍楽隊長)に昇進し、「海軍軍楽隊への弦楽の導入」「東京への軍楽隊の分遣隊設置」「海軍軍歌の整備編纂」に尽力した。
1917年に海軍軍楽特務少尉を定年退官して後は東京帝国大学やアマチュア・オーケストラで指導するなど、事実上楽壇の表舞台からは退いたが、1937年に愛国行進曲の作曲公募第1位となり再び脚光を浴びることになった。
鹿児島県垂水市では彼の業績を讃えるために、毎年「瀬戸口藤吉翁記念行進曲コンクール」が催されている。

大森 房吉(おおもり ふさきち)

1868年10月30日(明治元年9月15日) - 1923年11月18日
福井県出身の地震学者。
東京帝国大学理科大学(現東京大学)物理学科卒業。「日本地震学の父」とも呼ばれている。
1898年に世界初の連続記録可能な地震計、大森式地震計を開発。
1899年に初期微動継続時間から震源までの距離を決定できることを示す(震源距離の)大森公式を発表した。
1923年に汎太平洋学術会議出席のためオーストラリアに出発したが、その留守中に関東大震災が発生。
シドニーのリバビュー天文台で、この地震が地震計に記録されているのを見、日本で発生した大地震であることを知り、急遽帰国の途についた大森だったが、途上の船上で脳腫瘍のために倒れ、そのまま帰国後に死去した。

徳冨 蘆花(とくとみ ろか)

明治元年10月25日(1868年12月8日) - 昭和2年(1927年)9月18日
熊本生まれの小説家。
徳富蘇峰は実兄。 同志社英学校に学び洗礼を受ける。
同志社を中退後、兄徳富蘇峰の経営する民友社に入る。
民友社の国民新聞に連載した「不如帰」は明治屈指のベストセラーとなり、それに続くエッセイ「自然と人生」などにより一躍人気作家に。
39年(1906)エルサレム巡礼に出、トルストイも訪問。
40年(1907)東京現世田谷区へ転居、半農生活に入る。
国家主義的傾向を強める兄蘇峰とは長らく絶交状態であったが、昭和2年(1927)伊香保で療養中に和解、蘆花は「後のことは頼む」と言い残してその翌日に死去した。

北村 透谷(きたむら とうこく)

1868年12月29日(明治元年11月16日) - 1894年(明治27年)5月16日
明治期に近代的な文芸評論をおこなった人物。詩人。
島崎藤村らに大きな影響を与えた。

丘 浅次郎(おか あさじろう)

明治元年11月18日(1868年12月31日) - 昭和19年(1944年)5月2日
動物学者。
遠江国掛塚(現・静岡県磐田市掛塚)生まれ。帝国大学理科大学選科修了。
ドイツ留学ののち、山口高等学校教授、1897年高等師範学校教授、1929年東京文理科大学講師。
蛭、ホヤなどの分類、発生について研究し、カンテンコケムシ Asajirella gelatinosa Oka,1891などに学名をつけている。
また、進化論の啓蒙活動に貢献し、旧制中学の生物学教科書を多く執筆した。
1925年帝国学士院会員、日本動物学会会頭。
『丘浅次郎著作集』全5巻がある。
東京文理科大学が母体の一つとなった筑波大学の生物学類標本室には、ホヤ類の正基準標本が20点ほど所蔵されている。
丘は国際補助語にも関心を寄せており、ヴォラピュクを学んだほか、ラテン語などを基にした「Zilengo」(ズィレンゴ)という人工言語を考案していた(1889年頃と推定。
ウィキペディアのエスペラント版であるVikipedio{ヴィキペディーオ}には、この言語に関する説明がある。
なお、この"Zilengo"という言語名は、この言語で「我々の言語」の意である)。
その後、ドイツ留学中の1891年にエスペラント(発表は1887年)を知り、(アッサリと宗旨替えして)日本人初のエスペランティストとなった。
そして、1906年に黒板勝美らと共に日本エスペラント協会(現在の日本エスペラント学会の前身)を設立した。

田中頼璋(たなか らいしょう)

1868年(慶応2年)~1940年(昭和15年)
明治から昭和初期にかけて活躍した島根県出身の日本画家。
17歳で画家を志し、森寛斎について画技をみがく。
32歳のとき上京し日本画の大家・川端玉章画伯に師事し、主に山水画を得意としトラを描いた傑作で知られる。
日展の前身である帝国美術院展覧会委員を務めるなどして活躍したが、関東大震災を機に広島に居を移し後進の育成に努めた。

関豊太郎 (せき とよたろう)

写真はサイト「たばこワールド」からお借りしました。
1868-1955
明治-昭和時代の土壌学者。 慶応4年6月生まれ。
盛岡高農教授をへて,農林省農事試験場に勤務。火山灰土壌とその改良方法を研究した。
昭和2年日本土壌肥料学会初代会長。
東京農大教授。
昭和30年3月20日死去。86歳。江戸出身。帝国大学卒。
著作に「新撰(しんせん)提要土壌学」「土」。

大町 桂月(おおまち けいげつ)

1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日
日本の高知市出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。
雅号の桂浜月下漁郎はよさこい節にも唄われる月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。東京帝国大学国文科卒。
和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。
北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介、北海道層雲峡の名付け親でもある。
大雪山系の黒岳の近くには、彼の名にちなんだ桂月岳という山がある。
故郷の桂浜には「見よや見よ みな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ」の歌の碑がある。
1904年(明治37年)9月に『明星』に発表された与謝野晶子の「きみ死にたまうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と『太陽』誌上で非難している。
これに対して与謝野晶子は『明星』11月号で「ひらきぶみ」を発表し、「歌はまことの心を歌うもの」と弁明している。

那波 光雄 (なわ みつお)

1869年8月10日~1960年4月1日
鉄道・橋梁技師、工博、東大教授、第19代土木学会会長 東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、関西鉄道会社に入り、揖斐川橋梁の設計及び架設工事に従事。
京都帝国大学助教授、ドイツ留学、京都帝国大学理工科大学教授等を経て帝国鉄道庁技師に転じ、日豊線の建設に従事。
明治44年、鉄道院大分建設事務所長となり、大正2年には日豊線大分川橋梁工事において、足場を用いないで施行するわが国最初の起重機による橋桁架設を新案し、実施。
鉄道院時代は鉄道建設規定の改正、構造物の標準設計の制定などに寄与した。

森 小弁 (もり こべん)

明治2年(1869年)10月15日-昭和20年(1945年)
土佐(現在の高知県高知市仁井田)出身の実業家。
主に南洋諸島のトラック諸島(現在のミクロネシア連邦チューク州チューク諸島)で活躍し、現地の女性と結婚したあと水曜島(現在のトル島)の大酋長も務めた人物。
また、歌謡曲の『酋長の娘』や島田啓三の絵物語『冒険ダン吉』(講談社の雑誌『少年倶楽部』に連載された)のモデルとされている(ただし、『冒険ダン吉』に関しては、島田のフィクションと言われている)。
現在のミクロネシア連邦大統領のマニー・モリはひ孫にあたる。

四代目 吉田文五郎(よしだ ぶんごろう)

明治2年10月20日(1869年11月23日) - 昭和37年(1962年)2月21日
大阪府畳屋町生まれ。本名:河村巳之助。
1883年に初代吉田玉助の門下になり松島文楽座に出る。
1909年4代目文五郎を襲名し、1915年からは文楽座人形座頭となった、女形遣いの名手として大正・昭和を通じて人気を集める。
1959年文化功労者。
戦後は人形の首(かしら)の保存に力を入れ明治の古くから受け継いだ首を使用せず4代目大江巳之助に依頼し新たに製作させた。
古い頭は現在でも文雀が中心になって保存し、後世に受け継がれている。

福来 友吉(福來 友吉、ふくらい ともきち)

明治2年11月3日(1869年12月5日) - 昭和27年(1952年)3月13日)
心理学者。岐阜県生まれ。東京帝国大学に学び文学博士。
日本における催眠・超心理学の先駆者。東京帝大助教授のとき、1910年(明治43)から御船千鶴子(みふねちづこ)らについて透視・念写の実験的研究を始め、13年(大正2)『透視と念写』を著し、それらが事実であると発表した。
しかし、大学での研究に適さないとの理由で休職を命じられ、引き続き退職、のち、心霊研究を進めるとともに宣真(せんしん)高等女学校校長、高野山(こうやさん)大学教授を歴任、仙台で死去。
死後同地に「福来心理学研究所」が設立された。
著書に『心理学精義』『催眠心理学』『Clairvoyance and Thoughtography』『心霊と神秘世界』などがある。
Yahoo百科事典[ 執筆者:大谷宗司 ]

上田万秋(うえだ まんしゅう)

1869年-1952年
日本画家。京都生。名は巳之太郎、別号に柳外。京都府画学校卒。
今尾景年に師事する。国内外の博覧会等で受賞を重ね、官展で活躍した。
のち日本自由画壇結成に参加、同人となる。
卓抜した筆技で花鳥画を得意とした。
昭和27年(1952)歿、83才。
出典(株)思文閣

杉田直(すぎた なお)

1869年-1960年
宮崎県出身の眼科医、俳人(俳号は作郎)。
ほとんど独力で医術開業試験に合格、東京大学眼科医局に身を置くまでの歩みには、並々ならぬ努力の積み重ねが見られる。
秋月種樹や高木兼寛に激励され、“日本眼科の父”と称された河本重次郎に師事、眼科医としての歩むべき道を定めた。
1897(明治30)年、わが国で始めて視器を用いた「帝国大学学生の視力」(『日本眼科学会雑誌』第2巻)を発表、医学界の注目を集めた。
この間、俳句結社「秋声会」同人となり、戸川残花・巌谷小波・尾崎紅葉らと親交、のち子規門の「ホトトギス」に入り、内藤鳴雪・夏目漱石・高浜虚子らと交流。
1898(明治31)年帰郷、眼科医院を設立、34歳で宮崎郡医師会長、37歳で宮崎県医師会長。
県医師会館の建設をはじめ、『宮崎県医師会50年史』を編さんするなど、県医学界の発展に貢献した。
~「みやざきの101人」HPより~

木下正中(きのした せいちゅう)

写真は、ブログ「江戸東京医史学散歩(「産科と婦人科」5巻7号[巻頭頁]昭和12年)」 からお借りしました。
1869-1952
明治-昭和時代の産婦人科学者。
明治2年8月19日生まれ。
生理学者でスポーツ評論家の木下東作(とうさく)の兄。
明治30年ドイツに留学。
府立大阪医学校(阪大の前身)医科婦人科長をへて、37年母校東京帝大の教授となる。
大正7年財団法人賛育会を設立し、母性保護事業につとめた。
昭和27年1月1日死去。82歳。
若狭(わかさ)(福井県)出身。著作に「産婆学講義」など。

海外編

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